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2019年11月17日 (日)

「主語有無の論証」について

「主語有無の論証」とは,川瀬さんが『日本書紀』などの史書を読み解く方法として,

中国史書(隋書だったかな?)から学んだものです。

つまり,主語の有無によって,誰がやった事績か判断していくというもの。

一般には,文頭は主語で始まりますから,その人物がやったこと。

文頭なのに主語がないのは,他の人(前王朝の天子)がやったこと,と判断します。

ただ,それだけだと読み解かれてしまうので,わざと迷わせる文も混入させている。

(例えば,本当は天皇の位は,九州王朝の最後の天子⇒文武天皇なのを,持統天皇⇒文武天皇のように)

だから,文脈を読み取って解釈していけば,「『日本書紀』が九州王朝の記事を取り入れて作られた」

という範囲を越えて,これは「九州王朝の記事」これは「近畿王朝の記事」と判定することができる。

(このようにして,川瀬さんが精査したのが,次の「九州王朝の天子の動向」です。ぜひお読み下さい)

川瀬さん,こんな説明でよろしいでしょうか?

私の考えでは,「主語有無の論証」が文献解釈を,

「方位の考古学」が考古学を,大きく進歩させると思っています。

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 「主語有無の論証」の説明ありがとうございます。
 ただし「それだけだと読み解かれてしまうので,わざと迷わせる文も混入させている。」以外にも目くらましがあることに注意したい。
 昨日上城さんから以下のようなメールが。
 「主語有無の論証。なかなか難問です。日本書紀の記事。大量の主語のない文面があり、その中には九州王朝のものが確かに存在しますが、どちらとも言えないものがあり、裏づけが取れない点もあり、難問です。」

 これへの返信を先ほどしました。ご参考までに。
「上城さんへ

 「主語有無の論証」。
 一つの段落の冒頭に主語を省略した明らかに天子・天皇の行動と見られる記述がある場合には、これは九州王朝天子の行動と読む。
 逆に一つの段落の冒頭に天皇と主語を明記した記述がある場合には、これは近畿天皇家大王の行動と読む。
 ただし書紀の筆記者は、この読み方を悟られないように、各所に目くらましを入れている。

 一つは、九州王朝天子の行動でも近畿天皇家の大王の行動であっても、冒頭以外のところでは、天皇と主語を入れたり、主語を省略したりして、先の原則が悟られないように偽装している。
 さらに複雑なのは、内容から明らかに近畿天皇家の大王の行動と見られる段落でも、冒頭にわざと、主語を省略して天子の行動と読めるような書き方をするときもある。

 したがって先の原則とその目くらましの方法を念頭に置きながらも、一つの段落を全ごとの関係に注意しながら、一つ一つ、九州王朝天子の行動なのか、近畿天皇家の大王の行動なのかを判断するしかないです。

 でもここさえ乗り越えられれば、日本書紀の記述から、古代の真実が明らかになります。」

 あとは場数を踏めば解読の仕方はどんどん精緻化します。
 まずは上の原則と目くらましの方法を頭に入れてやってみることです。

追伸

>私の考えでは,「主語有無の論証」が文献解釈を,
「方位の考古学」が考古学を,大きく進歩させると思っています。

 その通りです。
 どちらも、肥沼さんが武蔵国分寺の塔と金堂院とが方位が異なることに気が付かれ、これは違う時代に違う王朝によって作られたのではと仮説を立てられ、「多元的国分寺研究サークル」をネット上に立ちあげられたからこそ出てきた成果です。
 西偏7度の金堂院=8世紀の近畿王朝の時代。正方位の塔=7世紀の九州王朝の時代。
 これが鋭い推理であったことは、「方位の考古学」の成果と、その前に服部さんによってなされた「素弁蓮華文軒丸瓦の年代比定の再検討」によって証明されました。

 すべてが肥沼さんのヒラメキから始まった。
 肥沼さんがネットで議論できる場を作ってくださったから、私も参加できました。おかげで私の主題である近代史の研究が遅れていますが・・・・・。あと30年元気で活動して両方とも完成するつもり。
 肥沼さんに感謝です。

追伸:数日前から、12月7日土曜日の午後二時から、拓殖大学文教校舎で行われる、日本英学史学会本部例会で発表する「齋藤修一郎と英学②-2 南校・第一番中学時代」の原稿を書いているところです。齋藤は私の母方の曾祖父で、明治の外務官僚。日露戦争後に日本が満州植民地化を進めていることは確実に日米戦争を引き起こし、日本滅亡に至ると警告した人たちの一人。その時代を見る目の確かさが生まれた背景として、明治3年から8年の東京での英米人教師からの学びと、明治8年から13年までのアメリカボストン大学への留学。そして13年帰国後の外務官僚としての経験と多くの海外駐在経験があったと仮定し、これを史料に即して明らかにしている最中。
 この成果は私のサイトの「齋藤修一郎研究シリーズ」からダウンロードできます。
 http://www4.plala.or.jp/kawa-k/saito.htm

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  「主語有無の論証」の説明ありがとうございます。
 ただし「それだけだと読み解かれてしまうので,わざと迷わせる文も混入させている。」以外にも目くらましがあることに注意したい。

〉  したがって先の原則とその目くらましの方法を念頭に置きながらも、一つの段落を全ごとの関係に注意しながら、一つ一つ、九州王朝天子の行動なのか、近畿天皇家の大王の行動なのかを判断するしかないです。
 でもここさえ乗り越えられれば、日本書紀の記述から、古代の真実が明らかになります。

〉  あとは場数を踏めば解読の仕方はどんどん精緻化します。
 まずは上の原則と目くらましの方法を頭に入れてやってみることです。

「主語有無の論証」は,「方位の考古学」とともに,多くの人に知っていただきたい考え方です。
そうすれば,勝手に年代を動かしたりせずに,日本書紀の中から九州王朝の歴史を抽出できるからです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  すべてが肥沼さんのヒラメキから始まった。
 肥沼さんがネットで議論できる場を作ってくださったから、私も参加できました。おかげで私の主題である近代史の研究が遅れていますが・・・・・。あと30年元気で活動して両方とも完成するつもり。
 肥沼さんに感謝です。

最近考えることは,私は板倉さんや仮説実験授業研究会の皆さんから多くを学んできたという事です。
何か興味があったり,やりたいことがあったり,不思議に思うことがあったりしたら,自分からまず取り掛かる。⇒ブログ(昔ならガリ本)で公表する。そして,その成果やさらに湧いた疑問を発表して仲間を募る。⇒ブログ(昔ならガリ本)で公表する。そういう中から,時に「場外ホームラン」が飛び出す。(たいていは三振だったり,凡打の山を作っていますが,少なくとも「フルスイング」はしておく。すると,たまには,バットに当たってヒットになるものもあるので)
幸い私には川瀬さんという先輩の「同業者」がいて,しかも古田説を知っているという共通点(『徹底検証「新しい歴史教科書」』の古代篇を古田説で書いてあるのを見つけた)があった。さらに,川瀬さんは歴史の研究者でもあった。だから,多元的「国分寺」研究から端を発したさまざまな内容を,いつでも批判していただけるチャンスに恵まれた,ということだと思います。
私は研究についてはズブの素人なので,川瀬さんには多くの研究時間を奪ってしまったのではないかと思いますが,ぜひ斎藤修一郎さんの研究が成功しますように願っております。(今度の発表まで,あと三週間のようですね)

肥沼さんへ

>私は研究についてはズブの素人なので,川瀬さんには多くの研究時間を奪ってしまったのではないかと思いますが,ぜひ斎藤修一郎さんの研究が成功しますように願っております。(今度の発表まで,あと三週間のようですね)

 大丈夫ですよ。古代史研究は大いに頭の体操になっています。
 それにもともと大学で卒論で取り組んだ課題でもあり、しかもこの人がいるから手を出さなくて大丈夫だと思った古田さんが、学会から干されて論争相手もいなくなり、最後にはトンデモない間違いに迷い込んだのを見つけたのですから、もう手を引くことはできないなとも思っています。
 古田さんの間違いを正し、古田さんがやりのことしたことを完成させる。
 ここに私も大いに寄与したいと思っています。
 古代史研究と近代政治外交史研究、そして平曲の継承と平家物語の研究。三つの草鞋をはき続けます。
 おっと一つ忘れている。 
 「徹底検証新しい歴史教科書」シリーズの完成だ。四足の草鞋だね。

 12月7日の発表のための資料探査はすでに終わっています。今は45分間で話せる内容に詳しいレジュメをまとめている段階。あと数日でできると思います。
 A4の七ページの本文に資料が三枚。多くの史料満載で詳しい注付。

 これを作ったら、1月の平曲会の案内をつくり、さらに句の解説文を作る作業に入ります。
 この間に年賀状も書かねば。

 そしてできたら年内にもう一つ「徹底検証新しい歴史教科書」の五冊目の最後の幾つかの章。「安藤昌益論」「近世後期文化論」「近世女性史論」に手を付けたいね。

 年内にやることが四つ。どこまでできるか。
 最初の三つはやるしかない。
 四つ目に手が付けられれば最高です。

五冊目の三つの章。ここが終われば六冊目。
 市民革命と産業革命論。そして西欧の世界征服とアジア(アヘン戦争とセポイの乱)。これをやっていよいよペリー来航の問題。参考書はすでに揃っているのですが。

 齋藤研究は、週に一回中原図書館に通って明治の朝日新聞の記事を、明治21年7月から43年末までの分を全部読破することが、研究発表と並んで当面の課題。やっと明治25年7月まで読んだ。あと5年はかかるね。
 その間に斎藤が東京で読んだ四冊の英文の歴史書の内容を分析すること。齋藤のボストン時代のことをまとめること。特に中国人労働者排斥問題に対して、「アメリカ人労働者の敵は中国人ではない。非人間的な労働環境で酷い低賃金で中国人労働者を働かせたことでアメリカ人労働者を首にし、労働者を分断するアメリカ人資本家こそが両者に共通する敵だ」と、弱冠24歳の齋藤が指摘できた背景は何かがボストン時代の最大の焦点。たぶんマルクス主義文献を読んでいる。これが証明できるかどうか。ここをクリアーできれば、あとはほとんど考察済みなので、あとは評伝にするだけだ。
 齋藤研究はゴールとそこに至る方法がはっきりしているので、確実にやり続ければゴールに到達します。

 平曲は何とかして相伝をえること。ゴールは見えているが・・・。

 同様に書紀の「主語有無の論証」を使った解読のゴールも見えている。
 さらに多元的国分寺研究のゴールとそこに至る方法も見えている。

 あとはこれらの課題をこなすために健康で長生きするだけです。

 長くなりました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  大丈夫ですよ。古代史研究は大いに頭の体操になっています。

そう言っていただくと,心が軽くなります。

〉  それにもともと大学で卒論で取り組んだ課題でもあり、
しかもこの人がいるから手を出さなくて大丈夫だと思った古田さんが、
学会から干されて論争相手もいなくなり、最後にはトンデモない間違いに迷い込んだのを
見つけたのですから、もう手を引くことはできないなとも思っています。
 古田さんの間違いを正し、古田さんがやりのことしたことを完成させる。
 ここに私も大いに寄与したいと思っています。

古田さんは確かに偉大な仕事をされましたが,「間違ったり,やり残したこと」もある訳ですね。
それは古田さんが神様ではない以上当然のことなので,
全面的に何でも信用するというのは,かえって「ひいきの引き倒し」というものですから。

〉 あとはこれらの課題をこなすために健康で長生きするだけです。

生きていなければ研究はできませんので,最後はこれに尽きますね、

肥沼さんへ

>古田さんは確かに偉大な仕事をされましたが,「間違ったり,やり残したこと」もある訳ですね。

 古田さんの間違いについては「九州王朝天子の動向」のコメントに幾つか記しておきました。
他には磐井の乱のとらえ方の間違いだ。
 ここの間違いは、古田さんが書紀の偽造の手口を見つけられなかったために、この戦乱が近畿大王のオオド王と九州王朝天子である磐井の戦いと理解してしまったこと。
 実態は九州王朝内の王位継承の争いだ。
 ある意味で二人の天子の争い。
 ここは「磐井の乱を考える」ですでに明らかにしました。
 http://kawa-k.vis.ne.jp/2017711iwai.pdf
 私が気が付いた古田さんの間違い。
1:磐井の乱のとらえ方
2:持統紀の吉野御幸を全部34年前の九州王朝天子の佐賀なる吉野行幸としてしまったこと。
3:持統紀伊勢行幸記事を九州王朝天子のものと喝破したのはさすがだが、その天子・中皇命の年代を同じく34年前に遡らせてしまったこと。
4:推古紀の対隋独自外交記事を、年次を10年下げて対唐独自外交としてしまったこと。

 全部日本書紀の読みに関わることです。
 つまり古田さんがやったことは、中国正史の記述を元に書紀記述の基本の歴史偽造を明らかにしただけ。
 結局書紀解読は手つかずだったのです。

 この意味で先日のセミナーは(昨年のも含めて)これらの間違いも課題も気が付かない人たちの報告で、しかも古田さんの方法論に依拠せず、史料の勝手な改変や、伝説=史実とする空想歴史学的なものが多数を占めています。
 古田史学系の人々の中に、古田さんを継承しかつそれを乗り越える人は皆無です。
 古田さんが学会から干されて、直弟子を育てることができなかった結果だと思います。
 残念ながら、上記の私の古田批判に対しても、だれからも意見も感想もありません。

 肥沼さんと二人で取り組んだ「方位の考古学」が注目されたことで、これを支えた方法論の一つである「主語有無の論証」にも関心が向けられていますが、だれも書紀解読に踏み込もうとはせず、有るのは正木さんのように、都合の悪い記事はみんな34年など年次を動かして勝手に改変する、古田さんの間違いを拡大するものだけ。
 残念な現状です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 全部日本書紀の読みに関わることです。
 つまり古田さんがやったことは、中国正史の記述を元に書紀記述の基本の歴史偽造を明らかにしただけ。
 結局書紀解読は手つかずだったのです。

やはりそうなんですね。
その糸口になるのが「主語有無の論証」だと思うのですが・・・。

〉  肥沼さんと二人で取り組んだ「方位の考古学」が注目されたことで、これを支えた方法論の一つである「主語有無の論証」にも関心が向けられていますが、だれも書紀解読に踏み込もうとはせず、有るのは正木さんのように、都合の悪い記事はみんな34年など年次を動かして勝手に改変する、古田さんの間違いを拡大するものだけ。
 残念な現状です。

本当に残念です。

この件は、改めて多元に投稿したいと思っています。肥沼さんにお願いがあります。方位の考古学で所謂ー筑紫こうろかんーを検証して下さい。私は、こここそ、難波長柄豊﨑宮ではないかと疑っております。

上城さんへ
コメントありがとうございます。

私というより,川瀬さんの精査では「鴻臚館」は以下のようでした。
多元的「国分寺」研究サイトより

7月13日

(5)鴻臚館(7世紀後半~11世紀)
 Ⅰ期では、北館は,やや西偏。南館は,やや東偏。7世紀後半。
 Ⅱ期以降は、どちらもほぼ正方位。8世紀前半~中葉。
時期による方位の違いを見落とさないように。

また,「難波長柄豊﨑宮」は,有田・小田部遺跡の西偏の建物群がそうではないかとされています。
その部分を精査の中から,長いですがコピペすると・・・

7月14日・15日

(1) 有田・小田部(有田) (7世紀後半~10世紀前半?)
たしかに東偏の官衙、正方位の官衙、西偏の官衙とある。問題はその時期です。これを建物データで調べましたか?
 調べてみました。
★東偏:181次と107次にまたがる東偏区画溝と正倉。7世紀末葉。
★正方位:82次からその南の77次107次にまたがる正方位の建物群。
    107次のSB01 東西棟正方位 8世紀中葉
    82次の1号東西棟、3度東   7世紀末葉~8世紀中葉
 したがって正方位の建物群は、7世紀末葉~8世紀中葉となります。
★西偏:189次の南に広がるⅠ期郡庁群。
   12度西偏。7世紀末葉~8世紀前半
 さらにこの少し北の66次にある西偏の南北棟。 7゜50´E 8世紀中葉。
 なんと、西偏の郡庁が、東偏の官衙と正方位の官衙の双方の時期に重なってしまいます。これを一体どう考えたらよいのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追伸
(1) 有田・小田部(有田) (7世紀後半~10世紀前半?)
 東偏官衙群と正方位官衙群。これは7世紀末から8世紀前半。100年ずらせば6世紀末から7世紀前半となり、九州王朝時代の最後を飾る時期。
 この時期に同時並行して存在した西偏の官衙群。
 これをどう理解したらよいか考えた。
 あと時代が50年あとならば8世紀初頭となり近畿王朝時代の官衙群と理解できる。
 でもそうではなく、周辺には九州王朝最盛期の東偏・正方位の官衙群が同時代に存在する。
解釈は二つある。
 一つはこの西偏官衙群が、先行する東偏もしくは正方位の官衙群を壊したあとにできたものである場合、先行する官衙群の遺物(土器や瓦)が大量に混ざった結果年代が先行する官衙群と同じになってしまった可能性。
 だが189次の図をみればわかるように、ここには先行する東偏や正方位の遺構は存在せず、むしろ後の時代の正方位の遺構しかないのだ。
 ここで想定できるもう一つの、唯一の解釈は、この西偏官衙群は近畿王朝の官衙だということ。そしてその最後の時代、7世紀前半と言えば、これは孝徳の難波長柄豊崎宮しかない。
 この遺跡群の位置を示す図を見てみる。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102906-14923/map1.jpg
 場所は室見川河口だ。そしてこの遺跡群の東側には、現在の博多大濠公園を含む広大な湾が存在した。古代の難波津だ。
 発掘報告書もこの遺跡を「那津官家」関連と考えている。
 この遺跡群は古代の難波津のすぐ西側の岸にあった可能性大である。
  ヤフー地図でこの場所を確認すると、189次発掘地のすぐ南200mほどは、室町後期の城・筑前小田部城推定地(有田宝満神社)で一帯は小高い丘である。この位置関係は孝徳の難波長柄豊崎宮にピッタリである。
 
 そして第189次の図を見れば(図10)
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102906-17839/up1.jpg
 西偏の官衙遺構の上に、ほぼ正方位の少し小型の建物群が乗っている。主殿SB04の大きな柱穴を切る、正方位の小型南北棟SB08の柱穴。そして北殿SB01の大きな柱穴もまた正方位の小型南北棟SB08の柱穴で切られている。
 この正方位の建物の詳細データが建物データにはないが、6世紀末から7世紀前半の西偏の建物を切る正方位の建物ということは、8世紀初頭(データで言えば9世紀初頭)の近畿王朝の正方位の官衙しか考えられず、こちらが早良郡衙と思われる。


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