『日本書紀』の「屯倉」記事に「郡」記事を重ねてみると・・・
最後に,『日本書紀』の「屯倉」記事▲に「郡」記事●(実際は「評」)を重ねてみることにします。
「評制」の開始時期が浮かび上がってくるでしょうか?
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神武 0
綏靖 0
安寧 0
懿徳 0
孝昭 0
孝安 0
孝霊 0
孝元 0
開化 0
崇神 0
垂仁 ▲▲ 2 ●●●●●●● 7
景行・成務 ▲ 1 ●●●●●● 6
仲哀 ▲ 1 0
神功 ▲ 1 ●● 2
応神 0 0
仁徳 ▲▲▲ 3 ● 1
履中・反正 ▲▲ 2 0
允恭・安康 0 0
雄略 0 ●●●●●●●●● 9
清寧・顕宗・仁賢 ▲▲▲▲▲▲ 6 ●●●●●●●●●● 10
武烈 0 0
継体 ▲▲▲ 3 ●●● 3
安康・宣化 ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ ▲▲▲ 43
●●●●●●●●● 9
欽明 ▲▲▲▲▲▲▲▲ 8 ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●● 23
敏達 ▲▲▲ 3 ● 1
用明 0 ● 1
崇峻 0 0
推古 ▲ 1 ●●●● 4
舒明 0 ● 1
皇極 ▲▲ 2 ●●●●● 5
孝徳 ▲▲▲▲ 4 ●●●●●●●●●● ●●●●●●● 17
斉明 0 ●●●●●●●●●● ●● 12
天智 0 ●●●●●●●●●● 10
天武 0 ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● 39
持統 0 ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●
●●●●●●●●●● ●● 32
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孝徳紀以降に「屯倉」記事がなくなり,それ以降「郡」記事(実際は「評制」)が激増しているグラフから,
やはり孝徳紀が「評制」のスタートのように思える。
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肥沼さんへ
ドンピシャリでしょ。
孝徳紀の「屯倉」記事をざっと見ました。
最初の一例は、大化二年正月の公地公民制制定布告の中の「屯倉」廃止記事。
二例目は、屯倉を廃止して離宮としたとの記事。
三例目は、皇太子が屯倉などの私有地を廃止すべきだと提言し、その屯倉の総数を上げた記事。
この三例めは一例目よりあとに出てきますが、孝徳紀の「改革詔」は年次が少し動かされているので(この論証は別に。ヒントを言っておくと、孝徳による難波長江豊碕宮への遷都令の後に九州王朝の改革令を挿入して、この「大化の改新=ただしくは常色の改新」を近畿王朝の事績であるかのように偽造したので、孝徳の遷都令の前の同じ年に出された改新関係の記事を、改新詔の後ろに移動せざるを得なかった。でも年次のずれは1・2年)、本来は公地公民制施行の詔の前に出された皇太子からの提言です。
もちろんこの皇太子は九州王朝の皇太子。
これで全国的に評制が施行されたのは孝徳紀の同時代、九州の難波宮に首都があった時代であることは確定です。
また屯倉記事を見るともっとも多いのは安康・宣化紀。
これも詳細な検討が必要だが多くは屯倉設置記事のはず。
宣化紀に難波に官家を作って全国の屯倉の税を非常事態に備えて集めるという記事があるが、この時代に九州王朝は各地に屯倉を設置して全国統合を図ろうとしたことは確実。武蔵国造家内紛に朝廷が介入して武蔵国に屯倉を作ったのもこの時期。
こうした天皇の私有地を全国に拡大して国家統合を図ろうとした時代(6世紀中ごろ)から、すべての私有地私有民を廃止してすべてを国家のものする大改革が、孝徳紀の「大化改新=常色改新」です(7世紀中頃)。
前に肥沼さんが木簡での「五十戸⇒里」変遷検討した際に、変化の画期が天武期にあったのを私が干支から60年挙げるべきだとした。その年代は620年代なので屯倉の増設期に相当する。この時期にこれまでの「五十戸」制から「里」制への改編があったと思われます。
史料の統計処理。恐るべしです。
この統計処理と史料精査を組み合わせると古代史の真実は見えてきますね。
あとで「屯倉」記事精査をやってみましょう。
もちろん「郡」記事精査も続行します。
投稿: 川瀬 | 2020年2月23日 (日) 13:08
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 ドンピシャリでしょ。
はい,ドンピシャリでした!
〉 孝徳紀の「屯倉」記事をざっと見ました。
最初の一例は、大化二年正月の公地公民制制定布告の中の「屯倉」廃止記事。
二例目は、屯倉を廃止して離宮としたとの記事。
三例目は、皇太子が屯倉などの私有地を廃止すべきだと提言し、その屯倉の総数を上げた記事。
やはり,ここが本命どころでしたね。
〉 これで全国的に評制が施行されたのは孝徳紀の同時代、九州の難波宮に首都があった時代であることは確定です。
今までやってきた〈方位の考古学〉の成果とも符合するわけで,
本当にうれしいです。
〉 史料の統計処理。恐るべしです。
この統計処理と史料精査を組み合わせると古代史の真実は見えてきますね。
「統計処理と史料精査を組み合わせると古代史の真実は見えてくる」というのは,
前に出てきた「遺跡は嘘をつかない」と並んで,身をもって実感できたことです。
投稿: 肥さん | 2020年2月23日 (日) 14:07
追伸
もう一つこの二つのグラフから気が付くことがある。
「郡」記事と「屯倉」記事。
ともに出現が「垂仁紀」からだ。これは何を意味するか。
「郡」も「屯倉」もどちらも九州王朝記事だ。
つまり書紀で九州王朝の事績を盗用したのは垂仁紀以後ということか?
垂仁紀で初めて天照大神を宮廷とは別に祭り、伊勢に遷座した記事が出てくることと考え合わせると興味深い。
これも精査する価値があると思います。
投稿: 川瀬 | 2020年2月23日 (日) 14:35
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 垂仁紀で初めて天照大神を宮廷とは別に祭り、伊勢に遷座した記事が出てくることと考え合わせると興味深い。
「伊勢国」で『日本書紀』の全文検索すると,垂仁紀が初出ですもんね。
投稿: 肥さん | 2020年2月23日 (日) 16:44