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2020年5月24日 (日)

モミの木は残ったが,桐の木は残らなかった

先日紹介した「桐の木」。

本日通りかかったら,無残な姿になっていた。

「モミの木は残った」という番組があったが,

「桐の木」は残してもらえなかった。(涙)

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この木なんの木?(5/5)

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心と体」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 無残な姿ですね。
 桐の木があったばしょに、何か建物を増設する工事なのでしょうか。

 建築業者さんは、作業の効率からでしょうか、樹木を目の敵にします。でも大きな木は、そこに至るまで何十年かの生命の営みがあるわけで、それを人間の都合で一瞬にして不意にしてしまうのは、傲慢な所業だと思います。

樹木を残して建物を建てる工夫をすべきです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  無残な姿ですね。
 桐の木があったばしょに、何か建物を増設する工事なのでしょうか。

何が建つのかわかったら,またお知らせします。
畑との行き帰りに通りますので。

〉 樹木を残して建物を建てる工夫をすべきです。

本当にそうして欲しかったです。

門外漢ですが、おかめ八目ということが有るので…
昔 江戸時代… というように、おおざっぱに、
くくらないほうがいいとおもうよ…
肥さんお得意の多元的なんとかですよ…
水田のない所沢や東村山じゃ
米なんて食えるわけがない。御馳走は饂飩でしょ。

離騒庵さんへ
コメントありがとうございます。

この話は、「全国の農民を平均して」ということです。

肥沼さんへ
>この話は、「全国の農民を平均して」ということです。

 適当なことを答えていないで、最新の所沢市史や東村山市史でちゃんと江戸時代のこの地域の農民の暮らしが、史料からどのように復元されているか確かめてください。
 江戸時代の農業はすでに商業的農業ですから、水田のない地域はない地域で、畑作でできる商業的作物、つまり金になる作物を作って売り、それでコメを手に入れていたはずですので。
 ただしコメは高いのでハレの日の食べ物で、本当に特別な日だけ。あとは畑でとれる小麦粉で作ったうどんという可能性はあります。
 少し南の方ですが、東京の小金井近辺では畑作中心だったので、ごちそうはうどんだったとの話は知っています。
 歴史学は日々進歩します。
 そしてそれに伴って歴史認識も深まります。
 自分が中学生や高校生頃に習った歴史の知識で判断しない方がよいです。

 わたしの「徹底検証新しい歴史教科書」の近世編では、いろいろな商品作物を栽培して豊かに暮らしていた農民の姿が描かれています。
 ちゃんと地方史の成果を確認してください。
 所沢や東村山は首都江戸の近郊ですから、確実に首都に売れる商品作物を栽培していたと思います。
 ちなみに川崎は、江戸向けに、野菜や果樹栽培の盛んな地域です。
 果樹として江戸時代に栽培されていたのが、桃と梅。
 この伝統を背景に明治時代には梨の栽培が始まります。

追伸
東村山市のサイトに、最近の市史編纂事業の成果が載せてありました。
http://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/tanoshimi/rekishi/furusato/shishi.html

 この中に雑木林の木々を利用して薪をつくり、江戸に売り込んでいたが、江戸の薪炭問屋との間に訴訟となったという面白い記事がありました。
 また畑では春に大麦・小麦をつくり、その後秋には雑穀を作っているとの記録もありましたよ。
 東村山市史は1968年の刊行のようですから、まだ江戸時代見直しの前。
 その後の市史編纂事業の様子の方が、新しい歴史学の様子が反映されていると思います。

 所沢市はどうでしょうね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

板倉さんの『歴史の見方考え方』では,高知藩の統計を載せていますが,
川瀬さんも江戸時代に一番多く作られていたのが米だということは否定されないでしょう?
この本は,原子論的に(物質不滅の原理をもとにして)歴史を見ていく本ですので,全国平均で考えていくわけです。
個々の村で見て行ったら,いろんな村が出てくるに決まっているのです。
そして,悲惨な村の史料をもとに「アワやヒエしか食べられなかった」と「実証」しているのだと思います。

肥沼さんへ

>川瀬さんも江戸時代に一番多く作られていたのが米だということは否定されないでしょう?
この本は,原子論的に(物質不滅の原理をもとにして)歴史を見ていく本ですので,全国平均で考えていくわけです。

 本当に全国平均で考えているのでしょうか。
 平均ではなくて、全体的な一般的な傾向として、「貧しい」「粟稗しかたべていない」というのは間違いだと指摘しているのだと。

 「一番多く作られたのがコメ」。
 この言い方は意味不明だ。
 食料となる穀物の中で一番多く作られたのはコメ、ならわかる。
 実際には地域によって作られる作物の量は異なる。
 水田地帯はコメ。畑作地帯は麦。そして山村の焼き畑地帯はソバ。
 また商業的農業が発展した水田地帯では、コメよりも綿やイグサなどの売れる作物の方が量も栽培面積も多い。

>個々の村で見て行ったら,いろんな村が出てくるに決まっているのです。
そして,悲惨な村の史料をもとに「アワやヒエしか食べられなかった」と「実証」しているのだと思います。

 そう。個々の村は違う。
 水田地帯と畑作地帯は違うし、さらに畑作でも山村では違う。
 でも全体傾向として商業的農業への傾向は強まり、それぞれ特産物を作って金を儲けていたことは事実。
 そして従来の説は「悲惨な村の史料をもとに「アワやヒエしか食べられなかった」と「実証」」とのご指摘はその通り。

 でもあじすきさんの別のコメントでも触れられているが、農繁期と農閑期では食事の内容も異なる。農繁期はコメの割合が高まり(これは栄養価の問題)、農閑期には稗や粟の割合がたかまる。
 従来説はこうした違いを無視して、農閑期の史料や飢饉のときの史料などを強調しているのだと思う。

 私が肥沼さんのコメントにコメントしたのは、離騒庵さんのコメントが、水田地帯と畑地帯での生活の違い位は捕まえてくれと大事なところを提起していたのに、「全国平均です」の一言で、この大事な提起を無視したから。
 うどんをハレの日の食事にしていた。
 これだって「あわや稗しか食べられない貧農」観とは大いに違う。

 そもそも肥沼さんの書き方では「江戸時代の農民はコメばかり食べている」と読めてしまうのです。

 肥沼さんは「ひさしぶりにクジラの刺身を食べる」では

「板倉さんの『歴史の見方考え方』に,江戸時代の農民は何を食べていたか?という話が出てきて,少なからぬ人が「アワやヒエ」と答えてしまうが,
実際にアワやヒエで重労働の農業ができるわけがないのだ。(正解は,米)」
と書いた。

 しかし次に肥沼さんが「『歴史の見方考え方』の紹介」で書いたことは

「江戸時代の農民のおもなエネルギー源(カロリー源)となっていたのは,次のうち何が一番多かったと思いますか」という問題である。

 とかいた。
 つまり板倉さんは、江戸時代の農民が主なカロリー源としてコメを食べていたことを指摘したのだ。

 カロリー源ということはコメだけ食べていたこととは違う。
 実際農繁期の重労働の時期はコメの割合を増やして粟稗の割合いを減らし、農閑期の労働が軽くなる時期にはコメの割合を減らして粟稗を増やす。
 こうやって労働の質に従ってコメの量を増減していた問のが事実だ。

 肥沼さんはこうした事実を知らないのじゃないかな?

 板倉さんの本の表面的理解だけでその受け売りをしている状態だ。

 もっとちゃんと歴史の勉強をしろ!!!
 私が「徹底検証新しい歴史教科書」で挙げた参考書ぐらい読んでみなさい。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

日本人が米を主食にしたのは、戦後のことらしいですよ。
戦時中に、食糧不足になったのは、今まで米を食べられなかった人が
軍隊に入ると米を食べたからだと高校の社会科の先生が言っていたよ。

離騒庵さんへ
コメントありがとうございます。

〉 軍隊に入ると米を食べたからだと高校の社会科の先生が言っていたよ。

それは「米(玄米)」というより「白米」ということだと思います。
なので,明治期の戦争では,脚気による死亡が,戦死より多かったとか。

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