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2020年2月13日 (木)

怪しすぎる「評」や「郡」の登場回数(2)

川瀬さんのアドバイスに従って,「郡」の散らばり方をグラフにしてみることにします。

まず『日本書紀』の全文検索をしました。

全部で190件ヒットしました。

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日本書紀 巻第六 垂仁天皇紀
阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國府。新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也。一云、初都怒我阿羅斯等、有國之時、黃牛負田器、將往田舍。黃牛忽失、則尋迹覓之、跡留一家中、時有一老夫曰「汝所求牛者、於此家中....→ このページで合計7件ヒット

日本書紀 巻第七 景行天皇~成務天皇
入彥皇子外、七十餘子、皆封國、各如其國。故、當今時謂諸國之別者、卽其別王之苗裔焉。是月、天皇、聞美濃國造名神骨之女、兄名兄遠子・弟名弟遠子、並有國色、則遣大碓命、使察其婦女之容姿。時大碓命、便密通而不復命。由是、恨大碓命。冬十一....→ このページで合計6件ヒット

日本書紀 巻第九 神功皇后紀
荻穗出吾也、於尾田吾田節之淡所居神之有也。」問「亦有耶。」答曰「於天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代主神有之也。」問「亦有耶。」答曰「有無之不知焉。」於是、審神者曰「今不答而更後有言乎。」則對曰「於日向國橘小門之水底所居而水葉稚之出....→ このページで合計2件ヒット

日本書紀 巻第十一 仁徳天皇紀
月、遣紀角宿禰於百濟、始分國壃場、具錄鄕土所出。是時、百濟王之族酒君无禮、由是、紀角宿禰訶責百濟王。時百濟王悚之、以鐵鎖縛酒君、附襲津彥而進上。爰酒君來之、則迅匿于石川錦織首許呂斯之家、則欺之曰「天皇既赦臣罪、故寄汝而活焉。」久....→ このページで合計1件ヒット

日本書紀 巻第十四 雄略天皇紀
。天皇復遣弓削連豐穗、普求國縣、遂於三嶋藍原、執而斬焉。三月、天皇欲親伐新羅、神戒天皇曰「無往也。」天皇由是、不果行、乃勅紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連談、此云箇陀利・小鹿火宿禰等曰「新羅、自居西土、累葉稱臣、朝聘....→ このページで合計9件ヒット

日本書紀 巻第十五 清寧天皇~仁賢天皇
連先祖伊豫來目部小楯、於赤石縮見屯倉首忍海部造細目新室、見市邊押磐皇子々億計・弘計、畏敬兼抱、思奉爲君、奉養甚謹、以私供給、便起柴宮、權奉安置。乘騨馳奏、天皇愕然驚歎、良以愴懷曰「懿哉悅哉、天垂博愛、賜以兩兒。」是月、使小楯持節....→ このページで合計10件ヒット

日本書紀 巻第十七 継体天皇紀
容姝妙甚有媺色、自近江國高嶋三尾之別業、遣使聘于三國坂中井中、此云那、納以爲妃、遂産天皇。天皇幼年、父王薨。振媛廼歎曰「妾、今遠離桑梓、安能得膝養。余歸寧高向高向者、越前國邑名奉養天皇。」天皇壯大、愛士禮賢、意豁如也。天皇年五十....→ このページで合計3件ヒット

日本書紀 巻第十八 安閑天皇~宣化天皇
入之罪。因定伊甚屯倉、今分爲、屬上總國。五月、百濟遣下部脩德嫡德孫・上部都德己州己婁等、來貢常調、別上表。秋七月辛巳朔、詔曰「皇后、雖體同天子而內外之名殊隔。亦可以充屯倉之地、式樹椒庭、後代遺迹。」逎差勅使、簡擇良田。勅使奉勅、....→ このページで合計7件ヒット

日本書紀 巻第十九 欽明天皇紀
寐驚、遣使普求、得自山背國紀深草里、姓字果如所夢。於是、忻喜遍身、歎未曾夢、乃告之曰、汝有何事。答云「無也。但臣向伊勢、商價來還山逢二狼相鬪汙血、乃下馬、洗漱口手、祈請曰『汝、是貴神而樂麁行。儻逢獵士、見禽尤速。』乃抑止相鬪、拭....→ このページで合計23件ヒット

日本書紀 巻第二十 敏達天皇紀
贄子大連・糠手子連令收葬於小西畔丘前、以其妻子・水手等居于石川。於是、大伴糠手子連議曰「聚居一處、恐生其變。」乃以妻子居于石川百濟村、水手等居于石川大伴村。收縛德爾等、置於下百濟阿田村。遣數大夫推問其事、德爾等伏罪言「信是、恩率....→ このページで合計1件ヒット

日本書紀 巻第二十一 用明天皇~崇峻天皇
春日臣闕名字倶率軍兵、從志紀到澁河家。大連、親率子弟與奴軍、築稻城而戰。於是、大連昇衣揩朴枝間、臨射如雨、其軍强盛、塡家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、三𢌞却還。是時、廐戸皇子、束髮於額古俗、年少兒年十五六間束髮於額。十七八間....→ このページで合計1件ヒット

日本書紀 巻第二十二 推古天皇紀
軍來目皇子到于筑紫、乃進屯嶋而聚船舶運軍粮。六月丁未朔己酉、大伴連囓・坂本臣糖手共至自百濟、是時、來目皇子臥病以不果征討。冬十月、百濟僧觀勒來之、仍貢曆本及天文地理書幷遁甲方術之書也。是時、選書生三四人以俾學習於觀勒矣。陽胡史祖....→ このページで合計4件ヒット

日本書紀 巻第二十三 舒明天皇紀
謂岡本宮。是歲、改修理難波大及三韓館。三年春二月辛卯朔庚子、掖玖人歸化。三月庚申朔、百濟王義慈、入王子豐章爲質。秋九月丁巳朔乙亥、幸于津國有間温湯。冬十二月丙戌朔戊戌、天皇至自温湯。四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。....→ このページで合計1件ヒット

日本書紀 巻第二十四 皇極天皇紀
難波津。丁未、遣諸大夫於難波、檢高麗國所貢金銀等、幷其獻物。使人貢獻既訖、而諮云、去年六月、弟王子薨。秋九月、大臣伊梨柯須彌弑大王、幷殺伊梨渠世斯等百八十餘人。仍以弟王子兒爲王。以己同姓都須流金流爲大臣。戊申、饗高麗・百濟於難波<s< span="">....→ このページで合計5件ヒット</s<>

日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀
多從百姓於己、唯得使從國造・領。但以公事往來之時、得騎部內之馬、得飡部內之飯。介以上、奉法必須褒賞、違法當降爵位。判官以下、取他貨賂、二倍徵之、遂以輕重科罪。其長官從者九人、次官從者七人、主典從者五人。若違限外將者、主與所從之人....→ このページで合計17件ヒット

日本書紀 巻第二十六 斉明天皇紀
百八十艘伐蝦夷、齶田・渟代二蝦夷望怖乞降。於是、勒軍陳船於齶田浦、齶田蝦夷恩荷進而誓曰「不爲官軍故持弓矢、但奴等性食肉故持。若爲官軍以儲弓失、齶田浦神知矣。將淸白心仕官朝矣。」仍授恩荷以小乙上、定渟代・津輕二々領。遂於....→ このページで合計12件ヒット

日本書紀 巻第二十七 天智天皇紀
田臣麻呂等、獻寶劒言、於狹夜人禾田穴內獲焉。又日本救高麗軍將等、泊于百濟加巴利濱而燃火焉、灰變爲孔有細響、如鳴鏑。或曰、高麗・百濟終亡之徵乎。元年春正月辛卯朔丁巳、賜百濟佐平鬼室福信矢十萬隻・絲五百斤・綿一千斤・布一千端・韋一千....→ このページで合計10件ヒット

日本書紀 巻第二十八 天武天皇紀上
等三人、急往美濃國・告安八磨湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路。」甲申、將入東時、有一臣奏曰「近江群臣元有謀心、必害天下、則道路難通。何無一人兵徒手入東。臣恐、事不就矣。」天....→ このページで合計16件ヒット

日本書紀 巻第二十九 天武天皇紀下
壬寅、備後國司、獲白雉於龜石而貢。乃當課役悉免、仍大赦天下。是月、聚書生、始寫一切經於川原寺。夏四月丙辰朔己巳、欲遣侍大來皇女于天照太神宮、而令居泊瀬齋宮。是、先潔身、稍近神之所也。五月乙酉朔、詔公卿大夫及諸臣連幷伴造....→ このページで合計23件ヒット

日本書紀 巻第三十 持統天皇紀
。丙辰、務大肆陸奧國優𡺸曇城養蝦夷脂利古男、麻呂與鐵折、請剔鬢髮爲沙門。詔曰「麻呂等、少而閑雅寡欲。遂至於此、蔬食持戒。可隨所請、出家修道。」庚申、宴公卿賜袍袴。辛酉、新羅使人田中朝臣法麻呂等、還自新羅。 壬戌、詔出雲國司、上送遭....→ このページで合計32件ヒット

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これらを1件1点の●でグラフ化してみることにする。

スタートやピークが明らかになるだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

神武 0

綏靖 0


安寧 0


懿徳 0


孝昭 0


孝安 0


孝霊 0


孝元 0


開化 0


崇神 0


垂仁 ●●●●●●● 7


景行・成務 ●●●●●● 6


仲哀 0


神功 ●● 2


応神 0


仁徳 ● 1


履中・反正 0


允恭・安康 0


雄略 ●●●●●●●●● 9


清寧・顕宗・仁賢 ●●●●●●●●●● 10


武烈 0


継体 ●●● 3


安康・宣化 ●●●●●●●●● 9


欽明 ●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●● 23


敏達 ● 1


用明 ● 1


崇峻 0


推古 ●●●● 4


舒明 ● 1


皇極 ●●●●● 5


孝徳 ●●●●●●●●●● ●●●●●●● 17


斉明 ●●●●●●●●●● ●● 12


天智 ●●●●●●●●●● 10


天武 ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●● 39


持統 ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●● 32
 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんはこのグラフをどう分析しますか?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 肥沼さんはこのグラフをどう分析しますか?

もう一つ別なグラフと組み合わせる必要があるかなあ,と考えています。
川瀬さんはこのグラフをどう分析されましたか?

肥沼さんへ

>もう一つ別なグラフと組み合わせる必要があるかなあ,と考えています。
 つまりこれだけではわからないということかな? どんなグラフと組み合わせるのでしょうかね。

 私の分析。
 個々の記事の精査が必要ですが、その前の見通しとして。
 二つのピークがあります。
 一つは欽明紀の23件。
 もう一つは孝徳紀の17件とそれ以後の非常に多い数。
 孝徳紀には例の大化二年の全国に国郡里の制度を敷くとの詔があり、これは国評里制度の全国施行だと考えると合点が行きます。
 では欽明紀は。
 この前の安閑紀に、難波津に官家をつくり、全国の屯倉の税を集めるとの詔があり、各地を有力な家臣に任せたとの記事があります。つまりここで全国統治体制の整備に動いたと考えられる。ここをヒントにすると、欽明紀に郡記事が多いのは、この時期に九州王朝がその固有の領土、すなわち畿内に評制を敷いたと仮説を立てることができますね。
 そのうえで最初の垂仁紀以後の郡記事のひとつひとつを精査する必要があるでしょう。
 つまり書紀では昔の逸話を記録するに際してその地名を今の地名、つまり国郡里制で表記した可能性が高いです。そうして昔の逸話なのかどうかです。確かめるべきことは。
 そうではなく、何らかの詔や制度の施行にかかわる記事に郡名が出てくれば、それは評名と判断できるかもしれませんね。 

 記事はどれも短いですから、検討する価値はあります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 どんなグラフと組み合わせるのでしょうかね。

はい。前にご紹介した『評制下荷札木簡集成』(東京大学出版会)の中に
「サト表記の紀年銘木簡」という一覧表があり,グラフにしようと思っていたのですが,
スタートが天智紀なので「遅過ぎるかな?」と躊躇していたのです。
この際「ダメもと」でアップしてみますね。

〉  私の分析。
 個々の記事の精査が必要ですが、その前の見通しとして。
 二つのピークがあります。
 一つは欽明紀の23件。
 もう一つは孝徳紀の17件とそれ以後の非常に多い数。
 孝徳紀には例の大化二年の全国に国郡里の制度を敷くとの詔があり、これは国評里制度の全国施行だと考えると合点が行きます。
 では欽明紀は。
 この前の安閑紀に、難波津に官家をつくり、全国の屯倉の税を集めるとの詔があり、各地を有力な家臣に任せたとの記事があります。つまりここで全国統治体制の整備に動いたと考えられる。ここをヒントにすると、欽明紀に郡記事が多いのは、この時期に九州王朝がその固有の領土、すなわち畿内に評制を敷いたと仮説を立てることができますね。
 そのうえで最初の垂仁紀以後の郡記事のひとつひとつを精査する必要があるでしょう。
 つまり書紀では昔の逸話を記録するに際してその地名を今の地名、つまり国郡里制で表記した可能性が高いです。そうして昔の逸話なのかどうかです。確かめるべきことは。
 そうではなく、何らかの詔や制度の施行にかかわる記事に郡名が出てくれば、それは評名と判断できるかもしれませんね。 
 記事はどれも短いですから、検討する価値はあります。

なるほど。検討してみますか。

肥沼さんへ
 垂仁紀の冒頭から順次検討してみましょう。

二年春二月辛未朔己卯、立狹穗姬爲皇后。后生譽津別命、生而天皇愛之、常在左右、及壯而不言。冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也。是歲、任那人蘇那曷叱智請之、欲歸于國。蓋先皇之世來朝未還歟。故敦賞蘇那曷叱智、仍齎赤絹一百匹、賜任那王。然、新羅人遮之於道而奪焉。其二國之怨、始起於是時也。

一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。不知道路、留連嶋浦、自北海𢌞之、經出雲國至於此間也。」是時、遇天皇崩、便留之、仕活目天皇逮于三年。天皇、問都怒我阿羅斯等曰「欲歸汝國耶。」對諮「甚望也。」天皇詔阿羅斯等曰「汝不迷道必速詣之、遇先皇而仕歟。是以、改汝本國名、追負御間城天皇御名、便爲汝國名。」仍以赤織絹給阿羅斯等、返于本土。故、號其國謂彌摩那國、其是之緣也。於是、阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也。

一云、初都怒我阿羅斯等、有國之時、黃牛負田器、將往田舍。黃牛忽失、則尋迹覓之、跡留一郡家中、時有一老夫曰「汝所求牛者、於此郡家中。然郡公等曰『由牛所負物而推之、必設殺食。若其主覓至、則以物償耳』卽殺食也。若問牛直欲得何物、莫望財物。便欲得郡內祭神云爾。」俄而郡公等到之曰「牛直欲得何物。」對如老父之教。其所祭神、是白石也、乃以白石授牛直。因以將來置于寢中、其神石化美麗童女。於是、阿羅斯等大歡之欲合、然阿羅斯等去他處之間、童女忽失也。阿羅斯等大驚之、問己婦曰「童女何處去矣。」對曰「向東方。」則尋追求、遂遠浮海以入日本國。所求童女者、詣于難波、爲比賣語曾社神、且至豐國々前郡、復爲比賣語曾社神。並二處見祭焉。

 「都怒我阿羅斯等」説話の箇所ですね。
 岩波本の返り点や読み下しと注を参考にして、現代文にしてみてください。この一連の文における「郡」の意味が分かります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私は「岩波文庫」と「講談社学術文庫(現代語訳)」の両方がありますので,
どうしても現代語訳に頼ってしまうと思います。
あるのに見ないでやるというのも・・・。
川瀬さんは「岩波本の返り点や読み下しと注を参考にして、現代文にしてみてください。
この一連の文における「郡」の意味が分かります。」とおっしゃっていましたが,
現代語訳を見ても「郡」についてよく分かりませんでした。

岩波の読み下し文も講談社学術文庫版日本書紀でも「郡」を無視して読んでいますからね。意味がわからなくなります。
 この「都怒我阿羅斯等」説話は、任那国の国名の由来と、越前敦賀の地名の由来の説話です。
 頭に角の生えた人が渡来したから「角鹿」と命名したのが「敦賀」となり、この都怒我阿羅斯等が故国(加羅)に帰りたいと天皇(崇神天皇=御間城天皇)に申し出たので天皇がその故国を天皇の名にちなんで「御間那=任那」とせよと明示、褒美を与えて帰国させたという話。
●最初の一節。
 阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。
 アラシトは賜った赤絹を己の国の郡府に納めた。
 この「郡府」を岩波本は「くら」とルビを打ってしまい、講談社本はそのまま訳した。
 中国の支配下にあったことのある朝鮮半島の国ですから、加羅=任那にはすでに郡制が敷かれていた可能性はあります。そして郡府ですから郡の役所の置かれた場所という意味かもしれません。
 いずれにしろ、これは日本の話ではない。

●次の段。
 一云、初都怒我阿羅斯等、有國之時、黃牛負田器、將往田舍。黃牛忽失、則尋迹覓之、跡留一郡家中、時有一老夫曰「汝所求牛者、於此郡家中。然郡公等曰『由牛所負物而推之、必設殺食。若其主覓至、則以物償耳』卽殺食也。若問牛直欲得何物、莫望財物。便欲得郡內祭神云爾。」俄而郡公等到之曰「牛直欲得何物。」對如老父之教。其所祭神、是白石也、乃以白石授牛直。因以將來置于寢中、其神石化美麗童女。於是、阿羅斯等大歡之欲合、然阿羅斯等去他處之間、童女忽失也。阿羅斯等大驚之、問己婦曰「童女何處去矣。」對曰「向東方。」則尋追求、遂遠浮海以入日本國。所求童女者、詣于難波、爲比賣語曾社神、且至豐國々前郡、復爲比賣語曾社神。並二處見祭焉。
 これはツヌガアラシトが故国にいたときの話が前半だ。つまり加羅国での出来事。
 黄牛に農具を付けて田舎にいったらその牛がたちまち失せ、足跡をたどっていくと「一郡家中」に足跡が続いていた。そこでその「郡家」に入っていくと「郡公」が言うには、「牛は食べてしまった」と。牛がそこにいると教えた老人が言うには「郡公は牛の代わりに財物をとれというだろうから郡内の祭神が欲しいと言え」というので、これしたがって郡公に答えたところ、その祭神は白い石であった。そしてアラシトが寝ている間に白い石は美しい童女に変身したが、アラシトが他に行っている間に忽然と消えてしまった。「童女はいずこに」と問うと「東方に」というので、童女を求めて日本国に来て童女を求めたところ、童女は難波に詣でて比賣語曾社神となったと。もしくは豊国の国前郡に至って、そこで比賣語曾社神となったと。
 「郡家」ですから郡の役所だ。
 つまり加羅国においてはすでに郡制が敷かれていた可能性を示し、その郡を治める長官を郡公といった可能性があるのだが、岩波本は「郡家」に「むら」とルビをふり、「郡公」にも「むらつかさ」とルビを振ったので、講談社本はまたもそのまま現代語訳したのです。

 最後の「且至豐國々前郡、復爲比賣語曾社神」は日本国内の話だが、これは当時郡制が敷かれていたという話ではない。比賣語曾社という神社の由来を語る話であり、この比賣語曾社の一つが所在する場所が、「現在の=書紀編纂時」の「豊前国の国前郡」だったということに過ぎない。
 ただしこの二つ目の話では、ツヌガアラシトが渡来した日本国の場所が「難波」となっているので、本来はこの説話は九州王朝の説話であった可能性を示している。

 まとめて言えば、垂仁紀の郡にかかわる話は、加羅国においてはすでに郡制が敷かれていた可能性を示しているが、日本国においては郡制は敷かれておらず、説話にかかわる場所を「現在の地名=国郡制による」で示したものだと言えますね。
 そして当時の日本にはまだ郡制=評制が敷かれていないことは、次の垂仁三年に渡来した新羅王子、天日槍説話では、地名に郡は一切現れず「邑」と表記されていることでもわかります。
 岩波本が「郡家」に「むら」とルビを振ったのは、新羅王子天日槍説話の用例に依拠したのかもしれません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 まとめて言えば、垂仁紀の郡にかかわる話は、加羅国においてはすでに郡制が敷かれていた可能性を示しているが、日本国においては郡制は敷かれておらず、説話にかかわる場所を「現在の地名=国郡制による」で示したものだと言えますね。
 そして当時の日本にはまだ郡制=評制が敷かれていないことは、次の垂仁三年に渡来した新羅王子、天日槍説話では、地名に郡は一切現れず「邑」と表記されていることでもわかります。
 岩波本が「郡家」に「むら」とルビを振ったのは、新羅王子天日槍説話の用例に依拠したのかもしれません。

このように分析していただけると,今までちんぷんかんぷんだったものが,明瞭になってきます。
もっとも,私がこのように分析的な読みをできるまでにかかる時間は,膨大になり,
かえって川瀬さんの時間を取ってしまうことになると思いました。

景行・成務紀もやってみましょう。
●1
 夫天皇之男女、前後幷八十子。然除日本武尊・稚足彥天皇・五百城入彥皇子外、七十餘子、皆封國郡、各如其國。

 ようするに70人余の子供がいたが、みなどこかに領地を与えられてその王に封じられたという記述。
 ここの「国郡」は領地を示す常套句なので、この時期に郡や評が制定されたわけではない。

●2
 秋八月己酉朔壬子、立稚足彥尊、爲皇太子。是日、命武內宿禰、爲棟梁之臣。初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田社也。
 
 要するに、日本武尊が初めて草薙横刀を佩刀した。この刀は、今、尾張国年魚市郡にある熱田社である。
 昔の説話に関する場所を、今も国郡制で表記しただけ。

●3 成務紀の記述
 四年春二月丙寅朔、詔之曰「我先皇大足彥天皇、聰明神武、膺籙受圖、洽天順人、撥賊反正、德侔覆燾、道協造化。是以、普天率土、莫不王臣、稟氣懷靈、何非得處。今朕嗣踐寶祚、夙夜兢惕。然、黎元蠢爾、不悛野心。是、國郡無君長、縣邑無首渠者焉。自今以後、國郡立長、縣邑置首。卽取當國之幹了者、任其國郡之首長、是爲中區之蕃屏也。」

五年秋九月、令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置、並賜楯矛以爲表。則隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱、南北爲日横、山陽曰影面、山陰曰背面。是以、百姓安居、天下無事焉。

 要するに国郡を立てて長を造り、縣邑には稻置を置いた記事。
 この詔は近畿天皇家の成務のものに偽装してあるが、詔の冒頭に主語がないことから、本来は九州王朝の詔と思われます。そして詔の中に先帝が大いに賊を滅ぼして天下を平定したが、我が即位したのちは諸国は今だ静まらない。この理由を考えると「国郡には君長がなく、縣邑には首渠者がない」からだと気が付いた。そこで国郡には長を立て、縣邑には首を置き、それぞれの地の有力者をこれに充てれば、彼らは「中區之蕃屏」となるであろうとした。
 そして翌年そのように実施したとの記事だ。
 この「中區之蕃屏」が曲者だ。
 岩波本は「中区」を王城の地と理解して、それを守る諸公としたと理解した。
 だが「中区」が王城の地なら、九州王朝こそこの用語を使うにふさわしい。
 となるとこの記述は、九州王朝の領域、それも「中区」だからその畿内の領域に「国郡・県邑」の行政区分を置き、それぞれに長を定めたとの意味になる。
 しかし五年秋九月の記事を読むと山川を境にして分けたのは「国県」であって、さらに道に従って定めたのは邑だ。どこにも郡はない。
 ということはここで「国郡」「県邑」と対句にして記述したのは、岩波本の解釈の通りに、中国風の潤色と解釈できますね。
 つまり景行・成務紀の郡も郡=評制施行の記事ではない。
 

私の時間を使うことを気にするのなら、最初から書紀の解読などに手を付けなければよいのです。私ならこの程度の白文をよむのに1時間はかかりません。数分です。岩波の読み下しと注を参考にして白文を自分で読み解く。たいしたことはありません。
 どのみち書紀全文解読はやらなければならないことですから。
 どうやら古田史学系の皆さんは、私が「主語有無の論証」の使い方をお教えしてもそれで読んでみようとはしないようです。肥沼さんと同様に漢文の白文の前で躊躇っているんでしょうね。
 でも、自分で漢文を読めるように努力しないといけないですね。でないと古代史を研究する資格はない。

ついでに神功紀も見ておきましょう。

●1
 答曰「幡荻穗出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也。」

 神功紀の冒頭。夫の仲哀が「熊襲ではなく新羅を討て」と神が託宣したのにいうことを聞かずに横死したことに鑑み、夫に託宣した神の名を問いただした箇所の2柱目のところ。
 「尾田吾田節之淡郡」に居する神とはだれのことか。古来から論争はあるが、岩波本の補中9の3には次のように記している。志摩国の答志(たふし)郡にある伊雑宮だと。そしてこれは答志(たふし)郡の粟島坐伊射波神社だと。そして折口信夫の説を引く。つまり、もとは「尾田吾田田節」だったのが書写の過程で「田」の字が一字抜けた。読みは「尾田縣(吾田)」の「田節(たふし)」の「粟(淡)」の郡(こおり)ではないかと。
 このように読むとこの「郡」は行政区画といっても、縣の下位になるので「邑=むら」と読むべきだろう。

●2
 魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

 これは有名な魏志からの引用文。ここで倭女王の使いの大夫難斗米らが詣でた郡とは、中国漢王朝が朝鮮半島に置いた帯方郡のことである。

 神功紀の郡記述も、倭国における郡=評制施行の記録ではなかった。

 こうやってじっくり検討すればよいのです。
 私は岩波本の読み下しと注を参考にして白文を読みますが、肥沼さんは、岩波本の読み下しと注、さらには講談社本の現代語訳を相互に参照して、講談社本の現代語訳を、さらに正確な、原文(白文)により忠実な現代語訳にしてみれば、わかることだと思います。
 あきらめずに挑戦してみましょう。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  つまり景行・成務紀の郡も郡=評制施行の記事ではない。

〉  神功紀の郡記述も、倭国における郡=評制施行の記録ではなかった。

〉 こうやってじっくり検討すればよいのです。
 私は岩波本の読み下しと注を参考にして白文を読みますが、肥沼さんは、岩波本の読み下しと注、さらには講談社本の現代語訳を相互に参照して、講談社本の現代語訳を、さらに正確な、原文(白文)により忠実な現代語訳にしてみれば、わかることだと思います。
 あきらめずに挑戦してみましょう。

川瀬さんの分析を読ませていただくと,「なるほど!」と思うのですが・・・。

肥沼さんへ

 こんな短い漢文を白文で読み解くことを躊躇するとは。「古代史を研究している」など公言する資格はないですね。
 これから中原図書館にいって明治の新聞を読みに行ってきます.。明治26年の10月分。
 夜か明日の朝続きをやります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 こんな短い漢文を白文で読み解くことを躊躇するとは。「古代史を研究している」など公言する資格はないですね。

残念ながら,川瀬さんの定義では,そういうことになってしまいますね。

>〉 こんな短い漢文を白文で読み解くことを躊躇するとは。「古代史を研究している」など公言する資格はないですね。
残念ながら,川瀬さんの定義では,そういうことになってしまいますね。

 古代史を研究するには漢文史料を白文で読解できることが条件というのは、私が考えたことではなく常識です。プロの研究者で白文の漢文を読めないなど言ったら笑われます。
 漢文を読めないまま「古代史を研究している」など公言しているのは、単なる古代史ファンだけですよ。つまり「古田史学系」の研究者を自称している方はみな、ただの古代史ファンです。

 どうやら肥沼さんは書紀を漢文で読解することに挑戦する気はないようですね。
史料は読解が基本。単なる統計処理では歴史の真実はわかりません。

仁徳紀の郡記事の精査

卌一年春三月、遣紀角宿禰於百濟、始分國郡壃場、具錄鄕土所出。

 これは明らかに九州王朝の事績だ。紀角宿禰を百済に遣わした主語が省略されている。
 41年春三月に、紀角宿祢を百済に遣わし、初めて国郡の境を分けしめ、具に(つぶさに)郷土の所出(産出品)を記録せしむ。

 素直に読めば百済国に初めて国郡制を敷いたと読める。この郡を評と読むことも可能だ。
 しかしこれでは余りに倭国における国郡制(ただしくは国評制)施行の年次とかけ離れているので、作り話と思われたのだろう。
 岩波本の注を読むと従来はこれを大化元年7月10日の条の百済の使に対する詔の中に、任那の国境を観察させたり出した国と品物を明記するよう命じたことが見えるので、この記事をもとにした創作だと津田左右吉が考えたと記している。
 しかし大化元年の百済に対する詔では「国の境」であって「国郡の境」ではない。
 おそらく通説は「国郡の境を分けた」の「国郡」を中国の例に倣った文飾とみているのだろうが、朝鮮半島は倭国より先進国で、中国に直接統治を受けた地域だ。倭国より早くに国郡制が敷かれても不思議ではないし、評制という独自の制度を敷いても不思議ではない。
 倭国における国郡制(国評制)の初出ではないが、注意は必要だ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 倭国における国郡制(国評制)の初出ではないが、注意は必要だ。

なるほど。

●雄略紀の郡記事の精査

●1
 九年春二月甲子朔、遣凡河內直香賜與采女、祠胸方神。香賜、既至壇所香賜、此云舸拕夫及將行事、姧其采女。天皇聞之曰「詞神祈福、可不愼歟。」乃遣難波日鷹吉士將誅之、時香賜退逃亡不在。天皇復遣弓削連豐穗、普求國郡縣、遂於三嶋郡藍原、執而斬焉。

 ここは凡河內直香賜と采女を遣わした主体が省略されているから九州王朝の事績だ。
 9年春二月甲子朔の日、凡河內直香賜と采女を遣わして胸方(宗像)の神を祭らしめた。香賜はすでに壇所に至りてまさに事行われんとするときに、その采女を犯した。天皇は(これは九州王朝の天皇9はこれを聞いて曰く「神を祭りて福を祈る、まさに慎むべきや」。すなわち難波日鷹吉士を遣わしてこれを(香賜を)まさに誅せしめんとす。時に香賜は退き逃げうせて居らず。天皇また弓削連豐穗を遣わしてあまねく国郡県を求めしむ。ついに三嶋郡藍原にて追いつき、捕まえて斬る。

 「あまねく国郡県を求め」とあり、追いついた場所が三嶋郡藍原だと記述した。
 「国郡県」は「あらゆるところ」を中国風に表現したと読め、追いつき切った場所が藍原というところだったので、その場所を現在の国郡制で表記して三嶋郡藍原としたと読むことができる。
 三嶋郡は越後と摂津にある。
 この説話を近畿王朝の話と理解したから摂津国三島郡の安威郷と通説は読んでいるが、はたしてどうだろうか。
 宗像なら筑前国だ。
 筑前周辺の諸国に三嶋郡と藍原がないのだろうか。

●2
 紀小弓宿禰等、卽入新羅、行屠傍郡。行屠、並行並擊。新羅王、夜聞官軍四面鼓聲、知盡得喙地、與數百騎亂走。是以、大敗。

 9年春三月の出来事。1の記事の続きとみれば冒頭の「三月、天皇欲親伐新羅、」の天皇は九州王朝の天皇が新羅を自ら討とうとしたと読むことができる。しかし神が託宣して行くなというので、小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰等に詔して「新羅は高麗からの貢物を妨害し百済の城を取り、我が国に貢物を治めようとしない。汝らを大将として王の軍をもって追討し天罰を与えよ」と。これに対して小鹿火宿禰が大伴談連を通じて妻を失ったばかりと天皇に奏上すると天皇は、吉備上道采女大海を妻として与えそばで世話をするようにとした。

 これを受けて紀小弓宿禰等は新羅に攻め入り、行きて傍らの郡を屠った。新羅王は夜間に官軍が四方で太鼓を打つ音を聞いて、ことごとく喙地(新羅の中心地の慶尚北道慶山)を奪い取られたと思い、数百騎の兵とともに逃走した。これをもって大いに破る。

 新羅での話である。
 すでに新羅では郡制もしくは評制が敷かれていた可能性を示す記録だ。

●3
 秋七月壬辰朔、河內國言「飛鳥戸郡人・田邊史伯孫女者、古市郡人・書首加龍之妻也。・・・・

 河内国が奏上した話。田邊史伯孫が書首加龍に嫁いだ娘が女児を出産したと聞いて婿の家を訪ね月夜に帰る途中で譽田陵下に差し掛かったところ、赤馬に乗った人にであって、あまりの名馬なので自分の馬と交換して家に戻り厩に繋いでおいたら、翌朝埴輪馬となっていた・・・・という話。

 冒頭は「飛鳥戸郡の人・田邊史伯孫の娘は、古市郡の人・書首加龍の妻なり」である。
 昔話の舞台を、現在の国郡制の住所で表記したものと読める。

●4
 十一年夏五月辛亥朔、近江國栗太郡言「白鸕鷀、居于谷上濱。」因詔、置川瀬舍人。

 11年夏5月辛亥朔の日、近江国栗太郡が奏上するには「白い鵜が谷上の浜に居る」と。よって詔し、川瀬舎人を置く。
 詔の主語が省略されている。
 近江国に栗本郡があるので、これだと通説は理解している。はたしてそうだろうか。
 私の理解では、近畿王朝になるまでは滋賀県は.淡海国であって、近江国とは九州の有明海北岸ののちの肥前国を指すと考える。
 したがって古代において肥前に栗太という土地があり、その土地に鵜匠を管理する川瀬舎人がおかれていたことを説明する説話と考える。そしてその土地を現在の国郡制で表記したものと理解できる。

●5
 秋七月、丹波國餘社郡管川人・瑞江浦嶋子、乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是、浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬萊山、歷覩仙衆。語在別卷。

 浦島伝説である。
 秋7月、丹波国の餘社郡の管川の人・瑞江浦嶋子は、船に乗り釣りをしていて、ついに大亀を得たり。たちまち女に変身した。ここにおいて浦島子は感じて妻とした。相従って海に入り、蓬莱山に到達し、仙衆を巡り見た。詳しいことは別の書物にある。

 これも浦島伝説の現場を、現在の国郡制で表記したものと見られる。

●6
 八月庚午朔丙子、天皇疾彌甚、與百寮辭訣並握手歔欷、崩于大殿。遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰「方今、區宇一家、煙火萬里、百姓乂安、四夷賓服。此又天意、欲寧區夏。所以、小心勵己・日愼一日、蓋爲百姓故也、臣・連・伴造毎日朝參、國司・郡司隨時朝集、・・・・・

 いわゆる雄略の遺詔である。
 これは従来から隋書高祖紀の仁寿4年7月の条の詔を借りたものと理解されている。
 それには「王公卿士は毎日王の居所の庭に集まり、刺史以下は三時に朝廷に参集し・・・・」と書かれているのを「臣・連・伴造は毎日朝廷に参じ、国司・郡司は随時朝廷に集まって・・・」と書き換えたものか。つまりは、書紀編纂時の身分制や官制に基づいて「国司郡司」を使ったもの。
 つまりこれも郡制もしくは評制施行の史料ではない。

●7
 是時、征新羅將軍吉備臣尾代、行至吉備國過家、後所率五百蝦夷等聞天皇崩、乃相謂之曰「領制吾國天皇、既崩。時不可失也。」乃相聚結、侵冦傍郡。於是尾代、從家來、會蝦夷於娑婆水門、合戰而射、
 
 先の雄略崩御の話の続き。
 このとき、征新羅将軍の吉備臣尾代は吉備国に至って家を過ぎようとしたところ、後ろに率いていた500人の蝦夷らが天皇崩御を聞いてすわわち、互いに言い合うには「我が国を領制する天皇、すでに崩じた。時失うべからず」と。すなわち集団となって、傍らの郡を侵した。ここにおいて尾代は家より来たり、蝦夷に娑婆水門にて遭遇し、相戦いて射る。・・・・・・

 天皇の死、これを聞いて軍に編入されていた蝦夷が反乱を起こし、周辺の郡を侵したという話。この天皇が九州王朝の天皇なのか、近畿天皇家の大王なのか。征新羅将軍とあるから九州王朝の天皇の死にともなう蝦夷反乱の事例をここに挿入したものか?
 当時すでに吉備国に郡制が敷かれていた史料なのか?
 もとの史料には「傍らの邑」とあったのを、現在の制度に従って郡と表記したものだろうか。
 判断しにくい事例である。

 以上が雄略紀の郡記事の精査。
 最後の事例を除き、新羅の例と、昔ばなしの場所を現在の国郡制で表記したものと判断できる。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

雄略紀の郡記事の精査,
大変興味深く読ませていただきました。

郡記事精査の続き
●清寧紀
 ここの例はすべて雄略が即位する前に殺した市邊押磐皇子の二人の皇子発見の話。

1:二年冬十一月、依大嘗供奉之料、遣於播磨國司、山部連先祖伊豫來目部小楯、於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室、見市邊押磐皇子々億計・弘計、
 
 大嘗祭のために供奉する料のため、播磨国に遣わした司・山辺連の先祖伊豫來目部小楯は、赤石郡の縮見屯倉の首である忍海部造細目の新築の館において、市邊押磐皇子の皇子・億計・弘計を見つけた。

 見つけた場所が縮見屯倉の首の館だった。
 屯倉制度と郡(評)制度は相並び立たない制度だ。屯倉制度は天皇も含めた各豪族それぞれが、私有地と私有民を持っている制度で、郡(評)制度は、そうした私有地私有民を廃止して、すべての土地と民を国家ものとする制度(公地公民制)。
 したがって屯倉があるということは、この出来事は公地公民制が敷かれる前の事件。
 昔の出来事を記述する際に、その場所を現在の国郡制で表記した例。

●顕宗紀

2:於是、天皇與億計王、聞父見射、恐懼皆逃亡自匿。帳內日下部連使主使主、日下部連之名也。使主、此云於瀰與吾田彥吾田彥、使主之子也、竊奉天皇與億計王、避難於丹波國余社郡。使主、遂改名字曰田疾來、尚恐見誅、從茲遁入播磨縮見山石室而自經死。天皇、尚不識使主所之、勸兄億計王、向播磨國赤石郡、倶改字曰丹波小子、就仕於縮見屯倉首。

 顕宗天皇(弟)と兄の億計王は、父が射られたと聞き、恐れ怖じて皆逃亡し自ら隠れた。帳内の日下部連使主は密かに顕宗天皇(弟)と兄の億計王を奉じて、丹波国余社郡に避難した。使主はついに名を改めて田疾來という。なお誅されんことを恐れて、播磨縮見山の石室に遁れ入りて、自ら経死(首を括って死ぬ)す。顕宗天皇(弟)はなお使主がどこに行こうとしたかを知らないので、兄の億計王に勧めて、播磨国赤石郡に向かい、ともに名を改めて丹波小子となのり、縮見屯倉の首に仕えた。

 ここの「丹波国余社郡」「播磨国赤石郡」ともに説話の舞台を現在の国郡制で表記したもの。

3:白髮天皇二年冬十一月。播磨國司山部連先祖伊豫來目部小楯、於赤石郡、親辨新嘗供物一云、巡行郡縣、收斂田租也、適會縮見屯倉首、縱賞新室、・・・・・・・於是、悉發郡民造宮、不日權奉安置、乃詣京都求迎二王。

 二人の皇子の発見談の詳細な部分である。
 播磨国司の山部連先祖伊豫來目部小楯は、赤石郡において、自ら新嘗祭の供物を調達していた(一に言う。郡県を巡行し、田租を集めていたと)。たまたま縮見屯倉の首が新築の家を広く祝うときにであって・・・・・・ここにおいて、郡民をことごとく動員して宮を造り、日を経ずに仮に安置奉り、京都に詣でて二王を迎えんことをもとむ。
 
 ここの「赤石郡」も説話の場所を現在の国郡制で表記したもの。「郡民」は正しくは「屯倉民」であろう。

4:三年春二月丁巳朔、阿閉臣事代、銜命、出使于任那。於是、月神、著人謂之曰「我祖高皇産靈、有預鎔造天地之功、宜以民地、奉我月神。若依請獻我、當福慶。」事代、由是、還京具奏。奉以歌荒樔田歌荒樔田者、在山背國葛野郡也、壹伎縣主先祖押見宿禰、侍祠。

 これは別の話。
 阿閉臣事代は銜命(君名を受け)して、出でて任那に使いす。ここにおいて月神、人について言いて曰く「我が祖高皇産靈は、あらかじめ天地を鎔造の功有り。よって民地をもって我月神を奉らん。もしこの要請によって我を奉れば、まさに福慶あらん」と。事代これによって、京に戻りて具に奏請し、歌荒樔田をもって奉る。この歌荒樔田は山背国葛野郡にあり。壹伎縣主の先祖・押見宿禰が祠に侍る。

 誰が阿閉臣事代に任那に行けと命じたのか。命じた主体が省略されている。「銜命-がんめい」は君命を受けるという特殊用語であるから、これは九州王朝の天皇の命である。「歌」は宇太であり、山背国葛野郡宇太にある月読神社の成立談と解釈されている。
 この「葛野郡」は現在の国郡制でその社のありかを記したもの。

●仁賢紀
5:及穴穗天皇崩、避難於丹波國余社郡。

 これは先の顕宗紀の二人の皇子が丹波國余社郡に難を逃れた話である。
 これも説話の場所を現在の国郡制で表記したもの。

6:五年春二月丁亥朔辛卯、普求國郡散亡佐伯部。以佐伯部仲子之後、爲佐伯造。
 国郡に散亡した佐伯部をあまねく求めしむ。佐伯部仲子の子孫をもって、佐伯造となさしむ。

 佐伯部仲子とは市邊押磐皇子とともに雄略によって殺された舎人のこと。
 佐伯部とは蝦夷(の捕虜)をもって構成された部であるので、鉄を作る職人集団か?あまねく逃げ散った佐伯部を探させた主体が省略されているから、この記事は九州王朝の記事である。だがその全国の佐伯部を新たに管轄させた主体が近畿天皇家の王家の舎人の一人の子孫とは。少々理解し難い。「国郡」の語は、郡制が敷かれていたことを意味せず、全国いたるところを指す常套句か。

7:是歲、日鷹吉士還自高麗、獻工匠須流枳・奴流枳等、今大倭國山邊郡額田邑熟皮高麗、是其後也。

 この記事の直前の6年の秋の条に「六年秋九月己酉朔壬子、遣日鷹吉士、使高麗、召巧手者。」とある。
 日鷹吉士を高麗に使者として派遣し「巧手者」を召した主体が省略されている。したがってこの記事は九州王朝の事績である。

 このとし日鷹吉士の高麗より帰りて、工匠須流枳・奴流枳等を献じた。今の大和国山邊郡額田邑の熟皮高麗はその子孫である。

 高麗から連れてこられた技術者の話。その子孫が今の大和国山邊郡額田邑に住んでいるということで、この「大和国山邊郡額田邑」は現在の書紀編纂時の記述である。

 以上が清寧・顕宗・仁賢紀の郡記事精査。
 すべて説話にかかわる所を、今の国郡制で表記したもの。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

現在の国郡制で表記した例が多いですね。

また,「主語有無」の論証も大活躍です。

追伸

 郡記事を精査していて気が付きました。
 郡記事の分布グラフにもう一つ別のグラフを重ねると、評制(郡と表記されている)施行時期が特定できる。
 何のグラフを重ねるかというと「屯倉」の記事分布グラフです。
 コメントにも書きましたが、「屯倉」は天皇も含めた諸豪族が、それぞれ私有地と私有民を支配している状態。「郡=評制」は、そうした一切の私有地私有民を廃止し、すべての土地と民とを国家の支配下に置く制度(公地公民制)。
 だからこのふたつの制度は併存できない。
 郡制(評制)が敷かれて以後は屯倉はないはず。

 書紀全文検索をしてみると、屯倉が出てくるのは孝徳紀までじゃないかな。なぜならこの中の大化2年に公地公民制を敷いた記事があるからです(国郡里制の施行)。
やってみたらドンピシャリ。
 肥沼さんもやってみてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  郡記事を精査していて気が付きました。
 郡記事の分布グラフにもう一つ別のグラフを重ねると、評制(郡と表記されている)施行時期が特定できる。
 何のグラフを重ねるかというと「屯倉」の記事分布グラフです。
 コメントにも書きましたが、「屯倉」は天皇も含めた諸豪族が、それぞれ私有地と私有民を支配している状態。「郡=評制」は、そうした一切の私有地私有民を廃止し、すべての土地と民とを国家の支配下に置く制度(公地公民制)。
 だからこのふたつの制度は併存できない。
 郡制(評制)が敷かれて以後は屯倉はないはず。
 書紀全文検索をしてみると、屯倉が出てくるのは孝徳紀までじゃないかな。なぜならこの中の大化2年に公地公民制を敷いた記事があるからです(国郡里制の施行)。
やってみたらドンピシャリ。
 肥沼さんもやってみてください。

それは素晴らしい!
さっそく本日の記事にさせていただきます。

●継体紀の郡記事精査

1:男大迹天皇更名彥太尊、譽田天皇五世孫、彥主人王之子也、母曰振媛。振媛、活目天皇七世之孫也。天皇父聞振媛顏容姝妙甚有媺色、自近江國高嶋郡三尾之別業、遣使聘于三國坂中井中、此云那、納以爲妃、遂産天皇。

 冒頭の系譜の部分。
 
 男大迹天皇、又の名を彥太尊、譽田天皇(応神)五世の孫、彥主人王の子なり、母は振媛という。振媛は、活目天皇(垂仁)七世の孫なり。天皇の父、振媛の顔容姝妙にして甚だ麗しき色有るを聞きて、近江国高嶋郡三尾の別業より、使いを遣わして三国の坂中井に迎え入れ、納めて妃となす。ついに天皇を産む。
 
 継体の母の生まれた地が「近江国高嶋郡三尾の別業」だったとのこと。これは当時のものではなく、現在の国郡制で表記したものと見られる。対する男大迹の父の在所が「三国」とだけ記され、書紀編纂時の坂井郡三国でないところに注意したい。これが本来の元史料の表記ではないか。

2:八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩、元無男女、可絶繼嗣。壬子、大伴金村大連議曰「方今絶無繼嗣、天下何所繋心。自古迄今、禍由斯起。今、足仲彥天皇五世孫倭彥王、在丹波國桑田郡。請、試設兵仗、夾衞乘輿、就而奉迎、立爲人主。」

 武烈の死後、男大迹王が迎え入れられる前の大王候補招請の話。
 武烈8年冬12月己亥、小泊瀬天皇(武烈)崩ず。もとより男子も女子もなく、継嗣絶ゆべし。壬子の日、大伴金村大連議して曰く「まさに今、絶えて継嗣無し、天下何れの所に心をかけん。古より今に至るまで、禍いこれに拠りて起こる。今、足仲彥天皇(仲哀)の五世の孫・倭彦王、丹波国桑田郡にあり。要請する、試しに兵仗を設けて、挟みて乘輿を守り、行きて迎え奉り、人主になし立てん」。

 大王候補の倭彦王の在所を、書紀編纂時の国郡制で表記し「丹波国桑田郡」としたものであろう。

3:廿二年冬十一月甲寅朔甲子、大將軍物部大連麁鹿火、親與賊帥磐井交戰於筑紫御井郡。

 いわゆる「磐井の乱」の記事。
 大将軍の物部大連麁鹿火、自ら賊の将・磐井と筑紫(国)御井郡で交戦す。
 戦場を現在の国郡制で表記したもの。
 このことは「乱後」にその子筑紫君葛子が糟屋の屯倉を献じたと記されていることが証明している。

 以上が継体紀の郡記事精査。

川瀬さんへ
コメント(継体紀の精査)ありがとうございます。

「郡記事の精査」という観点を持って行うと,
日本書紀が読み解きやすくなりますね。

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