« 昨日の月 2/2 | トップページ | 梅の木があった頃 »

2020年2月 2日 (日)

〈方位の考古学〉のCM

テレビやラジオでは,時々CMが入ります。

ブログでもそういうのがあっていいのかな?

以下.〈方位の考古学〉のCMです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「方位の考古学」   肥沼孝治

(1) 2016年にスタートした多元的「国分寺」研究と並行して,その延長として武蔵国府の研究を行っていた。すると,磁北が西偏の古代(450〜1150年)=700年間の中で,明らかに「東偏→正方位」とする政策がとれらていることを見出した。この時代日本列島の主権者は九州王朝であり,倭の五王が使いを送ったのも彼ら(隋書タイ国伝)。調べてみたら中国・南朝の都も東偏だった。

(2)そこで,武蔵国府の方位が「東偏→正方位」となっているのを確認した後,全国の古代遺跡を精査すべく,奈良文化財研究所のデータベースに立ち向かった。そして,1000件を超える精査の中で,2つの大きな流れを確認することが出来た。

(3)九州王朝における寺院や官衙の方位の変遷は以下のようにまとめられる。

   ★5世紀中頃まで:西偏(これは方位磁石に従ったもの)

   ★5世紀中頃以後:東偏(これは中国南朝の設計思想に倣ったもの)

   ★6世紀末から7世紀初頭:正方位(これは中国隋王朝の設計思想に倣ったもの)

  ※ 九州王朝における方位の変遷がよくわかる遺跡として「小郡官衙」遺跡がある。資料に付けるので,参照のこと。

 以上のようにきわめて短期間のうちに、寺院や官衙の設計思想に変化がみられる。全国の寺院や官衙の方位の変遷は、九州王朝中枢域におけるその変遷とほぼ同じである。また,九州王朝が、西偏⇒東偏⇒正方位と寺院や官衙の設計思想を変化させたなかで、近畿天皇家がこれと異なる動きをしていることが、奈良県(大和)や近畿王朝の畿内地域の古代寺院官衙の方位の精査から明らかとなった。

   ☆6世紀末ごろまで:東偏(これは九州王朝に倣ったもの)

   ☆6世紀末から7世紀後半まで:西偏(あえて方位磁石に従って作った。九州王朝からの独自の動きか)

   ☆7世紀後半から:正方位

そして,精査する中で,九州←←中国四国←←畿内(大和)→→中部→→関東・東北
                  100年   50年       50年    100年

のように,編年がずらされているのを確認することが出来たのであった。(実年代はその分を遡らせる。

ただし,国分寺は「聖武天皇の〈国分寺建立の詔〉」に縛られいるので,別の方法で)

 

(4)泉官衙遺跡の遺構変遷図は,2つの王朝の「栄枯盛衰」を表しているのではないか?

精査の途中で,私たちは不思議な遺跡と出会うことになる。

藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』(新泉社)である。

Img_6134

この遺跡は,「7世紀後半に東偏でスタート」しているのだが,東北なので100年引くと,6世紀後半。「8世紀初頭に正方位に切り替える」のだが,それも7世紀初頭に。「8世紀後半(→7世紀後半)にはサイズアップした近畿王朝の正方位が登場」するも,9世紀後に一体一関係にあった製鉄遺構とともに突然廃絶。同じく一体の関係にあった内陸の製鉄遺構はそのまま継続しているので、9世紀末の貞観津波で被災して廃絶したと思われる。 

これらが,1つの遺跡の遺構変遷図に刻まれ,現在に伝わっているとは,本当に奇跡というしかない。

(5) 私たちは,相手の勢力を皆殺しにしたり,関連書物を焼いたりすれば,完全犯罪が出来たと思いがちである。しかし,遺構の方位は地下に残され,辛抱強く本当の歴史が明らかにされるのを待っているのではないか。私たちは「方位の考古学」を進めるなかで,何回も「遺跡は嘘をつかない」と言い合ったものだった。

(6) もしこの「方位の考古学」が認められると,大変大きな影響をもたらすことになる。現に私もその一人なのだが,これまで編年で時代を表してきたものは,当然変更を迫られるのだ。場合によっては,それを作った勢力の変更も。私の場合は,東山道武蔵路の年代を,従来の7世紀第3四半期との土器編年に従っていたが,これが6世紀第3四半期に変わるので「白村江の戦い直前」から,「台頭する北周や隋に対抗して」というように変更させられた。(この方がリアルだ)そして,同様に太宰府についても,従来は書記の記述や土器編年に従って7世紀末に編年されていたが,これが,「100年遡って6世紀末に太宰府が成立」となるわけとしたら,通説の崩壊も起こらざるを得ない。

等々いろいろなことが起きてきますが,「論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれが,いかなる所に到ろうとも」(ソクラテス)です。ぜひ,「方位の考古学」への御支持やご声援をいただければと思います。

(川瀬健一さんには,多元的「国分寺」研究から始まり「方位の考古学」に到るまで,共同研究者としてさまざまにご指導いただいた。ありがとうございました)

« 昨日の月 2/2 | トップページ | 梅の木があった頃 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

再度確認しておきたいと思います。
方位の考古学で出てきた編年のずれは、土器編年によるものであって、瓦によるものや、国分寺詔による年代比定には使えないということを忘れないでください。

●瓦による年代比定は、服部さんが検討されたように
 素弁蓮華文軒丸瓦:6世紀末から7世紀前半に発生し、全国一斉に普及した。
 単弁蓮華文軒丸瓦:7世紀中ごろに発生し、全国一斉に普及した。
 複弁蓮華文軒丸瓦:7世紀後半ごろに発生し、全国一斉に普及した。
※従来は奈良・飛鳥を中心に東西に広がる際に時間差があると考え、中部や中国四国は50年遅れ、九州や関東東北は100年遅れと考えられてきた。この時間差の幅は土器編年でも同様に考えられていて、この編年のずれが、考古学で古代を明らかにするうえでの障壁となってきた。

●国分寺詔による年代比定は
 この詔は従来の国府の国寺に七重塔を作れとの命令に過ぎない。
 だから国分寺には、これ以前創建の寺が多いし、この詔以後にできたものも少数ある。
 国分寺の年代を判別する方法は 
 1:瓦の形式による年代比定
 2:修正した土器編年による年代比定
 3:伽藍の形式による年代比定
 など複数を併用しなければいけない。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 再度確認しておきたいと思います。
方位の考古学で出てきた編年のずれは、土器編年によるものであって、瓦によるものや、国分寺詔による年代比定には使えないということを忘れないでください。

了解いたしました。(一度武蔵国分寺でやらかしましたので・・・)

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 昨日の月 2/2 | トップページ | 梅の木があった頃 »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ