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2019年11月27日 (水)

「方位の考古学」と瓦塔

瓦塔を前に「夢ブログ」を扱った時,8世紀前後に作られたものと考えていた。

すると,イマイチ九州王朝のものか近畿王朝のものかわかりにくかった。

ウィキペディアでは,このように解説している。

奈良時代から作り始められ、平安時代初期に盛んに作られた。土師質または須恵器製の小塔であるが、

屋根、柱、組物などは木造塔のそれを模して表現されている。

長野県塩尻市菖蒲沢窯跡出土の瓦塔(奈良時代)は高さ2.3メートルで、日本最大の瓦塔である[1]

多くの瓦塔は出土した破片を組み上げて五重塔に復元されているが、

千葉県印西市馬込遺跡出土の瓦塔(2基)は七重塔に復元されている[2]

小型の仏堂内に安置され、人々の信仰の対象になっていたと考えられているが、

出土例が限られていることもあり、正確な用途はわかっていない。

埼玉県美里町東山遺跡からは平安時代初期の瓦塔(五重塔)と、

入母屋造重層の金堂をかたどった「瓦堂」が共に出土している[3]

これだと,完全に近畿王朝の時代の出来事という感じである。

ところが,8世紀前後は,九州王朝が近畿王朝にかわる交代期だ。

しかも私たちは,全国の遺跡の精査から「方位の考古学」という

土器編年の修正を求めている立場だ。

8世紀前後と言われて「はい,わかりました」と引き下がることはできない。

なにしろ飛鳥からの遠隔地である九州(西日本)や関東・東北(東日本)では,

100年の年代のズレが出てくるからである。

また,そもそも塔を重視する時代は,日本の仏教受容の終末期にはふさわしくなく,

むしろスタートにふさわしいと考える。

だとしたら,瓦塔は「九州王朝の最後の痕跡」ではなく,

仏教を中心に進めていくぞという「布教方針建造物」だったのではないか。

だから,九州王朝は東山道をはじめ各地の支配地に,瓦塔を配布した。

そして,それが土器編年の8世紀を中心に出土するものだから,

誰がその布教の中心だったかが見えなくなっているということではないか。

8世紀中心(近畿)⇒ 7世紀中心(九州)という切り替えが瓦塔にも必要だと考える。

Img_5455

【夢ブログ・瓦塔よ,ありがとう!】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-8282.html

Img_5454

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コメント

肥沼さんへ

 大事なところに注目されましたね。

>8世紀前後と言われて「はい,わかりました」と引き下がることはできない。
なにしろ飛鳥からの遠隔地である九州(西日本)や関東・東北(東日本)では,
100年の年代のズレが出てくるからである。
また,そもそも塔を重視する時代は,日本の仏教受容の終末期にはふさわしくなく,
むしろスタートにふさわしいと考える。
だとしたら,瓦塔は「九州王朝の最後の痕跡」ではなく,
仏教を中心に進めていくぞという「布教方針建造物」だったのではないか。
だから,九州王朝は東山道をはじめ各地の支配地に,瓦塔を配布した。

 とても論理的な考察になっています。
 特に塔を重視する思想は仏教受容の初期のことだとの推定が、土器編年が100年ずれることとあいまって、とても説得力がありますね。
 どこだったかな?書紀の天武紀だったか。諸国の家々に必ず仏像を置けとの命令があった。従来はこの「家」を「官家」と解釈したが、文字通りに個人の家だったかもね。
 だが家々に仏像を置く余裕のない一般の村々では、村の仏堂をつくり、そこに瓦塔を中心的礼拝物としておいたのかもね。
 九州王朝が配布したと肥沼さんは断定しましたが、瓦塔が須恵器窯跡から出ている例も多いですから、各村の「塔が欲しい」との要望に、窯を監理する官が応えた可能性もあります。
 このあたりはさらに精査が必要ですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 大事なところに注目されましたね。

〉  とても論理的な考察になっています。
 特に塔を重視する思想は仏教受容の初期のことだとの推定が、土器編年が100年ずれることとあいまって、とても説得力がありますね。

ありがとうございます。
台所で皿を洗っていたら,これまでバラバラに脳の中にあったいろいろなことが繋がりました。
(「瓦塔」「8世紀?」「方位の考古学」「初期は塔が中心」「終末に塔は似合わない」・・・)
散歩とか,家事とか,単純作業をしている時って,脳が働きやすくなるのかもしれません。
ギリシャ哲学で,「逍遥学派」っていうのがありましたね。

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