「大嘗祭」はなかった!
「大嘗祭はいつから行われたか?」についての川瀬さんのコメントをまとめると,
以下のようになると思う。
古田さんの考え・・・天武天皇は褒美を与え,持統天皇から大嘗祭が始まった。
(これだけでも,大きな衝撃でしたが・・・)
川瀬さんの考え・・・天武天皇と持統天皇の大嘗祭はなくて,その当時の九州王朝の天皇が即位し,近畿はその方法を学んだ。
(それに対して,参加した人たちに褒美を与えた。また,実際にそのやり方でやってみた。
そうしたら,次の九州王朝の天皇の即位の時はやることができた。
そして,ついに文武天皇の時には,主権者となり,年号も大宝を建元し,大嘗祭を行った。)
ONライン(700年までは九州王朝が主権者で,701年から近畿王朝が主権者となった)という「法則」に叶うのは,
天武天皇・持統天皇の時には,「近畿王朝に「大嘗祭」はなかった!」ということではないか。
「大嘗祭」はなかった!
題名だけ私が付けさせてもらいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これまで『日本書紀』の天智・天武・持統天皇の存在があまりにも大きくて(ページも多いし),
『続日本紀』の文武天皇は逆に小さく見えていました。
ところが,『日本書紀』はあくまでも,近畿王朝の大王時代=「前史」であり,
『続日本紀』に到って,近畿王朝の天皇時代がやっと始まるということだったのだ。
そういう視点で読んでみると,また新しい発見が出来そうな気がします。
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肥沼さんへ
その後書紀記載を精査しました。
持統のときの大嘗祭のあとも、それを実行した人たちにたくさんの褒美を与えています。この点訂正です。
さらに書紀記事を精査すると、九州王朝天子の動向が読み取れます。
●天武紀下の大嘗記事から
二年12月壬午朔丙戌、侍奉大嘗中臣・忌部及神官人等・幷播磨・丹波二國郡司・亦以下人夫等、悉賜祿、因以郡司等各賜爵一級。
これが書紀本文。
大嘗祭は即位したあと最初の新嘗祭のことだから、つまりこの天武二年に九州王朝天皇が即位したということ。673年。
だから新たな天子即位に伴って伊勢斎宮が交代する。この記事は
夏四月丙辰朔己巳、欲遣侍大來皇女于天照太神宮、而令居泊瀬齋宮。是、先潔身、稍近神之所也。
したがって次の記事も九州王朝天子交代に伴うものかも。
己亥、新羅、遣韓阿飡金承元・阿飡金祗山・大舍霜雪等、賀騰極。幷遣一吉飡金薩儒・韓奈末金池山等、弔先皇喪。一云、調使。其送使貴干寶・眞毛、送承元・薩儒於筑紫。戊申、饗貴干寶等於筑紫、賜祿各有差、卽從筑紫返于國。
新羅は新天子即位の祝いの使いをおくるとともに、もう一つの使節も億経った。
「弔先皇喪」とあるから、前の天子は死去したのだ。
ここの「先皇」を天智としたら時期が離れすぎる。
天子の死の弔問使なら、天智10年12月に天智が死去した直後でないとおかしい。
大友皇子だとしても意味がとおらない。
なぜなら彼らは日本国の天子ではないのだから。
この天武二年に九州王朝の新たな天子が即位した。
だからこそ次々と周辺諸国が新帝即位を祝って使節を送っているのだ。
次の記事は新天子即位を祝ったもの。
、
二年三月丙戌朔壬寅、備後國司、獲白雉於龜石郡而貢。乃當郡課役悉免、仍大赦天下。
では即位の宮はどこか。
確実に後岡本の宮の南に作られた新たな宮。天武紀で飛鳥淨御原宮と呼ばれた、エビノコ郭。
即位後、天子はどうしたのか。
おそらくしばらくは先帝の喪に服したものでしょう。通常1年から2年。
その間に遺体を埋葬する墓を作らねばならない(この記事は書紀にはない)。
そして出来上がった墓に埋葬するのだが、おそらく先帝の墓は九州の難波付近につくられたのではないか。そして新天子は先帝の遺骸(喪)を守って九州に赴いた。
そしてそのまま九州に留まった。
だから天武が作った新宮(前期難波宮)の東方郭に天子が入ることはなかった。
このため天子は、天武12年の12月に「都は二つあっても良い」とし、まずは旧都の難波に遷都し、さらに翌、13年には新宮の地の選定を始めた。
この記事は
〇十三年二月庚辰、遣淨廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・錄事・陰陽師・工匠等於畿內、令視占應都之地。是日、遣三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃令看地形、將都是地歟。三月辛卯、天皇、巡行於京師而定宮室之地。夏四月壬辰、三野王等、進信濃國之圖。
さらに、
〇十四年冬十月壬午、遣輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮、蓋擬幸束間温湯歟。
そして天武15年の七月に新宮は出来上がり、これとともに天子は改元を行った。
この記事は、
戊午、改元曰朱鳥元年朱鳥此云阿訶美苔利、仍名宮曰飛鳥淨御原宮。
天武が近畿天皇家内の権力掌握に手間取り、さらに彼が病に伏す中で、九州王朝天子は独自の動きを始めた。
独自の動きの一つが新宮建設であり、その完成をまっての改元。
朱鳥の新元号に。(この前の683年=天武12年に長く続いた元号白鳳が廃止され新元号朱雀が施行されている。天子の死から12年後。これは天子の陵が完成したことを示すことかもしれない)
この朱雀・朱鳥の元号。
明らかに天子に伴うものなので「私こそが日本の天子だ」と宣言したかのよう。
こうした独自の動きれは近畿天皇家に「飾りの天子は手の内に置かないと危ない」との危機感を持たせたかも。
だから近畿天皇家は、新たな九州王朝天子のための都を畿内に建設しようと動き出す。
持統四年冬10月壬申、高市皇子觀藤原宮地、公卿百寮從焉。
持統が即位した年の10月。ここで初めて藤原宮造営の動きが始まる。
結局天武の死⇒後継ぎのはずの草壁の死⇒対抗馬の大津の処刑⇒持統の即位
という近畿天皇家内部の権力掌握に手間取って実に四年も時期が空いてしまったわけだ。
●持統紀大嘗祭記事から
五年十一月戊辰、大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋、讀天神壽詞。壬辰、賜公卿食衾。乙未、饗公卿以下至主典、幷賜絹等各有差。丁酉、饗神祗官長上以下至神部等及供奉播磨因幡國郡司以下至百姓男女、幷賜絹等各有差。
これが持統紀大嘗祭挙行と、その後の関係者報償の記事。
大嘗祭は即位したときの新嘗祭。
五年はおかしい。
持統の即位は四年春正月。持統の大嘗祭なら四年の挙行でなくてはならない。
つまりこれは持統の大嘗祭ではない。
この時も天武の時と同じく、大嘗祭を挙行した臣下らが褒美を賜っている。
持統五年のどこかの時期に九州王朝天子即位があったはず。691年。
その痕跡は。
六月己未、大赦天下、但盜賊不在赦例。
七月庚午朔壬申、是日、伊豫國司田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀三斤八兩・𨥥一籠。
即位の宮はどこか。
伊勢行幸が問題になるのが、六年の二月に「二月丁酉朔丁未、詔諸官曰、當以三月三日將幸伊勢、宜知此意備諸衣物。」と3月3日伊勢行幸が決まる。
これに対して「乙卯、是日、中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂、上表敢直言諫爭天皇、欲幸伊勢妨於農時。」と反対意見が出る。
しかし「三月丙寅朔戊辰、以淨廣肆廣瀬王・直廣參當摩眞人智德・直廣肆紀朝臣弓張等、爲留守官。於是、中納言大三輪朝臣高市麻呂、脱其冠位、擎上於朝、重諫曰、農作之節、車駕未可以動。辛未、天皇不從諫、遂幸伊勢。」と挙行される。
この記事は行きは何で行ったか記さないが、帰りは車駕でとなる。
万葉集の伊勢行幸の記事と併せると、これは九州王朝天子が海路伊勢に行幸し、そこから車駕で宮に戻ったという記事だ。
ここから九州王朝の新天子が即位したのは九州の宮であることがわかる。
それは九州の飛鳥浄御原宮。
そして新天子が車駕で向かった宮は。まだ藤原の地の新益京は出来上がっていないので、飛鳥と考えられる。もしくは前期難波宮だ。
この直前の5年冬10月甲子、遣使者鎭祭新益京。とあるので、まさにこの新京(首都の名前は新益京。その内裏が藤原宮)はこの新たな九州王朝天子のための都だ。これは都を作るための地鎮祭挙行。天子を迎える準備が始まった。
そして新益京・藤原宮完成は、8年の12月。
十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。戊午、百官拜朝。己未、賜親王以下至郡司等、絁綿布各有差。辛酉、宴公卿大夫。
遷居藤原宮。主語が省略された記事。
ここに新京・新益京は完成し、天子は内裏の藤原宮に遷った。
そして新京・新宮の完成を祝って翌年に(695年=持統9年)改元がされた。朱雀⇒大化に。
この九州王朝最後の元号・大化。
この元号を定めた主体はすでに近畿天皇家だろう。
大化=今後大きな変化が起こるぞという予言。王朝交代を予言したものか。
この意味で大化は、近畿天皇家が初めて定めた元号と言える。
だから孝徳紀に記された九州王朝の評制全国施行の改新を本来の「常色」に変えて「大化」年号にしるしたものかもしれない。
そして九州王朝の新都(=太宰府)とその新宮(味経宮)完成を祝っての「白雉」改元はそのままにしたのかもしれません。全国統一権力の完成ですから。
ただし自分の(近畿天皇家の)やったこととして。
そして九州王朝天子から近畿天皇家の文武に天皇位が譲られたのが、
十一年八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。
ここは主語を明記することであたかも近畿天皇家の持統から皇太子に天皇位が譲られたかのように偽装しているが、主語の天皇は九州王朝天子である。
九州王朝天子はやっと用済みに。
こうして九州王朝最後の元号・大化は終り、近畿天皇家初めての元号・大宝に。だがここに至るにはさらに3年の月日が必要だった。
新元号とともに新律令を交付し、列島統治権を名実ともに握るには。
ではその後九州王朝天子はどうしたか。これは「続日本紀」を精査しないとわからない。
>これまで『日本書紀』の天智・天武・持統天皇の存在があまりにも大きくて(ページも多いし),
『続日本紀』の文武天皇は逆に小さく見えていました。
ところが,『日本書紀』はあくまでも,近畿王朝の大王時代=「前史」であり,
『続日本紀』に到って,近畿王朝の天皇時代がやっと始まるということだったのだ。
そういう視点で読んでみると,また新しい発見が出来そうな気がします。
はい。「続日本紀」は近畿天皇家が列島支配権を掌握したあとの歴史書。すでに九州王朝の先在を隠す必要もなくなっている。
だから結構、隠す手口がぼろぼろと明らかになっているのだと思います。
投稿: 川瀬 | 2019年11月16日 (土) 14:53
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 その後書紀記載を精査しました。
持統のときの大嘗祭のあとも、それを実行した人たちにたくさんの褒美を与えています。この点訂正です。
さらに書紀記事を精査すると、九州王朝天子の動向が読み取れます。
おお,こんなにちゃんとその後のことが書いてあるんですね。
ただし,「主語有無の論証」を使わないと解読できない箇所がある。
〉 はい。「続日本紀」は近畿天皇家が列島支配権を掌握したあとの歴史書。すでに九州王朝の先在を隠す必要もなくなっている。
だから結構、隠す手口がぼろぼろと明らかになっているのだと思います。
なるほど,それで「続日本紀」からいろいろな証拠が見つかる訳か。
投稿: 肥さん | 2019年11月16日 (土) 23:31