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2019年11月10日 (日)

古代史セミナー 2019(2日目)

昨日はハイテンションでなかなか寝付けなかったので,

熱いシャワーを浴びてから寝た。

1日目で「お仕事」は終えたので,今日は1日楽しもう。

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まず,ブログの更新から・・・。

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【朝食】全部取ったら,こんな風に・・・(和食OR洋食だったんだね)

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☆ うれしいニュース ☆

午前中の研究会が始まる前に.お二人の方(HさんとYさん)が

「昨日の発表.良かったです。自然科学的な感じがしました。

ぜひ頑張って下さい。」と声を掛けて下さいました。

今回の古代史セミナーで,「方位の考古学」の支持者が一挙に倍増したかも!?

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・研究発表Ⅱ (司会は,大墨さんです)

【安彦克己さん・・・安日彦の本拠地を探る】

・古田先生とのやりとりをしたこの場所は,自分にとって聖地です。

・安日彦の本拠地は,加賀⇒大和か?

【菊地栄吾さん・・・「孝季・吉次年譜」とその謎】

・昨日の「方位の考古学」の発表の際,一番最初に応援して下さいました。

・孝季・吉次・りくの年譜を書いてみると,いろいろなことがわかったそうです。

【合田洋一さん・・・秋田孝季の歴史観をただすー「六国史」等記載の「渡嶋」について】

・「渡嶋」の研究は,大学生の時から。教授から出版を勧められたがお金の都合で…。

・その後古田さんの推薦もいただき出版したのが,今回の『地名が解き明かす古代日本』である。

・渡嶋は北海道ではなく,青森県の一部を指すのを,「六国史」が間違って伝えた。

・積丹半島は,昔女人禁制の地だった。それはカムイの聖地だったから。

【西坂久和さん・・・田家文書のスキタイ・ゲルマンについて】

・今回の「方位の考古学」で大変お世話になった方である。

・和田家文書では,「黒竜江を遡り,モンゴルから西山靼へと通じる北方草原の道」が

発達していたと伝えている(竹田侑子氏の要約)。

これらの道は,縄文時代から交易路として発達していて,

全ユーラシア的に共通な文化圏を形成していたのではないだろろうか。

・刺青も共通的にされている。また,幻覚性大麻を使用していたことが考えられる。

他にも,蕨手紋・シャーマニズム・墳墓などもかなり共通しているようだ。

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【昼食】

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・研究発表Ⅲ

【大墨伸明さん・・・「念仏不信人」と記された『一枚起請文』の新史料について】

・これは今回のセミナーの一押し研究。私だけでなく何人もの方がおっしゃっていた。

・昨年安彦克己さんが取り上げた「一枚起請文」の漢文文書について扱ってみた。

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・「不」という字が入ると反対の意味になる。それをどう解釈するか?

・1195年の頃(布教初期)の法然の表現ではないか。

その後,教団はその教義を「継承」しつつも,何らかの変容がおきたのではないか,という問題につながる。

・大学の先生にも問い合わせをしたが,すぐには答えてもらえていない。

しかし,ぜひ専門家の先生にも考えてもらいたい問題だと考える。(安藤昌益の平等論のように)

・安東氏の思想を背景とした平等教院(藤本さんの菩提寺)の成立と関係あるか。

【井上肇さん・・・『日本後紀』巻第五 延暦十六年三月戊子野の甲斐・相模二国境争いを定めた件】

・現在の県境は,律令時代の国堺,さらにはその昔の各国が多元的に成立していた時代の姿を反映している部分が多い。

甲斐(山梨県)・相模(神奈川県)の国堺が決まる経過を例として,現在の県堺が定まっていった様子を調査した。

・孝徳紀には「東国八道を治めしむ」,天武紀には「諸国の境堺を限分ふ」などという記事はあるが・・・。

【大下隆司さん・・・難波宮遺構の考古発掘報告書の批判】

・大下さんからも,「昨日の「方位の考古学」の発表,良かったですよ」と声をかけていただきました。

・いただいた当日資料の中には,川瀬さんの2つのブログ記事がを取り上げていました。

(川瀬さんには資料のコピーを送りますね)

・A・・・難波宮出土の土器 

1)難波宮遺構下の地層

      2)整地層はいつ造成されたか

      3)難波編年(大阪歴博)への疑問

・B・・・上町台地の「九州王朝の痕跡」?古田先生の疑問

      4)上町台地出土の「筑紫土器」

      5)手工業生産地としての上町台地

・C・・・まとめ

6)「副都説」の構造と問題点

7)「古田史学」の継承のために

(配布資料)

 ➀副都説論争のまとめ

 ➁整地層出土の杯「B」

(「副都説論争」参考ブログ:川瀬健一)

 1)いかにして「前期難波宮九州王朝副都説」が虚妄であることに気が付いたのか

 2)古賀・大下論争を読み解くー「前期難波宮九州王朝説副都説」について」

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・大下さんの批判は「古田史学会報」151号の古賀さんの論文だったが,

古賀さんもその批判を予期したのだろう,コピーを配付し再批判をしていた。

「当時は「整地層」としか言えなかったが,今は火災の前後で分けられる。正確に表現してほしい。

批判は相手の主張の趣旨をくんで書くべき」

そのあと,大下さんが再々批判。

大墨さんが,両者の考え方の解説をして下さった。

土器の編年の議論から,土器の分布圏(文化圏)の議論へというのが,古田先生の趣旨だったのではないか。

(筑紫土器は,U地点から大甕の土器破片7個の出土というのは,半島系土器破片の37個と比べると少ない気も)

筑紫系★★★★★★★7

半島系★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★37

【久保玲子さん・・・八面大王論―古田武彦氏の「八面大王論」を補強する―】

・九州王朝の最後の地は,鬼無里村ではないか(私は高校・大学時代,赤門塾の夏の合宿でよく出掛けた!

確かに「西の京」などという地名があったなあ)。

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・隣接する小川村に「日本記」という地名がある。「ここを日本と記した」という証拠か。

(夏の合宿の際,「ハイキング」の日に小川村に行った。

「なんてのどかな昼下がり」という歌を作ったことを覚えている)

・天武紀に信州遷都の話が出てくる。宮城(みやしろ)というところにある魏石鬼の洞窟。

首塚。高良幅玉垂水の地名。高良社がいくつもある。なぞの飛鳥仏がいくつもある。善光寺も関係の寺か。

雨宮神社は,天宮神社か。そこで行われる奇祭。「生仁川」「斎場橋」「左に3回廻る」

「橋がかり(逆さづりで水責めにされる)大和勢力の追っ手に捕まって処刑された!?

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【youtubeの動画】

https://www.youtube.com/watch?v=p9h0cTAqOlI

・船による交易で,かなり経済的基盤があり,とてつもなく大きな勢力,「王権があった」と言われている。

天族の先人たちの勢力が古くからあり,そこに逃げられたのではないか。

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・荻上さんの話と来年度の予定(11/14(土)~11/15(日))

大学セミナーハウスと古田光河さんへのアンケートを書き,解散。

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【懇親会】8人で,八王子駅前の居酒屋で懇親会を行う。

古田さんの生前のいろいろなことを知れた。

 

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コメント

肥沼さんへ

 二日目もなかなか充実したものでしたね。
 大墨さんの論考も面白い。
 信濃遷都の話が天武紀にあるが、ここは「主語有無の論証」からも、九州王朝の事績です。九州王朝の最後の地が信濃かもというのも、面白い立論です。
 大下・古賀論争が、ふたたびここで起きましたか。良いことです。
 ところで古賀さんからは「方位の考古学」に疑問はなかったのかな。
 「方位の考古学」のテーゼにより、太宰府は6世紀末から7世紀初頭の都城となる。
 こうなると太宰府こそが日本最古の方形街路を伴った都城。
 年代から考えても、こここそ、全国に評制施行を宣言した(「大化の改新})都であり、この政庁の北にあった「内裏」こそ、書紀にある「味経宮」だ。
 したがって古賀さんの、前期難波宮こそ評制施行の九州王朝の複都との説は、完全にふっとぶ。
 このことに古賀さんは気が付いておられるのだろうか。
 来年のセミナーには、「方位の考古学」のテーゼを応用すると、既存の歴史論が如何に変わるかを報告したいね。特に太宰府だ。

追伸

 大墨さんの資料もできたらコピーしてください。
 昨年のセミナーにおける安彦克己さんの論証も、とても手堅い良いものだと思いましたが、大墨さんがこれに何を付け加えたのか知りたいです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ところで古賀さんからは「方位の考古学」に疑問はなかったのかな。

今回は大下さんの批判対策のことが頭を占めていたと思いまので,
特にコメントはありませんでした。


〉  したがって古賀さんの、前期難波宮こそ評制施行の九州王朝の複都との説は、完全にふっとぶ。
 このことに古賀さんは気が付いておられるのだろうか。

さあ,どうなのでしょうね?

〉 来年のセミナーには、「方位の考古学」のテーゼを応用すると、既存の歴史論が如何に変わるかを報告したいね。特に太宰府だ。

ぜひ「この一年間の成果です」と言って報告したいものです。

〉 大墨さんの資料もできたらコピーしてください。

了解しました。いっしょにコピーして送ります。

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