宣命の文辞とその周辺(2)
(削除いたしました)
« 「宣命の文辞とその周辺」(1984年・中小路駿逸) | トップページ | 母の歯の話(2) »
「古田史学」カテゴリの記事
- 払田の柵の柱の年輪年代について(2021.01.25)
- やはり入手しておくか(2021.01.22)
- 新田郡庁跡と泉官衙遺跡の時期の比較(2021.01.20)
- 日本最大の大きさの「新田郡衙遺跡」(2021.01.18)
- 郡山遺跡Ⅱ期と多賀城Ⅱ期の「石敷き」(2021.01.18)
« 「宣命の文辞とその周辺」(1984年・中小路駿逸) | トップページ | 母の歯の話(2) »
(削除いたしました)
« 「宣命の文辞とその周辺」(1984年・中小路駿逸) | トップページ | 母の歯の話(2) »
肥沼さんへ
論文の掲載ありがとうございます。
ざっと読んでみました。
要するに文武の宣命では、初代の王は高天原から天下った王だと宣言しているのに対して、書紀神武紀は、神武こそ初代王と宣言している。
この違いを考察したのですね。
書紀の記述は近畿天皇家の歴史としては事実である。
そうして同時にまた文武宣命の記述もまた歴史的事実である。
したがって結論は、文武の王朝は高天原から天下った王朝の分家でしかなく、いまその本流からわれらが統治権を奪い取ったとの宣言だと。
見事な論考ですね。
万世一系の近畿天皇家が列島を支配してきた。
この観念は書紀でも書かれていない。
むしろそれは文武に始まる宣命の語る歴史を「誤解した」ものだったということだ。
それはいつだろうか。
一つの仮説としては江戸時代の国学派でしょうね。
あとでもう一度じっくり読んでみます。
投稿: 川瀬 | 2019年11月21日 (木) 18:01