〈方位の考古学〉の活用例(5)~九州の遺跡たち
太宰府に続き,気になる九州の遺跡たちを,
〈方位の考古学〉で見直してみたい。
ちなみに,太宰府のスタートは「7世紀後半(⇒6世紀後半)」だった。
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(1)鴻臚館(7世紀後半)⇒6世紀後半
(2)大野城(7世紀半ば)⇒6世紀半ば
(3)女山神籠石(7世紀代)⇒6世紀代
(4)小郡官衙(7世紀末~)⇒6世紀末~ 小郡屯倉→孝徳の小郡宮か (西偏⇒東偏⇒正方位と変遷している)
(5)有田・小田部(有田)(7世紀後半~)⇒6世紀後半 ※孝徳の難波長柄豊崎宮か(3種類の方位が混在している)
(6)鞠智城(7世紀後半,当時の日本を統治していた大和朝廷(政権)によって築かれた城)⇒
6世紀後半,当時の日本を統治していた九州王朝(政権)によって築かれた城
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これらは太宰府の動きとほぼ同じ時期に,あるいはその前後に位置づけられる。
しかも時期からいうと,唐への対策ではなく,明らかに隋への対策だということができるだろう。
そういえば日本古代ハイウェーも7世紀第3四半期(⇒6世紀第3四半期)だから,まさしく同じ時期だった。
一連の動きはバラバラに起きたのではなく,九州王朝が隋に対して行ってきた証拠(遺跡が明らかにしている)なのだ。
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孝徳の難波長柄豊崎宮は、右側の図の南側にある西偏の官衙ですね。その北にある東偏・正方位の官衙は九州王朝の官衙だ。
投稿: 川瀬 | 2019年12月31日 (火) 14:00
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
フォローすみません。
投稿: 肥さん | 2019年12月31日 (火) 14:53