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2019年11月11日 (月)

鬼無里村と小川村

八面大王伝説の土地が,まさか私が赤門塾の夏合宿で

高校時代・大学時代に親しんだ鬼無里村や小川村だったとは・・・。

人生の不思議さを感じます。私がそこで作った歌2曲。

鬼無里村讃歌

バスを降りてみたら もう違う所
未知の世界に入っていく 小さな玄関
めまぐるしさを離れて
のんびりするのもいいことです!
そんな時 ウ… そんな時 ウ…
やさしく笑って迎えてくれる
鬼無里村が鬼無里村が
やさしく笑って迎えてくれる

朝がやってきたら 眠い目をこすり
「おはよう」なんて知らない人に 言ってみたりする
赤とんぼが運んだ 昨日の夢はどうでしたか?
そんな時 ウ… そんな時 ウ…
青空の下でささやきかける
鬼無里村が鬼無里村が
青空の下でささやきかける

 

小川村讃歌(なんてのどかな昼下がり)

真っ白な入道雲が 山の向こうに湧き上がる
風が吹き過ぎる 小さな畑のタバコの葉を揺らして
せみの声聞こえる方に あの村があるんだろう
それをめざして一歩一歩 ナップ背負い登ってく

小島や角田や篤や前川や祐一たちと 山の暮らしを語りながら
小川村に向かって歩く なんてのどかな昼下がり

名も知らぬ黄色い花や 道ばたの小さな草に
1つひとつ不思議な驚き 感じながら
あの角を過ぎればきっと 俺たちの目的地
ほおに汗してもうひと頑張り 昼飯はおいなりさん

小島や角田や篤や前川や祐一たちと 山の暮らしを語りながら
小川村に向かって歩く なんてのどかな昼下がり

 

※ 古代史セミナー 2019(2日目)の

久保玲子さん「八面大王論」参照

奇祭「橋がかり」(水責め)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 ちなみに、書紀天武紀の信濃造宮関係記事を挙げておきます。

〇十三年二月庚辰、遣淨廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・錄事・陰陽師・工匠
等於畿內、令視占應都之地。是日、遣三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃令看地形、將
都是地歟。三月辛卯、天皇、巡行於京師而定宮室之地。夏四月壬辰、三野王等、進信濃
國之圖。

〇十四年冬十月壬午、遣輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮、
蓋擬幸束間温湯歟。

 どの記事も、冒頭において主語が省略され、○○を派遣するとなっていますので九州王朝天子の行為を指す記事です。

<読み下し文>
 天武13年の2月に、淨廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・錄事・陰陽師・工匠等を畿内に派遣し、都に相応しい地(占=風水などにもふさわしい)を巡視させた。この日に、三野王・小錦下采女臣筑羅等を信濃に派遣し、地形を視察させ、まさにこの地こそ都する(にふさわしい)地かを見させた。。3月に天皇は(これは九州王朝の天子。読者を欺くために筆者が挿入)京師(首都周辺)を巡幸し、宮を造る地を定めた。夏4月、三野王等は、信濃の地図を進上した。
 天武14年の冬10月に、輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に派遣し、行宮を造営させた。けだしこれは、束間温湯に行幸するためか。

<解釈>
 この時期九州王朝天子は(新たな)都に相応しい地を探せていた。一つは畿内において。もう一つは信濃の地において。
 新たな都の候補地を探している。畿内と、遠く離れた信濃の二か所に。そして畿内の地はすぐに定まり、それは京師の地であった。つまり太宰府管内。そこに新たな宮を造営する場所を天子自ら巡幸して定めた。
 信濃の地には行宮を建設させた。これは束間温湯で湯治をするための行宮である。

 唐・新羅との戦いの敗戦国である日本国の王・天子は、首都太宰府を立ち退き、新たな宮を建設する場所を探していたということか。
 結局新たな宮は太宰府管内に作られ、信濃には湯治のための行宮が作られた。
 信濃は湯治のための行宮と表向きはされているが、もしかしたら最後の避難所であるかもしれない。ここを暗示するのが最後の一文「令造行宮、蓋擬幸束間温湯歟。」。

 以上の記事を参照すると、九州王朝最後の地が信濃であったかも、との「仮説」が成り立ちます。
 八面大王に関する伝説がその証拠になるかどうかは、今後の検討課題だと思います。

 新たな宮はどこに作られたのか。
 この一文の直前の天武12年に「詔曰、凡都城宮室、非一處必造兩參、故先欲都難波。是以、百寮者各往之請家地。」の一文がありますから、第一候補地は、九州の難波であったことはたしかです。
 そして天武14年の翌年の朱鳥元年春正月の「乙卯酉時、難波大藏省失火、宮室悉焚。或曰、阿斗連藥家失火之引及宮室。唯、兵庫職不焚焉。」という記事がありますから、この天武13年に新たに作られた九州王朝天子のための宮は、難波にあったことはたしかです。そしてこの宮はなんらかの失火によって悉く焼失してしまった。
 このあと宮を失った九州王朝天子がどうなったかは、天武紀は記していません。
 天武紀では天武の「即位」に際して筑紫大宰が貢物を送っていますから、太宰府はすでに近畿王朝の手に落ちていたものと思われます。
 持統の「即位」に際しても同様です。 
 そして天武の崩御と持統の即位に対して新羅がさまざまな贈り物を携えた使節をおくっていますから、実質的な日本統治権も近畿天皇家にあったことはたしかです。

 持統が新たな宮の造営にはいるのは、持統四年。藤原の地です。
 この四年間は近畿天皇家内部で大津と草壁の継承の争いが置き、勝った草壁の急死で持統が統治せざるをえず、近畿天皇家内部の混乱を納めるのに時間がかかって、九州王朝の天子をどうするかどころではなかったのではないでしょうか。

 天武紀下と持統紀を精査してみて、その後の九州王朝天子の動向を探ってみる必要があると思われます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  結局新たな宮は太宰府管内に作られ、信濃には湯治のための行宮が作られた。
 信濃は湯治のための行宮と表向きはされているが、もしかしたら最後の避難所であるかもしれない。ここを暗示するのが最後の一文「令造行宮、蓋擬幸束間温湯歟。」。

鬼無里というのは,かなりの山奥です。長野市街地から,バスで1時間以上かかります。
谷底に真っ逆さまというような崖の脇も通ります。
しかし,そこを抜けると,比較的開けた山村もあります。
もちろん信州ですから温泉は出て,私も鬼無里村内の温泉に行ったことがあります。
いずれにしても,筑紫の平野部とはまったく違う環境とは言えます。

〉  この四年間は近畿天皇家内部で大津と草壁の継承の争いが置き、勝った草壁の急死で持統が統治せざるをえず、近畿天皇家内部の混乱を納めるのに時間がかかって、九州王朝の天子をどうするかどころではなかったのではないでしょうか。

そうですね。その間隙をぬって,「信州に都を移す行動」にでたのかもしれません。

肥沼さんへ

>そうですね。その間隙をぬって,「信州に都を移す行動」にでたのかもしれません。
 
 これは無いと思います。
 肥沼さんは後岡本宮のエビノコ郭を九州王朝天子を幽閉したところとしました(私も同感)。そして前期難波宮の東方郭も同様だと(これも私も同感)。
 さらに付け加えれば天智の大津宮もどうように九州王朝天子を幽閉したところだと思う。
 なぜ幽閉したか。
 実質的な統治権は簒奪しても、まだ統治の権威としての「天皇位」は奪っていない。
 名目的な権威として、近畿天皇家の掌中に握っていないといけないからだ。
 
 とすれば、いくら近畿天皇家内部の混乱収拾に手間取っていたとしても、九州王朝天子を野放しにはしないでしょう。
 天武が前期難波宮を完成させたあとで、九州王朝天子は九州に戻っていたことを、先の書紀の都選定論議資料は示していると思う。
 九州王朝天子は、太宰府を近畿天皇家に接収されたあと、新たな都を探した。
 この際複数あっても良いと考え、まず太宰府遷都以前の旧都である難波宮に居した。そしてもう一つ新たな宮を建設しようとした。
 前のコメントで新たな宮を難波宮としたのは間違い。
 新たな宮は朱鳥元年の所に出てくる宮。
 「秋7月戊午、改元曰朱鳥元年朱鳥此云阿訶美苔利、仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」
 飛鳥浄御原宮だ。
 これがどこにあったかは書紀からはわからない。
 天武紀下冒頭の天武即位のところで「卽帝位於飛鳥淨御原宮。」としたのは九州王朝の宮の名を簒奪しただけのこと。
 九州王朝天子はこの九州の新都にいたと思う。もちろん近畿天皇家の監視の下で。

 信濃にある遷都伝説や雨宮神社の奇習を九州王朝と結びつけて、「九州王朝の天子か皇子がここに逃げてきて近畿天皇家の追っ手に殺された」と考えたいのなら、これは続日本紀に出てくる「山沢に亡命した」記事に結び付けて考えるべきでしょう。
 すでに文武に天皇位を禅譲した九州王朝天子は用済み。
 きっと九州に戻ったことでしょう。
 でも九州王朝⇒近畿王朝の変化を受け入れない人々は抵抗したはず。当然天子なり皇子がいればそれを担いで抵抗したはず。
 ここを史料で確かめなければ。
 セミナーの発表は、単に信濃の伝説や奇習を紹介しただけのもの。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  なぜ幽閉したか。
 実質的な統治権は簒奪しても、まだ統治の権威としての「天皇位」は奪っていない。
 名目的な権威として、近畿天皇家の掌中に握っていないといけないからだ。

そうでした,そうでした。

〉 すでに文武に天皇位を禅譲した九州王朝天子は用済み。
 きっと九州に戻ったことでしょう。
 でも九州王朝⇒近畿王朝の変化を受け入れない人々は抵抗したはず。当然天子なり皇子がいればそれを担いで抵抗したはず。
 ここを史料で確かめなければ。
 セミナーの発表は、単に信濃の伝説や奇習を紹介しただけのもの。

なるほど,久保さんの発表は一つの仮説を提示したということか。

肥沼さんへ

>なるほど,久保さんの発表は一つの仮説を提示したということか。
 はい、その通りです。
 吉村さんも信濃と九州の文化の共通性を示されてこの問題に取り組んでいますが、こちらもいまだに状況証拠だけ。
 やはり、『日本書紀』『続日本紀』という、編纂物という二次史料ではありますが、当時の一次史料満載の歴史書の精査が求められているのだと思います。
 ここで活躍するのが「主語有無の論証」。
 この解読法をもっと精緻化して、書紀本文の再解読をしなきゃいけませんね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ここで活躍するのが「主語有無の論証」。
 この解読法をもっと精緻化して、書紀本文の再解読をしなきゃいけませんね。

はい,その通りです!
「主語有無の論証」の力を借りて,
『日本書紀』や『続日本紀』を読み解きたいです。

肥沼さんへ

>「主語有無の論証」の力を借りて, 『日本書紀』や『続日本紀』を読み解きたいです。

 おおー!! ついに肥沼さんから、書紀解読の前向き発言が出た!!!
 ネット環境がありますから、じっくり二人で検討しませんか。
 どこから始めようかな。
 方法は、「日本書紀全文検索」のサイトに全部テキスト化されているから、それを一文ずつコピーして、肥沼さんが釈文を作る。それを私が監修して完成。この手順。
 「斉明紀」はすでに私がやったから、その前の「孝徳紀」から始めるか、次の「天智紀」から始めますかね?
 私の方はいつでも準備オーケーです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  おおー!! ついに肥沼さんから、書紀解読の前向き発言が出た!!!

今の全国の遺跡の精査が終わってからということになりますかね。

〉 どこから始めようかな。

孝徳紀はけっこう興味があります。
怪しすぎる感じもしますが・・・。

肥沼さんへ

>今の全国の遺跡の精査が終わってからということになりますかね。
 とても前向きの発言で良いと思います。
 悉皆調査が終わったら、のんびり焦らず始めましょう。

>孝徳紀はけっこう興味があります。 怪しすぎる感じもしますが・・・。
 ここから始めましょう。評制全国施行の問題にかかわる、肝となるものですから。

●方法●
 日本書紀全文検索のサイトから
 http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
 孝徳紀を選び
 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_25.html
 幸い段落を切ってくれているので、毎日一段落えらび、肥沼さんが、原文を明示して、釈文をつくる。
 それを私が監修して釈文を確定させる。

 段落が長すぎたら、肥沼さんの好きなように途中で切って釈文をつくる。
 で良いと思います。
◆注意事項◆
1:「主語有無の論証」に気を付ける
 a:段落の冒頭で主語が省略されているときは九州王朝の事績。主語が天皇と明記されていれば近畿天皇家の事績。
 b:段落の途中で「天皇」と主語を明記したり、主語を省略することがあるが、これは書紀筆者の目くらましと考える。
 c:ただし例外的に、内容からして明らかに近畿天皇家の事績と考えられる段落で、冒頭から主語が省略されている「目くらまし」があるので注意。

2:何も参考にしないで漢文から釈文を作るのは無理でしょうから、岩波版の釈文や注を参考にしてください。岩波版は講談社学術文庫版と違って、きちんと主語有無を原文に添って記しています。そして詳細な注があるので参考になります。

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