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2019年11月17日 (日)

九州王朝の天子の動向(川瀬さん)

川瀬さんは,「「大嘗祭」はなかった!」に対するコメントの中で,

「書紀記事を精査すると、九州王朝天子の動向が読み取れます」として,長文を書かれています。

これはもはやコメントを越え,論文と言ってもいいでしょう。

そこで,本文としてアップさせていただきます。「主語有無の論証」も出てきます。

なお,見やすいように,『日本書紀』の本文には私(肥沼)がアンダーラインを引きました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


●天武紀下の大嘗記事から


 二年12月壬午朔丙戌、侍奉大嘗中臣・忌部及神官人等・幷播磨・丹波二國郡司・亦以下人夫等、悉賜祿、因以郡司等各賜爵一級。

 これが書紀本文。
 大嘗祭は即位したあと最初の新嘗祭のことだから、つまりこの天武二年に九州王朝天皇が即位したということ。673年。
 だから新たな天子即位に伴って伊勢斎宮が交代する。この記事は


夏四月丙辰朔己巳、欲遣侍大來皇女于天照太神宮、而令居泊瀬齋宮。是、先潔身、稍近神之所也。

 

 したがって次の記事も九州王朝天子交代に伴うものかも。


己亥、新羅、遣韓阿飡金承元・阿飡金祗山・大舍霜雪等、賀騰極。幷遣一吉飡金薩儒・韓奈末金池山等、弔先皇喪。一云、調使。其送使貴干寶・眞毛、送承元・薩儒於筑紫。戊申、饗貴干寶等於筑紫、賜祿各有差、卽從筑紫返于國。

 新羅は新天子即位の祝いの使いをおくるとともに、もう一つの使節も億経った。
 「弔先皇喪」とあるから、前の天子は死去したのだ。
 ここの「先皇」を天智としたら時期が離れすぎる。
 天子の死の弔問使なら、天智10年12月に天智が死去した直後でないとおかしい。
大友皇子だとしても意味がとおらない。
 なぜなら彼らは日本国の天子ではないのだから。
 この天武二年に九州王朝の新たな天子が即位した。
 だからこそ次々と周辺諸国が新帝即位を祝って使節を送っているのだ。

次の記事は新天子即位を祝ったもの。

 二年三月丙戌朔壬寅、備後國司、獲白雉於龜石郡而貢。乃當郡課役悉免、仍大赦天下。

 では即位の宮はどこか。
 確実に後岡本の宮の南に作られた新たな宮。天武紀で飛鳥淨御原宮と呼ばれた、エビノコ郭。

 即位後、天子はどうしたのか。
 おそらくしばらくは先帝の喪に服したものでしょう。通常1年から2年。
 その間に遺体を埋葬する墓を作らねばならない(この記事は書紀にはない)。
 そして出来上がった墓に埋葬するのだが、おそらく先帝の墓は九州の難波付近につくられたのではないか。そして新天子は先帝の遺骸(喪)を守って九州に赴いた。
 そしてそのまま九州に留まった。
 だから天武が作った新宮(前期難波宮)の東方郭に天子が入ることはなかった。
 このため天子は、天武12年の12月に「都は二つあっても良い」とし、まずは旧都の難波に遷都し、さらに翌、13年には新宮の地の選定を始めた。
 この記事は


〇十三年二月庚辰、遣淨廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・錄事・陰陽師・工匠等於畿內、令視占應都之地。是日、遣三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃令看地形、將都是地歟。三月辛卯、天皇、巡行於京師而定宮室之地。夏四月壬辰、三野王等、進信濃國之圖。


 さらに、


〇十四年冬十月壬午、遣輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮、蓋擬幸束間温湯歟。


 そして天武15年の七月に新宮は出来上がり、これとともに天子は改元を行った。
 この記事は、


 戊午、改元曰朱鳥元年朱鳥此云阿訶美苔利、仍名宮曰飛鳥淨御原宮。

 

 天武が近畿天皇家内の権力掌握に手間取り、さらに彼が病に伏す中で、九州王朝天子は独自の動きを始めた。
 独自の動きの一つが新宮建設であり、その完成をまっての改元。
 朱鳥の新元号に。(この前の683年=天武12年に長く続いた元号白鳳が廃止され新元号朱雀が施行されている。天子の死から12年後。これは天子の陵が完成したことを示すことかもしれない)
 この朱雀・朱鳥の元号。
 明らかに天子に伴うものなので「私こそが日本の天子だ」と宣言したかのよう。

 こうした独自の動きれは近畿天皇家に「飾りの天子は手の内に置かないと危ない」との危機感を持たせたかも。
 だから近畿天皇家は、新たな九州王朝天子のための都を畿内に建設しようと動き出す。

 

持統四年冬10月壬申、高市皇子觀藤原宮地、公卿百寮從焉。


  持統が即位した年の10月。ここで初めて藤原宮造営の動きが始まる。
 結局天武の死⇒後継ぎのはずの草壁の死⇒対抗馬の大津の処刑⇒持統の即位
 という近畿天皇家内部の権力掌握に手間取って実に四年も時期が空いてしまったわけだ。

●持統紀大嘗祭記事から

 五年十一月戊辰、大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋、讀天神壽詞。壬辰、賜公卿食衾。乙未、饗公卿以下至主典、幷賜絹等各有差。丁酉、饗神祗官長上以下至神部等及供奉播磨因幡國郡司以下至百姓男女、幷賜絹等各有差。

 これが持統紀大嘗祭挙行と、その後の関係者報償の記事。
 大嘗祭は即位したときの新嘗祭。
 五年はおかしい。
 持統の即位は四年春正月。持統の大嘗祭なら四年の挙行でなくてはならない。
 つまりこれは持統の大嘗祭ではない。
 この時も天武の時と同じく、大嘗祭を挙行した臣下らが褒美を賜っている。

 持統五年のどこかの時期に九州王朝天子即位があったはず。691年。
 その痕跡は。


 六月己未、大赦天下、但盜賊不在赦例。
 七月庚午朔壬申、是日、伊豫國司田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀三斤八兩・𨥥一籠。

即位の宮はどこか。
 伊勢行幸が問題になるのが、六年の二月に「二月丁酉朔丁未、詔諸官曰、當以三月三日將幸伊勢、宜知此意備諸衣物。」と3月3日伊勢行幸が決まる。
 これに対して「乙卯、是日、中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂、上表敢直言諫爭天皇、欲幸伊勢妨於農時。」と反対意見が出る。
 しかし「三月丙寅朔戊辰、以淨廣肆廣瀬王・直廣參當摩眞人智德・直廣肆紀朝臣弓張等、爲留守官。於是、中納言大三輪朝臣高市麻呂、脱其冠位、擎上於朝、重諫曰、農作之節、車駕未可以動。辛未、天皇不從諫、遂幸伊勢。」と挙行される。

 この記事は行きは何で行ったか記さないが、帰りは車駕でとなる。
 万葉集の伊勢行幸の記事と併せると、これは九州王朝天子が海路伊勢に行幸し、そこから車駕で宮に戻ったという記事だ。
 ここから九州王朝の新天子が即位したのは九州の宮であることがわかる。
 それは九州の飛鳥浄御原宮。
 そして新天子が車駕で向かった宮は。まだ藤原の地の新益京は出来上がっていないので、飛鳥と考えられる。もしくは前期難波宮だ。

 この直前の5年冬10月甲子、遣使者鎭祭新益京。とあるので、まさにこの新京(首都の名前は新益京。その内裏が藤原宮)はこの新たな九州王朝天子のための都だ。これは都を作るための地鎮祭挙行。天子を迎える準備が始まった。
 そして新益京・藤原宮完成は、8年の12月。

 十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。戊午、百官拜朝。己未、賜親王以下至郡司等、絁綿布各有差。辛酉、宴公卿大夫。

 遷居藤原宮。主語が省略された記事。
ここに新京・新益京は完成し、天子は内裏の藤原宮に遷った。
 そして新京・新宮の完成を祝って翌年に(695年=持統9年)改元がされた。朱雀⇒大化に。
 この九州王朝最後の元号・大化。
 この元号を定めた主体はすでに近畿天皇家だろう。
 大化=今後大きな変化が起こるぞという予言。王朝交代を予言したものか。
 この意味で大化は、近畿天皇家が初めて定めた元号と言える。
 だから孝徳紀に記された九州王朝の評制全国施行の改新を本来の「常色」に変えて「大化」年号にしるしたものかもしれない。
 そして九州王朝の新都(=太宰府)とその新宮(味経宮)完成を祝っての「白雉」改元はそのままにしたのかもしれません。全国統一権力の完成ですから。
 ただし自分の(近畿天皇家の)やったこととして。
 そして九州王朝天子から近畿天皇家の文武に天皇位が譲られたのが、


 十一年八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。

 ここは主語を明記することであたかも近畿天皇家の持統から皇太子に天皇位が譲られたかのように偽装しているが、主語の天皇は九州王朝天子である。

 九州王朝天子はやっと用済みに。
 こうして九州王朝最後の元号・大化は終り、近畿天皇家初めての元号・大宝に。だがここに至るにはさらに3年の月日が必要だった。
 新元号とともに新律令を交付し、列島統治権を名実ともに握るには。

 ではその後九州王朝天子はどうしたか。これは「続日本紀」を精査しないとわからない。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 天武紀下と持統紀の大嘗祭関係記事を手掛かりにした、壬申の乱以後の九州王朝天子の動向。
 掲載ありがとうございます。
 書紀はいくつか省略があるものの、かなり正確に記述していることがわかります。
  理解できないからといって、勝手に書紀の年次を34年も動かしてしまうという暴挙がされていますが、こんなことは絶対やってはいけない。
 もっともこの歴史学の禁じ手に最初に手を染めたのが古田さんだから始末に負えないが。
 この古田さんの間違いについては、すでに二つの論考を公開している。
 一つは「●書紀持統紀の吉野行幸記事の真実」。
   http://kawa-k.vis.ne.jp/201796yosino.pdf
 もう一つは、「●中皇命の伊勢行幸記事の持統紀への盗用について」。
 http://kawa-k.vis.ne.jp/201797ise.pdf
 この二つの論考によって、九州王朝の最後の天子の名前が明らかになった。
 「中皇命」。

 この古田さんの誤りの始まりは、推古紀にある対隋外交記事を、年次を10年下げて対唐外交としたところから始まる。
 ここも考察したがまだ論文にはまとめていない。
 詳しくはブログ「古田史学の継承のために」で私の論考「中皇命の伊勢行幸記事の持統紀への登用について」を巡って交わされた論争を参照。
  http://kawa-k.vis.ne.jp/kiroku1.pdf
 これは私のサイトの「★ブログ「古田史学の継承のために」の論争の成果を保存するサイト★」に収めた記録の一つ。
 22 蕃。2017年9月 7日 (木)●中皇命の伊勢行幸記事の書紀持統紀への盗用について(川瀬さん) です。
pdfファイルでダウンロードした方が早いです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  天武紀下と持統紀の大嘗祭関係記事を手掛かりにした、壬申の乱以後の九州王朝天子の動向。
 掲載ありがとうございます。
 書紀はいくつか省略があるものの、かなり正確に記述していることがわかります。

「「主語有無の論証」を活用すれば,とてもよく理解できますよ」という見本として掲載させていただきました。
で,そもそも「主語有無の論証」とは何か,という疑問がある人のために,「主語有無の論証」について,をその次に掲載しました。
ブログというのは,あとに書いた方から,読者は先に読むわけなので。

川瀬さんへ

はじめまして。いつも詳細な投稿、楽しく読まさせていただいています。
さて、一点ご意見頂きたいことがあり、投稿致しました。

新天子が即位するが、年号は変わらない。って事が有るのでしょうか?

以下は、川瀬様には説明不要でしょうが、念のため。

>大嘗祭は即位したあと最初の新嘗祭のことだから、つまりこの天武二年に九州王朝天皇が即位したということ。673年。
この年は白鳳13年で、白鳳はこの後10年続きます。

>この前の683年=天武12年に長く続いた元号白鳳が廃止され新元号朱雀が施行されている。天子の死から12年後。これは天子の陵が完成したことを示すことかもしれない
旧天子の逝去に伴い新天子が即位。しかし、改元はされなかった。でも旧天子の天子陵の完成で改元するという事ですよね?理解が出来ないのは、私の頭がおかしいのでしょうか?

>持統五年のどこかの時期に九州王朝天子即位があったはず。691年。
この年は朱鳥6年、この後3年続きます。

天子の即位と改元はリンクしないという事でしょうか?

初めて投稿します。

最後の

>十一年八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。

ですが、

「定策」…臣下が天子を位につけること(藤堂明保編『学研 漢和大字典』)
とあります。よってここの主語は近畿天皇家でよいのではないでしょうか。

宏樹様
 
 私の論考へのコメントありがとうございます。
>天子の即位と改元はリンクしないという事でしょうか?
 私の読解が正しければ、そういう結論になります。
 これ自身がわたしにとっても想定外ですが。天子の即位と改元はリンクするというのが、明治以後の私たちの通年ですからね。
 歴史上はどうなのでしょうか。
 試みに年表で江戸時代の少し前から見てみました。
 後陽成天皇:即位は天正14年11月。しかし改元は6年後の12月に文禄へ。
 後水尾天皇:即位は慶長16年3月。しかし改元は4年後の7月に元和へ。
 明正天皇:即位は寛永六年11月。この天皇の代には改元なし。
 後光明天皇:即位は寛永20年10月。改元は翌年の12月に正保へ。
 後西天皇:即位は承応3年11月。改元は翌年の4月に明暦へ。
 霊元天皇:即位は寛文3年1月。改元は10年後9月に延宝に。
 東山天皇:即位は貞享4年3月。改元は翌年の9月に元禄へ。
 中御門天皇:即位は宝永6年6月。改元は二年後の4月に正徳へ。
 桜町天皇:即位は享保20年3月。改元は翌年の4月に元文へ。
 桃園天皇:即位は延享4年5月。改元は翌年7月に寛延へ。
 後桜町天皇:即位は宝暦12年7月。改元は二年後の8月に明和へ。
 後桃園天皇:即位は明和7年11月。改元は二年後の11月に安永へ。
 光格天皇:即位は安永8年11月。改元は二年後の4月に天明へ。
 仁孝天皇:即位は文化14年3月。改元は翌年4月に文政へ。
 孝明天皇:即位は弘化3年2月。改元は二年後の2月に嘉永へ。
 明治天皇:即位は慶應3年1月。改元は翌年の9月に明治に。
 大正天皇:即位は明治45年7月30日。改元は即日。
   安土桃山の最後から大正までみましたが、新天皇即位=改元は大正から始まったこと。
  それ以前は翌年または二年後。さらにもっと離れている場合も多い。
  奈良時代は多くの天皇が即位=改元だが、実権をを持たない淳仁は即位の三年後。
  平安時代も多くの天皇が即位の翌年または二年後改元だ。
  鎌倉時代も同じだが南北朝期に北朝では即位=改元や翌年二年後にならない例も多い。
  その後も室町後期も即位=改元ではなく通例が翌年か二年後。
  即位の翌年もしくは二年後にならない例の多い江戸時代に鑑みて、天皇が権力を握っていたり、権威が高いときは、即位の翌年もしくは二年後に改元が通例だと思います。
 そして天皇がうっちゃられると即位してもそのまま改元もない例も多くなる。
 即位=改元は大正から始まった新例であることはあきらかです。

 ここから天武以後の九州王朝天子の即位と改元が大きくずれることの意味は、まさしく権力が九州王朝から近畿天皇家に遷っていることの証拠となります。
 良い質問をありがとうございました。

ナカノさまへ

 私の論考への問題提起ありがとうございます。
 
 たしかに私が持っている漢和辞典「字通」でも「定策」は臣下が天子を擁立することとありますので、「天皇、定策禁中」は、天皇が禁中で天子を擁立したになります。
 つまり臣下である近畿天皇家の大王が、天子を擁立した。
 なんと近畿天皇家の王が臣下であることを明示する文だったのです。
 では次の「禅天皇位皇太子」はどういう意味になるか。
 動詞は「禅」ですから、「天皇の位を皇太子に譲った」となりますね。
 もしくはこの二つの文は一連のものですから、
 「禁中にて(臣下である)近畿天皇家の大王が天皇を擁立し、天皇の位を皇太子に譲らしめた」となるのでしょうか。
 「禁中にて(臣下である)近畿天皇家の大王が天皇を擁立し、九州王朝の天皇は位を皇太子に譲った」と読んでも意味は同じになりますね。
 最初のよみは、前半の主語は近畿天皇家だが、後半の主語は「禅譲」という天子の行為を行った主体が省略されているとみて、主語は九州王朝の天皇(天子)とした読み。
 後者の読みは、前半の主語は近畿天皇家、後半も主語は近畿天皇家、の読み。

 どちらにしても新天皇擁立の主体は、九州王朝ではなく近畿天皇家ということになります。

 大事な問題提起をありがとうございます。

川瀬さんへ

詳細な回答ありがとうございます。
今までの改元についての認識が180度変わりました。
改元って何なんだろうと・・

宏樹さんへ

>改元って何なんだろうと・・
 元号とは何かを考えればわかります。
 元号とは天子(天皇)がこの宇宙を支配するという思想に基づいている。だから当然天子・天皇が変われば元号も変わる。
 しかし元号が変わるのはそれだけではない。
 明治以前は、時代状況政治状況が悪いと、元号を改めることでその状況を変えようと試みる。天災が続いたり、政治的激変が続いたりしたときです。
 また逆におめでたいことがあると元号を変えることも多い。
 では天子・天皇が変わってもすぐには元号がかわらないのはなぜか。
 中国の例はわかりませんが、日本では大嘗祭をやって初めて天皇として世界に君臨できるのではないでしょうか。
 大嘗祭は即位したあとの最初の新嘗祭。新嘗祭は其のとしの収穫を神に感謝し、収穫したものを神に供え神と共にそれを食する儀式。
 だから先に江戸時代の詳しく見ましたが、即位の翌年または二年後でもそれまでには必ず大嘗祭をやっているのだろうと思います。確かめてはいませんが。

一つ訂正です。「天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。」
 近畿天皇家の大王が、禁中において新たな天子を擁立し、天皇の位を皇太子に譲らせた。
 
 こうよみましたが、禁中においてだと「於」の字が「禁中」の前にないといけない。
 したがってこれは、「禁中を定策す」です。
 この場合の「禁中」は「天皇」を指している。天皇を擁立と直接言いにくいし、天皇の語が三つ続くことも憚って「禁中」という宮中を指す言葉で天皇を示したのだと思います。

 結論てきには、
 「(臣下である)近畿天皇家の大王(ウノササラヒメミコ)が(新たな)天皇を擁立し、(九州王朝の天皇に)天皇の位を皇太子に譲らせた」です。

 なんと日本書紀は、最後の一文で、これまで近畿天皇家の大王を「天皇」と記述してきたが、実はそうではなく、彼らは臣下である大王にすぎず、真の天皇は別にいたということを、自己暴露していたのです。
 ようやくここに始めてわれらは天皇位についた!と高らかに宣言したのかもしれませんが。

 従来の読みは「定策」という特殊な単語を無視して「天皇は、策(みはかりごと)を禁中に定めて、皇太子に天皇位を禅譲された」と呼んでいたのです。
 従来説の論者にとって「定策」の語は理解不能であり、困惑の種であったということです。

川瀬さんへ

>なんと日本書紀は、最後の一文で、これまで近畿天皇家の大王を「天皇」と記述してきたが、実はそうではなく、彼らは臣下である大王にすぎず、真の天皇は別にいたということを、自己暴露していたのです。

実は日本書紀(古事記も)は、近畿天皇家は九州王朝(九州王朝という言葉は出てきませんが)の分流であり、本流の王・天子は九州にいることを述べています。

それについては中小路駿逸氏が論証されています。(『宣命の文辞とその周辺』1984年 --『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社・2017年 所収)

書紀は近畿天皇一元史観で書かれているという固定観念を改めないといけないのではないでしょうか。

中小路氏の論証は、古田氏も含め他の学者先生方は黙殺されているようです。

「定策」の意義については、荒金卓也『九州古代王朝の謎』海鳥社・2002年、から知った次第です。

川瀬さん

漢文の素養はありませんが、「禁中において」でよいのではないかと
思います。「定策」の意味が「臣下が<天子>を位につけること」ですから。

ナカノさま

 中小路駿逸氏の論文のご紹介ありがとうございます。
 どこかで一度目にした記憶があります。
ネットで読めませんかね?

>書紀は近畿天皇一元史観で書かれているという固定観念を改めないといけないのではないでしょうか。
 その通りだと思います。編纂責任者はそういう意図だったと思いますが、実際に編纂した史官の歴史の真実を記録するという責任感が、真実をぼかして書かせたのだと思います。

>漢文の素養はありませんが、「禁中において」でよいのではないかと
思います。「定策」の意味が「臣下が<天子>を位につけること」ですから。
 これを「禁中において」と読むのだとすれば書紀は和製漢文ということになります。従来説は和製漢文ということで漢文の原則を無視し続けたのだと思います。
 漢文であれば「定策」が動詞です。したがって次に来る語は目的語。「禁中」が目的語。
 「定策」の語を用いることで天皇を擁立した「天皇」は実は天皇ではないと自己暴露したのだと思います。そして天皇の語の使用をさけて「禁中」で代用した。

 「定策」は、そのまま素直に読めば「策」を定める。策ははかりごとや命令。
 唐の時代に政治の実権を握った宦官が自己の意になる皇帝を擁立して政治をほしいままにしたことから「定策の国老」という言葉ができた。
 本来は(天子にしかできない)策を定めるという意味だったのに、これが「臣下が天子を擁立する」という意味になったのだと思う。
 だからこの使用例では定策は「擁立する」という意味に使われている。

追伸
 中小路駿逸氏の「宣命の文辞とその周辺」は、「文武天皇即位の宣命は、九州の「倭国」が受け継ぐ本流の名分を大和の王権が継承した宣言であることを指摘」した論文なのですね。
 出典は「続日本紀」かな?
 現代語訳では意味がわからないから、やはり原文の漢文で読まないとだめですね。

川瀬さんへ
肥沼です。

「宣命の文辞とその周辺」1984年 --『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社・2017年 所収)
何かの時に役に立つかもしれないと,この本を買っておきましたので,
今その時が来たようです。写真で撮ってアップします。

川瀬 様

すみません。先に紹介した論文でも書いてはあるのですが、次の論文でした。

中小路俊逸「神武東征の意味」1983年(上記遺稿集所収)

図書館においてあるかもしれません。ご近所の図書館を探してみて下さい。
なければ、購入依頼をすれば時間はかかりますが読めると思います。

急ぐのでしたら購入されたらよろしいかと定価2,500円+税です。

http://kaichosha-f.co.jp/books/history-and-folk/4546.html


定策の件ですが、

定策禁中の使用例として次のものがあります。(「中國哲學書電子化計劃」サイトから)

●八月,殤帝崩,太后與兄車騎將軍鄧騭定策禁中。(『後漢書』巻五「孝安帝紀」)

●桓帝崩,無子,皇太后與父城門校尉竇武定策禁中,使守光祿大夫劉儵持節,將左右羽林至河閒奉迎。(『後漢書』巻八「孝霊帝紀」)


これらも「禁中」は目的語になるのでしょうか。それとも書紀持統紀とは文の構造が違うのでしょうか。

ナカノさんへ

 定策禁中の用例を探していただきありがとうございます。
 ご指摘の二つの文でも「定策」は動詞、「禁中」は目的語です。
 中国語は英語と同じ文法です。だから動詞の次に名詞が来ればそれは目的語。「どこどこで」という意味で使いたいときは、名詞の前に前置詞を置きます。
 この二つの用例でも禁中の前に前置詞はないので、禁中で天子を指しており、定策禁中で天子を擁立するという意味になります。
 どちらの例でも新帝を擁立したのが皇帝ではなく、皇帝が急に崩御し、後継ぎも指名していなかったから、最初の例では「太后」とその兄の「車騎將軍鄧騭」が図って新帝を擁立。二つ目の例では、皇帝が崩御したが皇子がいなかったので、「皇太后」とその父の「城門校尉竇武」が図って新帝を擁立したということです。
 だから「定策」の一語で「臣下が帝王を擁立する」ということではなく、本来は「定策禁中」でその意味になるのだと思います。
 「定策国老」という使い方だと「臣下の分際で新帝を擁立し政治をほしいままにする国老」という意味になるのだと思います。これは「定策禁中」という用例を踏まえてのものです。

 書紀の編者は、こうした後漢書などの先行の漢籍の使用例を知悉したうえで使っているのだと思いますし、書紀の読者で中国の歴史書に造詣の深い人々は「天皇、定策禁中、禅天皇位於皇太子」の文を読んだだけで、瞬時に意味を理解したのだと思います。
 これが理解できなくなったのは、後世の、中国の史書に慣れていない人たちと現代人です。

 中小路さんの論文集はとても興味深いので、昨晩購入しました。明日午前中に手に入ると思います。
 
 貴重な論文のご提示と、定策についての論究。ありがとうございました。
 おかげさまで持統紀の最後の一文についての理解が深まりました。

川瀬 様

こちらこそご返答ありがとうございました。

漢文を勉強していこうと思います。
そして定策についても研究したいとおもいます。

ありがとうございました。

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