東山道・東海道・北陸道の全文検索(紀には数か所・記にはゼロ!)
私の「日本古代ハイウエーは,九州王朝が作った軍用道路か?」(2012年)は,
家の近くを通る東山道武蔵路から出発したものだった。
なので,所沢市内の東の上遺跡の写真も掲載していただいた。
ところで幸いなことに,その趣旨で研究を進めていただき,
東山道と東海道と北陸道の3つの主要道が,太宰府を起点として作られたというところまで来ている。
では,文献上で,そのことを書いているものはないのか?
「それは『日本書紀』ではないか!」ということを思いついたので,しばらくお付き合い下さい。
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『日本書紀』には,東山道・東海道・北陸道の3つの主要道について書いてある箇所がある。
【東山道】・・・3か所
▼日本書紀 巻第七 景行天皇~成務天皇
月戊子朔壬辰、以彥狹嶋王、拜東山道十五國都督、是豐城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野國。五十六年秋八月、詔御諸別王曰「汝父彥狹嶋王、不得向任所而早薨。故、汝專領東國。」是以、御....→ このページで合計1件ヒット
上記が東山道の初出で,しかも彦狭嶋王を東山道十五国都督に命じた人の名がないので,
川瀬さんの「主語有無」の論証によれば,(主語が書かれていない)九州王朝の天子ということになります。
この文をAとします。
▼日本書紀 巻第二十一 用明天皇~崇峻天皇
年秋七月壬辰朔、遣近江臣滿於東山道使觀蝦夷國境、遣宍人臣鴈於東海道使觀東方濱海諸國境、遣阿倍臣於北陸道使觀越等諸國境。三年春三月、學問尼善信等、自百濟還、住櫻井寺。冬十月、入山取寺材。是歲、度尼、大伴狹手彥連女善德・大伴狛夫人・新....→ このページで合計1件ヒット
上記が2回目の登場で,この文をBとします。
▼日本書紀 巻第二十九 天武天皇紀下
萄・進位淺蒲萄。辛未、詔曰、東山道美濃以東・東海道伊勢以東諸國有位人等、並免課役。八月甲戌朔乙酉、天皇幸于淨土寺。丙戌、幸于川原寺、施稻於衆僧。癸巳、遣耽羅使人等還之。九月甲辰朔壬子、天皇宴于舊宮安殿之庭。是日、皇太子以下至于忍壁....→ このページで合計1件ヒット
上記が3回目の登場で,この文をCとします。
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【東海道】・・・2か所
▼日本書紀 巻第二十一 用明天皇~崇峻天皇
道使觀蝦夷國境、遣宍人臣鴈於東海道使觀東方濱海諸國境、遣阿倍臣於北陸道使觀越等諸國境。三年春三月、學問尼善信等、自百濟還、住櫻井寺。冬十月、入山取寺材。是歲、度尼、大伴狹手彥連女善德・大伴狛夫人・新羅媛善妙・百濟媛妙光、又漢人善聰....→ このページで合計1件ヒット
この文は,東山道のBの文と同じ個所に出てきます。
▼日本書紀 巻第二十九 天武天皇紀下
辛未、詔曰、東山道美濃以東・東海道伊勢以東諸國有位人等、並免課役。八月甲戌朔乙酉、天皇幸于淨土寺。丙戌、幸于川原寺、施稻於衆僧。癸巳、遣耽羅使人等還之。九月甲辰朔壬子、天皇宴于舊宮安殿之庭。是日、皇太子以下至于忍壁皇子、賜布各有差....→ このページで合計1件ヒット
この文は,東山道のCと同じ個所に出てきます。
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【北陸道】・・・1か所
▼日本書紀 巻第二十一 用明天皇~崇峻天皇
觀東方濱海諸國境、遣阿倍臣於北陸道使觀越等諸國境。三年春三月、學問尼善信等、自百濟還、住櫻井寺。冬十月、入山取寺材。是歲、度尼、大伴狹手彥連女善德・大伴狛夫人・新羅媛善妙・百濟媛妙光、又漢人善聰・善通・妙德・法定照・善智聰・善智惠....→ このページで合計1件ヒット
この文は,東山道のBの文と同じ個所に出てきます。
つまり,3つの主要道は,次のような関係で表わされています。
【東山道】 A・B・C
【東海道】 B・C
【北陸道】 B
これを見ると,東山道がまず作られ,都督が九州王朝の天子によって命じられ,
それに続いて東海道や北陸道が作られていったように思われます
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ところで,『日本書紀』はそうかもしれないが,『古事記』はどうなんだ,という方もおられるでしょう。
私もそう思ったので,『古事記』の全文検索もやってみました。
その結果は・・・なんと!東山道も東海道も北陸道もヒットしませんでした。(記事0です)
つまり,これらの3本の主要道は,「九州王朝が作った軍用道路」であるということを
史料の上からも証明してくれるように思うのですが,いかがでしょうか?
ところで,まったく口をつぐんでいた近畿王朝がやっと重い口を開くのは『続日本紀』で,
武蔵国が東山道⇒東海道とコース変更するというものです。
771年(701年に近畿王朝がスタートして70年後)のことでした。
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Bの文章
遣近江臣滿於東山道使觀蝦夷國境、遣宍人臣鴈於東海道使觀東方濱海諸國境、遣阿倍臣於北陸道使觀越等諸國境。
近江臣満を東山道使として遣わし蝦夷国境を観せしめ(詳らかにせしめ)、宍人臣鴈を東海道使として遣わし東方濱海諸國境を観せしめ(詳らかにせしめ)、阿倍臣を北陸道使として遣わし越等諸国境を観せしめ(詳らかにせしめ)た。
つまり東山道・東海道・北陸道のそれぞれの蝦夷との国境を画定したということでしょう。
この記事は崇峻2年。西暦にすると589年。中国で隋王朝が南朝の陳をほろぼし統一した正にその年。明らかに隋との対抗を意識し、倭国の東方境界を確定したということでしょうか。
この三道使を派遣した主語が省略されているので、この記事も九州王朝の事績です。
なお東山道使として派遣された近江臣満ですが、通常はこの氏は今の滋賀県の近江とされていますが、書紀の近江は奈良時代以後の肥前です。この近江が指す「都に近い江」とは有明海のこと。そしてこの有明海北岸の近江を根拠地とする近江臣はしばしば朝鮮にも派遣され、任那を統治し百済や新羅との交渉をやった人物として記録されています。
書紀継体紀の筑紫の君磐井の乱にかかわる記述の前後に「近江臣」は頻出し、中には任那統治にあたって百済や新羅寄りの政策をとったの解任され、任那から近江に舟で戻る途中で客死した人物まであります。そしてその遺体は近江に運ばれて埋葬されるのですが、その経路すべて海路とされているので、内陸の地である滋賀県ではなく、海浜の地である佐賀がドンピシャリです。なお書紀で滋賀県の地は淡海と表記されています。
Cの文章
詔曰、東山道美濃以東・東海道伊勢以東諸國有位人等、並免課役。
これも天武紀の記述だから「天武天皇の詔」と解釈されていますが、「詔す」の主語が省略されていますから、これも九州王朝の天皇の詔です。
壬申の乱で近江朝の軍を天武が打ち破れたのは、東山道の美濃以東と東海道の伊勢以東の諸国の軍勢が天武に味方したからです。そして天武が勝利したからこそ近江宮に「幽閉」されていた九州王朝天皇は解放され、飛鳥の後岡本宮(のエビノコ郭)に滞在したのちに九州に戻れたのです。
だからここで天武の勝利に貢献した東国の位ある人々皆の課役を免除したのです。
この三道のうち、最初に作られたのが東山道で次に東海道・北陸道だったという判断。そしてこれら三道は史料状況からも九州王朝の作ったものとの判断もよいと思います。とくに近畿天皇家の伝承を主な史料として作られた「古事記」にこの三道が出てこないという事実の確認は大きいと思います。
投稿: 川瀬 | 2020年2月 7日 (金) 23:40
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 この三道のうち、最初に作られたのが東山道で次に東海道・北陸道だったという判断。そしてこれら三道は史料状況からも九州王朝の作ったものとの判断もよいと思います。とくに近畿天皇家の伝承を主な史料として作られた「古事記」にこの三道が出てこないという事実の確認は大きいと思います。
ありがとうございます。
これでようやく「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」(2012年)の最後を,
「か?」から「である!」に替えられそうです。
投稿: 肥さん | 2020年2月 8日 (土) 06:18