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2019年11月 5日 (火)

★★土器編年のズレを修正する「方位の考古学」★★

人間どうしても「見つけた順に話す」という方法を取りやすい。

「方位の考古学」もそうだった。しかし,聞いている人間の立場に立ってみると,

「方位が東向きであろうが,南向きであろうが,西向きであろうが,それは関係ない」

まさか時の政府が方位を指定するなんて思いも寄らないから,

「我が家の場合は,敷地面積の許す限り日当たりの良い方位にした」という想像ぐらいのものになる。

しかし,私は、日本の古代においては,「政府が方位(東偏・正方位)を命じた」という話をしているのだ。

個人の家の日当たりの良さや洗濯物の乾き具合の話をしているのではない。

だから,何千とある古代の〈寺院遺跡〉や〈官衙遺跡〉を長い時間をかけてわざわざ精査しているのである。

閑話休題。

で,先程思いついたのだが,話をする順序をお終いからスタートしてみたらどうだろう。

つまり「土器編年が50年,100年ズレていたらどうしますか?」ということだ。

(九州は「方位の考古学」では100年ズレて遡ると考えている)

つまり,そうなると,登場人物や相手国自体が大きく変わってしまうのだ。

もし太宰府の正方位のスタートが7世紀末⇒6世紀末になったら,推古天皇の時代の話となる。

天智天皇はまだ生まれていない頃の話だ。(626年~672年)

また,100年ズレると相手国も変わる。

避難施設や緊急連絡用の狼煙は,唐の為ではなく,隋の為を意識して作られたことになる。

唐はまだ誕生していないからだ。(618年~907年) 

恥ずかしながらこの私も,「古代日本ハイウェー」を作った年代を,7世紀中ばから6世紀半ばに遡らせた。

「日本書紀」を全面的に信用する一元史観ならいざ知らず,多元史観の皆さんまで現在の土器編年に従うしたら,

いつまでたっても,多元史観の「勝ち目」はないと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)「土器編年自体がズレているのではないか」と考えた。(仮説)

(2)「土器編年のズレを方位で明らかにする方法はないか。」を考え,

「建物群の方位が政府によって意図的に決められている」と仮定すれば,

「正方位の出現は全国ほぼ同時になるはず」と考えて,

「土器や瓦編年の基準である飛鳥・大和での正方位出現時期を確定」して,

これとのずれで全国の土器編年のずれを推定した。(方法)

(3)飛鳥から遠い地方100年,中間地方50年を遡って判定していく(結論)

このような方法で,正しい年代が導き出せると考える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(川瀬さんのアドバイスにより,(1)のあとに(2)を入れ,元の(2)は削除しました)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※ 「土器編年」という方法は,年代がわからないことの多い古代において,その拠り所とされた。

「土器編年」も「方位の考古学」も.絶対年代をもとにしている点でスタートは同じなのだが,

「土器編年」がその後「相対年代」で比較するのに対して,

「方位の考古学」では「各地の正方位の出現のズレ」を問題にするのだ。

※ 全国の国分寺は,成立年代を「8世紀中ば」と書かれていることが多い。

これは明らかに聖武天皇の「国分寺建立の詔」(741年)に縛られている。

主文は「七重塔を造れ。金泥の経を納めるぞ」というものである。

それを忖度(そんたく)して,「国分寺を造れ」と解釈しているのである。

その証拠に,何十年も前の白鳳瓦が出土している。すでに,七重塔以外の伽藍は建っていたのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「方位の考古学」に弾みをつけてくれたのは,福島県南相馬郡にある泉官衙遺跡であった。

詳しくは藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』(新泉社)を読んでもらいたいが,

「方位の考古学」で100年のズレを遡らさせると,「2つの王朝の栄枯盛衰」を語る貴重な遺跡なのであった。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

>(1)「土器編年自体がズレているのではないか」と考える(仮説)

(2)各地の「正方位建物の出現時期」のズレを,ものさしである「編年のズレ」としてとらえる(方法)

(3)飛鳥から遠い地方100年,中間地方50年を遡って判定していく(結論)

このような方法で,正しい年代が導き出せると考える。

 この説明順序の方が分りやすいと思います。
 実は私はこの順序で考えたのです。
付け加えると、
1の次に、「土器編年のずれを方位で明らかにする方法はないか。」を考え、「建物群の方位が政府によって意図的に決められている」と仮定すれば、「正方位の出現は全国ほぼ同時になるはず」と考えて、「土器や瓦編年の基準である飛鳥・大和での正方位出現時期を確定」して、これとのずれで全国の土器編年のずれを推定した。
 結果として東編の出現を基準とすることも可能であったようですが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  この説明順序の方が分りやすいと思います。
 実は私はこの順序で考えたのです。

ありがとうございます。
川瀬さんもそうお考えでしたら,何よりです。

〉 付け加えると、
1の次に、「土器編年のずれを方位で明らかにする方法はないか。」を考え、「建物群の方位が政府によって意図的に決められている」と仮定すれば、「正方位の出現は全国ほぼ同時になるはず」と考えて、「土器や瓦編年の基準である飛鳥・大和での正方位出現時期を確定」して、これとのずれで全国の土器編年のずれを推定した。

それ,いただきます!

土器編年問題について、ご参考になればという一例があります。
九州南部の成川式土器編年に関するものですが、従来の編年では古墳時代前期後半に空白ができるという問題点があって、1987年に修正案(中村案)が出されています。

高知県でも「編年のズレ」問題はありますが、近年は新しい知見も取り入れられつつあり、一律に50年とか100年のズレをあてはめてしまうことに多少の危惧は感じています。

それと私が勉強不足なのかもしれませんが、「方位の考古学」で、まだ分からないところもあります。
『古代国府の成立と国郡制』(大橋泰夫著、2018年)で「付論1 地方官衙と方位」にデータが収録されているのですが、地方官衙や国府に正方位が採用されたのが、ほぼ一律に8世紀以降となっています。7世紀後半の評衙とされる遺跡の多くは正方位を採用せず、規格性が乏しいとされ、その本によると、正方位採用は大和朝廷によるのではないかとの印象を受けます。
もちろん、一律に50年さかのぼらせれば九州王朝時代となるのでしょうが、本当にそれが可能なのか多少疑問に思っています。

正方位採用を九州王朝によるものとする検証は十分になされているのでしょうか?
過去のブログすべてに目を通しているわけではないので、今さらながらという感じですが、率直な疑問、お許しください。


侏儒国民さんへ
コメントありがとうございます。

〉 高知県でも「編年のズレ」問題はありますが、近年は新しい知見も取り入れられつつあり、一律に50年とか100年のズレをあてはめてしまうことに多少の危惧は感じています。

もちろんどこでも一律といかないでしようが,正方位の出現の判定が飛鳥とかなりズレているということが大切なのだと思います。

〉 正方位採用を九州王朝によるものとする検証は十分になされているのでしょうか?
過去のブログすべてに目を通しているわけではないので、今さらながらという感じですが、率直な疑問、お許しください。

正方位採用は九州王朝も近畿王朝もしているようでして,その中間期となると迷うこともあります。
ただ,近畿王朝だけがしていたということはないと考えます。それが「100年のズレ」の衝撃の大きさなのです。

侏儒国民さんへ

肥沼さんの返答に補足します。

>(侏儒国民)一律に50年とか100年のズレをあてはめてしまうことに多少の危惧は感じています。

>(肥沼)もちろんどこでも一律といかないでしようが,正方位の出現の判定が飛鳥とかなりズレているということが大切なのだと思います。

 「一律に50年とか100年のずれをあてはめた」わけではないです。各県の古代寺院遺跡と官衙遺跡の方位を精査し、通説の編年を元に一覧にしたところ、正方位の出現時期が、飛鳥(大和)とかなりズレルという現実を見つけました。これを中部や四国中国で50年、関東東北と九州で100年のずれがあると判断すると、全国ほぼ一律に正方位の出現が6世紀末から7世紀初頭となったのです。
 ここから今の土器編年は飛鳥(大和)から次第に文化が東西に普及したと考えて、都からの距離に応じて、50年や100年編年をずらしたのだと判断したのです。
 この判断を証明する例もいくつかあります(放射性炭素による年代などで)。
 もっと詳しくは、各地方ごとの土器編年がどうやって決まったのかを学説史を遡って検証しなければいけませんが、これは今後の問題です。

> 正方位採用を九州王朝によるものとする検証は十分になされているのでしょうか?

 ここは肥沼さんの答えでは不十分です。
 飛鳥で正方位を絶対年代で確認できるのが飛鳥寺(法興寺)です。この寺の起工と完成の年次は書紀に明確に書かれています。
 起工は推古5年(596年)、竣工は推古4年(596年)。
 この年代は古田さんの論証により、九州王朝が列島支配権を持っていた時代であることはあきらかです。
 ここから6世紀末には九州王朝は全国の宮や官衙や寺院を正方位に替えたのではないかとすることが可能です。

追伸
 一か所重大な間違いを見つけました。
>「土器編年」という方法は,年代がわからないことの多い古代において,その拠り所とされた。
しかし,これは土器同士を比べて決めている相対年代なのである。
それを絶対年代と考えてしまうところに落とし穴がある。

 土器編年も絶対年代に依拠しています。
 それは大和や河内の6・7世紀に出てくる須恵器や土師器。書紀の記述でその土器が出た遺跡の年代がほぼ確定できるものがあるからです。
 ここを基準に相対年代を決めていくのだが、その際に、大和や河内から僻遠の土地には、「普及するには時間差がある」との観点から、その絶対年代を50年とか100年とかずらしているのです。
 土器同士の相対年代だけだったら、方位の考古学によって編年のずれを測定することは不可能です。
 土器編年は大和・河内の6・7世紀の年代が書紀記述でわかる遺跡のものを絶対年代基準として相対編年をつくっている。
 方位の考古学は、大和の7世紀末の書紀で絶対年代のわかる寺院(飛鳥寺=法興寺)が正方位であることを基準にして、全国における正方位出現期を基準にして、編年のずれを測定した。
 どちらも書紀の記述という絶対年代を基準にしているから、相互比較が可能なのです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  土器同士の相対年代だけだったら、方位の考古学によって編年のずれを測定することは不可能です。
 土器編年は大和・河内の6・7世紀の年代が書紀記述でわかる遺跡のものを絶対年代基準として相対編年をつくっている。
 方位の考古学は、大和の7世紀末の書紀で絶対年代のわかる寺院(飛鳥寺=法興寺)が正方位であることを基準にして、全国における正方位出現期を基準にして、編年のずれを測定した。
 どちらも書紀の記述という絶対年代を基準にしているから、相互比較が可能なのです。

そうか…表現というのはなかなか難しいですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 肥沼さんの返答に補足します。

〉 ここは肥沼さんの答えでは不十分です。

いつものことながら.フォローをすいません。

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