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2019年12月 6日 (金)

〈方位の考古学〉のPDFファイル

大学セミナーハウスのサイトに,

今年の古代史セミナーの発表者の原稿が

PDFファイルで載せられています。

〈方位の考古学〉に関心のある方は,

ここをご覧下さい。リンクします。

【〈方位の考古学〉のPDFファイル】

https://iush.jp/seminar/report/ancient/2019

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さん

分かりやすく且つ簡潔にまとめて頂きありがとうございました。
1点気になることがあります。

>5世紀中頃以降:東偏(これは中国南朝の設計思想に倣ったもの)
理解できます。倭の五王はじめある時期の南朝には臣下の礼を執っていたので、それに倣って真似をしたと言う事でしょう

では
>6世紀末から7世紀初頭:正方位(これは中国隋王朝の設計思想に倣ったもの)
ここが理解できません
日出処の天子・・・と言う国書を送っている倭国が何故中国隋王朝の設計思想に倣うのか?
肥さん自身も
>東山道武蔵路・・・・「台頭する北周や隋に対抗して」・・・・・
としています。対抗するする国に倣う必要があるのか?
東偏を誇ったら良いのではないか?

正方位に変更した理由はわかりませんが、隋王朝の設計思想に倣ったものではないと思います

宏樹さんへ
コメントありがとうございます。

南朝があった時代,その東偏に倣うのが「一の子分」になる方法だったと思うのです。
ところが親分の南朝が滅ぼされたとなると,南朝の「一の子分」だと主張していた倭国は
「南朝の親分」になるということになる。
方や北朝には「蛮族」の隋が現れる。
だから,「倣って」というより「お前と対等」を主張して「日出ずる処の天子」と自らのことを呼んだ。
ただ,国分寺が僧寺と尼寺になっているのは,隋の制度に倣っているらしいのです。
だから,敵意ばかりではなく,学ぶところは学んで外交していたのではないかと思います。

肥さんへ

返信ありがとうございます&コメント数が大変なことになっています・・

>敵意ばかりではなく,学ぶところは学んで外交していたのではないかと思います。
そうでしょうね。仏法を学ぶために留学生も送っているようですし
ただ、「南朝の親分」とは「東偏の親分」と言う事であり、それを「蛮族」の隋の正方位に変更するとは、「蛮族」の隋の軍門に下ったに等しいのではないかと思うわけです。
でも、自称「日出ずる処の天子」と名乗っている訳でして、これは大きな矛盾としか言えないと思うのです

宏樹さんへ
 肥沼さんの回答に補足します。
 正しくは隋に倣ったのではなく、隋に対抗したのです。
 隋が都を、そしてその中心である宮殿を正方位に作った理由は、そうすることで初めて「天子南面」という中国古来の思想を、宮殿と都の形で体現できるからです。
これまでの都や宮殿が正方位でつくれなかったのは、宮殿・都の北に地の神を祀る地壇、南に天の神を祀る天丘を作るスタイルが後漢王朝以後とられたのですが、自然の壇と自然の丘を利用したので、必ずしも、地壇ー宮殿ー天丘を正方位の南北には作れなかったのです。
 最初にこのスタイルの都を作った後漢王朝の都洛陽は、自然地形を利用して地壇・天丘を都の南北に作った際に、地形によって東偏に地壇ー宮殿ー天丘がなってしまった。つまり東偏の都になってしまったのです。
 次の三国分立時代に洛陽を都とした魏もこれに倣い、さらに魏を受けて中国を統一した晋もこれに倣い、晋が北方の『蛮族』に攻められて南下して「東晋」となり以後の宋ー斉ー梁ー陳の各王朝を「南朝」と呼びますが、この南朝の都は後漢の洛陽城の東偏様式をそのまま継続しました。
 そしてこの様式は北方の「蛮族」の国々を始めて統一した北朝の「北魏」でもそのまま継続されました。
 中国の都は後漢以後ずっと東偏だったのです。地壇ー宮殿ー天丘を貫く南北軸が東偏になったままだったのです。
 でも、これでは、「天子南面」を文字通りに体現できないのです。
 それを北魏を継承し、さらに南朝を滅ぼして中国を統一した隋の皇帝が革新した。
 要するに宮殿の真北に人工的に地壇を建設し、宮殿の真南に人工的に天丘を作れば、地壇ー宮殿ー天丘を正方位の南北に連ねることができると。
 隋王朝が都を正方位にした理由はこういうことです。われこそ天子であると。
 倭国が自身の都を正方位にしたのも、同じことです。われこそ天子であると。
 だから隋の都と倭国の都が同じ形になった。
 ということです。

川瀬さんへ
補足コメントありがとうございます。

宏樹さんへ
川瀬さんの補足コメントはいかがだったでしょうか。
ご理解いただけたら幸いです。

川瀬さん・肥さんへ

ありがとうございます
理解できました
ただ、方位の考古学の起源が中国にあるとするなら
「天子南面」という中国古来の思想と隋によって宮殿と都の形で体現したことは記載されるべきだと思います

それでは、今後のご健闘をお祈りします

宏樹さんへ
>ただ、方位の考古学の起源が中国にあるとするなら
「天子南面」という中国古来の思想と隋によって宮殿と都の形で体現したことは記載されるべきだと思います

 このご批判ご指摘はその通りだと思います。肥沼さんのまとめはかなり不十分です。
 これは発表が当初10分と短く全体を説明するには到底むりなこと。さらに資料も枚数制限されていて肥沼さんが多数資料を載せたためにスペースが足りなくなったことが理由です。

 このことについては私が、まとめについての9月2日付のコメントの中で、「想定される問い」として提示した12問の中に提示してあります。
 肥沼さんはこの問いの5番目までしか答えないでセミナーの発表に臨んだので、宏樹さんの問いに十分にこたえられなかったのだと思います。
 後半の7つの問いを再録します。
6:太宰府の編年が7世紀末ではなく6世紀末に遡るとのことですが、これによって従来の太宰府理解にどのような変更が生まれるのでしょうか。

7:資料のB小郡官衙遺跡を、書紀孝徳紀にある小郡宮とした根拠はなんですか。

8:資料C有田・小田部遺跡の中の西偏の官衙を孝徳の難波長柄豊碕宮とした根拠はなんですか。

9:資料Fの岡山理科大学の磁気偏角データベースは、どのようなデータに基づいて算出したものなのでしょうか。またこの信憑性はどの程度なのでしょうか。

10:中国南朝や後漢・魏の都が東偏で作られた理由はなんでしょうか。またそれが隋以降は正方位に変わる理由は何でしょうか。

11:資料のH2の漢魏洛陽城ですが、ここは南北に連なる地壇ー王宮ー天丘の線を基準とした都城の出現(東偏都城のはじまり) と説明されていますが、王宮は明示されていますが、地壇と天丘は明示されていません。どこにあるのでしょう。また王宮が二つ南北にあっても東西にずれていますので、この都城の中心の南北の軸線はどれでしょうか。

12:九州王朝は南朝や隋に倣って都を東偏や正方位にしたといいますが、九州王朝の都である太宰府には地壇・天丘はあるのでしょうか。同じように近畿天皇家の宮や、近畿王朝の都でも地壇・天丘はあるのでしょうか。

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