なぜ金石文には九州年号があまり現れないのか?(阿部さん)
金石文にはあまり九州年号が現れないところから,
その実在性を疑う向きもあるようだが,
その件について阿部さんがするどい意見を出していると服部さんが
その慧眼をたたえている。(「多元」154号)
つまり九州年号それ自体はあったが,その使用は義務付けられていた訳ではなく,
各々に任されていた。(わかりやすい干支の表現を,人々は使った)
ところが近畿王朝になって,「年号を使用せよ」という決まりが作られ,
特に役人はそれに従うことになったというのだ。
(そのため,九州年号より多く近畿年号が使われた)
700 ・ 701
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
九州年号はあったが, ・ 近畿年号が作られ,
干支が多く使われた。 ・ その使用が義務付けられた。
(当然あまり現れない) ・ (当然多く現れる)
ある意味「年号使用」についてのONラインというものが存在したのだった。
では,それについての決まりとは何か?
それは『令集解』の「儀制令・公文条」というものだそうだ。
こんなことが書いてあるという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
凡公文応記年者。皆用年号。
釈云。大宝慶雲之類。謂云年号。
古記云。用年号。
謂大宝記而辛丑不注之類也。
穴云。用年号。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結論を言えば,年号はあったが,使用すべしというルールは無なかったということである。
私は公務員だったので,書類を書く際よく管理職から「年号で書くように」と言われた。
しぶしぶ書いたものもあったが,そのお返しにという訳でもないが,
学級通信は一貫して西暦で書いていた。
ただ,昨今の様子を聞くと学級通信にまで管理職が「検閲」するらしく,
そうなると「公文書」などというレッテルが貼られて,「学級通信も年号で書け」
ということになるかもしれない。
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凡公文応記年者。皆用年号。(およそ公文・応記の年は、みな年号を用いよ)
釈云。大宝慶雲之類。謂云年号。(養老令の注釈書にいう。大宝・慶雲の類をいわゆる年号という)
古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。(古記(大宝令の注釈書)にいう。年号を用いよ。大宝と記して辛丑(などの干支)で記さずの類なり)
穴云。用年号。謂云延暦是。(穴(穴太内人)の養老令の注釈書にいう。年号を用いよ。いわゆる延暦などを是(年号)という)
問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。(問い。近江大津宮の庚午年籍では年号でしるされていない。いずれの法に依拠して年号を用いよというのか)
答。未制此文以前所云耳。(答え。この文ー凡公文応記年者。皆用年号。ー以前にこうした命令を定めたものはいまだ知られないというのみ)
要するに最後の問答によって、「凡公文応記年者。皆用年号。」との規定は「養老令」によって初めて定められたものであり、それ以前の例は不明である。
これが阿部さんが九州王朝時代にはこうした規定はなかったとする根拠ですね。
でもこの「令集解」の記述を根拠にして、「九州王朝時代には年号は定められたが、これを使えと官人たちに命令した法令はなかったので、各人は使い慣れた干支を使っていた。だから多くの金石文では干支が使われており、九州年号は使われなかった」と推論するのは早計だと思います。
そもそも年号とは、天子が時間も含めてこの宇宙を支配しているという思想の表明だ。当然年号を定めたのなら、官人ならみな、その記する公文書にはみな年号で年を記さねばならず、公文書に準ずる扱いである金石文でも当然そうだ。
そうせずに干支を使用を認めるということは、天子が時間まで支配しているという思想の否定となってしまう。
「令集解」は9世紀なかばごろに明法博士惟宗直本が著したものと言われる。近畿王朝が成立して150年ほどたったころ。そして彼が依拠した官制の養老令注釈書やさまざまな明法博士個人が記した注釈書もまた、大宝律令以後の近畿王朝による法令に依拠したもの。
当然依拠した法や注釈書では九州王朝の存在は消されているはず。
だから先の問いの答えでは、「未だ知られない」というあいまいな書き方になっているのだ。
こうした性格の史料をもとに、九州王朝時代を推測してはいけない。
では金石文に九州年号が少ない理由はなにか。
単刀直入に言おう。九州王朝の年号が記された金石文は、廃棄されたり改竄されたと。
そもそも九州年号で記された公文書などまったく残っていないではないか。残されたのは神社や寺の由緒書き等しかないのが現状だ。
これは明らかに文書を人工的に消滅させた証拠だ。
この九州年号の抹消は金石文にも及ばなかったわけはない。
「日本書紀」においてあれほど執拗に九州王朝の実在を消した近畿王朝。当然、それまで九州王朝の年号で書かれていた文書や金石文をみな廃棄したり改竄したりしたはずである。
投稿: 川瀬 | 2019年11月 1日 (金) 23:30
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 では金石文に九州年号が少ない理由はなにか。
単刀直入に言おう。九州王朝の年号が記された金石文は、廃棄されたり改竄されたと。
そもそも九州年号で記された公文書などまったく残っていないではないか。残されたのは神社や寺の由緒書き等しかないのが現状だ。
これは明らかに文書を人工的に消滅させた証拠だ。
この九州年号の抹消は金石文にも及ばなかったわけはない。
もちろん廃棄や改竄もあったでしょう。
実際,その痕跡もありますから・・・。
でも,私たち(少なくとも私)にとってはなじみのない干支を
古代の人は「わかりやすい」と思ったから使用していたことも少なくなかったと思うのです。
まあ,どちらかだけでなく,両方の例があったと私は考えます。
投稿: 肥さん | 2019年11月 2日 (土) 04:29
無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。 [隋書]
私はこれが理由のひとつじゃないかな、と思いますけどね。
投稿: ツォータン(佐藤浩史) | 2019年11月 2日 (土) 06:17
ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。
〉 無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。 [隋書]
私はこれが理由のひとつじゃないかな、と思いますけどね。
えっ,それはどういうことでしょう。
もう少し説明していただけますか?
投稿: 肥さん | 2019年11月 2日 (土) 08:05
九州王朝が文字を使用するようになった時期がかなり遅かった、ということです。
この隋書の記事を私なりに考察するなら、文字が広く使用されるキッカケが「百済に仏法の経典」を求めたことだと述べられています。
つまり仏教の経典を広めたり解釈するのにはどうしても中国文字の教養が必要になってくるので、仏教の広まりとともに官僚たちはもちろんのこと、ひろく民間にも漢字の知識が広まりだしたことと思われます。
私は九州王朝が制式に漢字を文字として使用するようになったのは、これよりさらに遅かったのではないかと思います。
投稿: ツォータン(佐藤浩史) | 2019年11月 2日 (土) 08:31
ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。
私は古田さんが書かれた室見川の銘板の話のせいか,
ずいぶん昔から知っていたのではないかと思っていました。
投稿: 肥さん | 2019年11月 2日 (土) 08:54
肥沼さんへ
>でも,私たち(少なくとも私)にとってはなじみのない干支を
古代の人は「わかりやすい」と思ったから使用していたことも少なくなかったと思うのです。
まあ,どちらかだけでなく,両方の例があったと私は考えます。
私的な文書ならそうでしょう。
でもいま問題にしているのは、公文書と、長く残すことを目的にした公的文書ともいえる金石文での年号使用の問題です。
そして私が問題にしたのは、干支の使用を認めてしまうと、天子が時間も含めて支配するという思想を否定することになること。
だから公文書での干支の使用は、九州王朝でも禁止されたと思います。
肥沼さんはここをどうお考えですか?
ツォータン(佐藤浩史)へ
「文字の使用開始が遅かったから、年号が金石文に使用されない」。これはおかしい。金石文そのものが漢字で掘られているのですから。
そして干支も漢字で表記されるものです。
これは別の問題と混同しています。
投稿: 川瀬 | 2019年11月 2日 (土) 09:12
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 だから公文書での干支の使用は、九州王朝でも禁止されたと思います。
公文書は,干支ではなく,必ず九州年号で書かれていたということですか?
投稿: 肥さん | 2019年11月 3日 (日) 00:06
>公文書は,干支ではなく,必ず九州年号で書かれていたということですか?
そのとおり。年号を定めた以上、こうしなくては意味がない。年号というものの性格からしてこうであるはずです。
投稿: 川瀬 | 2019年11月 3日 (日) 00:41
九州年号の有無だけで金石文が消されたり残ったりするものかなぁ、というのが正直な思いです。
それがあろうがなかろうが九州王朝の制度下での金石文は抹殺されたはず。
そうかと思えば法隆寺に法興が残っているなどの重い現実もあります。
九州王朝の文字使用が「教到」にはじまるのであれば時代的に問題はないのですが、隋書が書かれた段階で「無文字」と紹介され、なおかつ「敬佛法」がキッカケだと説明されているのでもっと遅い時期になると思います。
私の疑問(率直な困惑)はここから始まっています。
「九州王朝が制式に文字を使用する前、それまでの九州年号ばどう書かれ布告されていたのだろう」
実はこれ、数年来の私の疑問点なのです。
九州王朝からの布告が「刻木結繩」で為されていたとして、年号のみ漢字で表記されていたとはちょっと考えづらい。
年号の使用そのものが文字の制式使用の後、と考えた方がまだしも納得がいくのです。
結果として私の考察は阿部さんの考えに近いものとなります。
つまり「教養」として漢字の知識を持っていた人は多かったけれど、彼らの作る漢文の金石文に年号は刻もうにも刻めなかったのではないか。
これが今のところ私の考察結果です。
ただし川瀬さんの「廃棄」「改竄」説は、これはもっともなことだと思います。
なので私の考察は
「近畿王朝からの破却をまぬがれた年号入り金石文があまりに少ない理由」
として考えてくださって結構です。
投稿: ツォータン(佐藤浩史) | 2019年11月 4日 (月) 12:00
ツォータンさんへ
隋書の以下の記述をどう理解するかが問題だと思います。
「無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。」
冒頭は文字通り(昔は)文字を使用せず、木に刻んだ溝の数や縄に結ったコブの数で数を数えたり文字の代わりにしていた。ここの理解は良いと思います。
問題は次の一節です。
通常は百済から仏教が伝わったのは欽明7年(538)に百済聖明王が仏像と経典を送ったところからと理解されています。
でも隋書の記述は「百済から仏教の経典を求めたときに、初めて文字を使用するようになった」と書かれています。書紀にあるように百済から仏像と経典を送ってきたのではなく、倭国から求めたとあります。
要するに隋書で書かれた「於百濟求得佛經」は欽明7年の事件の事ではないわけです。
と考えれば当然、「継体」と年号が定められたときにはすでに、倭国では文字は使用されていたということになります。いやそもそも、中国に国書を送ったり、中国から国書をもらったりした時点からすでに文字を使用していたということになります。
もちろんここにある文字とは漢字のことです。
倭国が中国に国書を送ったことが明らかな時点は、漢に使いを送った時点ですでにあったはずです。つまり紀元後57年。後漢建武中元二年の話。
有名な「漢委奴国王」の印は、倭国の人が漢字を読めなければ贈った意味はありません。
そして卑弥呼の時代に何度も国書がゆききしているのも事実です。この事実だけで倭国では漢字が使用されていたことを証明します。
そしてすでに2世紀から3世紀において、鏡や太刀に、中国の年号が刻まれた例も多数見られ、これらも中国などから下賜されたとしても、倭人が漢字を読めなければ下賜した意味すらありません。
肥沼さんがおっしゃったように、室見川銘文がすでにあるのですから、倭国における漢字の使用開始年代はずっと以前に遡るのです。
さらに追記すれば倭の五王の中国への上表文の存在。これは5世紀です。
この前の4世紀にはしきりに朝鮮半島の国々と使節のやり取りがあり、倭国も軍事進攻をしています。
隋書の記述の理解が間違っていると私は考えます。
では倭国が百済に仏教経典を求めたのはいつか。
これは百済という国ができた4世紀以後としか言えません。
投稿: 川瀬 | 2019年11月 4日 (月) 18:04
私は「この場は論議・討論の場ではない」と思っているのであまり持論の応酬はしたくない上、金石文の話題からも外れてしまうので、簡潔に。
私がこの問題での重要ポイントだと思うのは
「倭国の知識人が漢字・漢文を理解していたか」
ではなく
「九州王朝が制式にどういう方法で臣民に政策などを布告していたか」
なのです。
わかりやすく年号だけに絞っていうなら。
「九州王朝が制式に布告した九州年号は『倭語』だったのではないか」
ということ。
いい例が朱鳥という年号。私の理解では次のようになります。
①九州王朝は「あかみとり」という年号を制定し布告した。
②「朱鳥」という文字はこの制式年号「あかみとり」の漢訳表記である。
先日、私は数年前に「隋書」の例の一文からこの問題に直面した、と告白しました。
川瀬さんの論評はすでに数年前に私が通り過ぎた一地点なのです。
「無文字、唯刻木結繩」
この意味をじっくり考えた時から、私は古代倭国について「はじめに漢字・漢文ありき」の固定観念からはキッパリ決別しました。
倭人たちにとって漢字・漢文はあくまでも外国語である、と。
最後に
「なぜ金石文には九州年号があまり現れないのか?」
という問いに再度答えておしまいにしたいと思います。
制式に倭語・倭文字の類で布告されていた九州年号を、漢字・漢文の金石文に刻むのは無理があったのではないか。
これが私の見解です。
投稿: ツォータン(佐藤浩史) | 2019年11月 5日 (火) 23:19
ツォータンさんへ
>「無文字、唯刻木結繩」
この意味をじっくり考えた時から、私は古代倭国について「はじめに漢字・漢文ありき」の固定観念からはキッパリ決別しました。
倭人たちにとって漢字・漢文はあくまでも外国語である、と。
もちろんそうです。
問題はこの「古代倭国」、漢字も漢文文化も持たなかった時代はいつのことかということなのです。逆に言えば、倭国が漢字を正式に採用したのはいつの事かということなのです。
ツォータンさんはこの問題の判断を回避している。「敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字」がいつのことなのかの判断を回避している。
この重要な問題を回避しておいていきなり、
>制式に倭語・倭文字の類で布告されていた九州年号
と、なんの史料的根拠もなく「断定」してしまう。
これは歴史学の思考・論証方法でありません。
朱鳥年号に「あかみどり」との訓が書紀ではつけられています。たぶんこれを根拠に、年号はもともと和語(倭語)で出されたとされたのだと思います。
漢語は外来語です。最初はこれを中国語で読んでいたわけでしょうが、すぐに倭語で読み下そうという試みが出てきたはずです。そうでないと倭人には理解できないので。
したがって倭製の元号を作るときには、漢語と倭語両方を併記したと考えるべきです。
投稿: 川瀬 | 2019年11月 6日 (水) 12:55