懐かしい資料と再会(初代・武蔵国分寺は正方位だった!)
運動不足解消も兼ねて,武蔵国分寺・国分尼寺周辺を歩いた。
すると,四中の資料室で懐かしい資料に再会した。
「南比企の須恵器と武蔵国分寺」というパンフである。
と言っても何のことかわからないだろう。
実はその7ページに「政所院・大衆院推定地」と「修理院推定地」の図が出ているのだ。
(写真をクリックすると拡大します)
当時国分寺四中遺跡に関心を寄せていた私は,
後者の方を紹介しようとしてブログにアップしようとしたのだが,
川瀬さんは昔の国分寺は塔と同じ正方位の伽藍配置だと考えていたので,
前者の方に注目したのだった。
確かによくみると,7°西偏の今の国分寺に対して,
塔の北側にそれに合う正方位の伽藍が並んでいる。
しかも,「礎石建物・堀込地業」と書いてあるものもあり,
本格的な建物が建設されていた(少なくとも建設予定だった)ことがわかる。
資料にはぼかして「伽藍地東辺溝とほぼ同じ方位の」と書いてあるが,
これは「塔とほぼ同じ方位の」と言ってもよく,塔と南北棟たちの間にある
東西棟たち(おそらく金堂や講堂)の発掘が望まれる。
国分寺四中資料室の担当の方は,時々交代するようで,
以前には「あそこからは何も出ていません!」と言い切る方もいた。
少なくともこの資料には,「SB87掘立柱建物」(数年前に発掘?)の説明として,
「東西8.2m,南北20.8m(教室2個半分の広さ)の大型の掘立柱建物。
「納」・「東」墨書土器が出土。周辺から円面硯が出土しています」とあるから,
西側にも対の掘立柱建物がありそうだし,硯(寺務に必要)を使った文章の作成もされたろう。
住宅地のところは引っ越しや道路・水道工事の際しかチャンスがないかもしれないが,
これだけ正方位の寺院の可能性があるのだから,せめて寺院地内の発掘くらいはしてほしい。
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