« 肥さんの夢ブログの「月一回モノ」 | トップページ | 残念ながら教育には,ノーベル賞がない »

2019年10月10日 (木)

素弁蓮華紋軒丸瓦が,大野城や基肄城から出土しているらしい

山田さんのサイト「sanmaoの歴暦徒然草」に,2年前興味深い記事が出ていた。

「素弁蓮華紋軒丸瓦が,大野城や基肄城から出土している」というのである。

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/08/post-57fe.html

先日「大野城の刻書」の解説に,この木は年輪年代で648年だから,

「日本書紀」の記録と合っているという言い方がされていた。

もし上の話が本当なら,「刻書」に使った木が新しいものだっただけだということになるではないか。

もともと白村江の戦い後に天智天皇がいろいろな防衛強化をやること自体が眉唾で,

マッカーサーが敗戦後来日しているのに,まだ軍備強化しているようなものなのだ。

素弁蓮華紋軒丸瓦と言えば,普通に「飛鳥時代」の瓦だ。

だから,上の話(大野城や基肄城から飛鳥時代の瓦が出た)が本当なら,

大野城や基肄城が白村江の乱の後ではなく,そのずっと前に作られていたということだ。

では,飛鳥時代(593年~710年)に白村江の戦い以外に,防衛強化すべき出来事があったのか?

もちろんイエスである。北朝の北魏や隋の動きは,当然南朝の子分だった九州王朝に届いていたはずだからである。

中国を統一した隋の建国が589年。我が国(九州王朝ならより近い)としては,大変な脅威だった。

(遣隋使,日出ずる処の天子の手紙など,どんな相手なのか腹の探りあいだ)

そして,もし対決となったら戦時体制を考えなくてはならない。

兵力を集めるのに必要な幅の広い直線道路やもし占領されそうになった場合の避難所としての山城。

それらは,「白村江の戦いの後」では遅すぎる。まず隋との衝突を考えてのことだったと思う。

ここで,「方位の考古学」の宣伝になるのだが,太宰府を7世紀末から6世紀末に遡らせた刀で,

大野城や基肄城 の歴史も100年遡らせたいと思う。

すると,大野城や基肄城 の飛鳥時代の瓦の出土は,「方位の考古学」と見事に合うことになるのだ。

 

« 肥さんの夢ブログの「月一回モノ」 | トップページ | 残念ながら教育には,ノーベル賞がない »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 ついでに補足すると、服部さんによると、太宰府条坊と一体のものである観世音寺からも素弁蓮華文軒丸瓦が出るそうです。
 つまりは太宰府そのものも飛鳥時代の産物。
 古賀さんはこれを前身寺院という言い方でごまかしていますが、「二中歴」で観世音寺の創建が「続日本紀」と同じように670年代だというのなら、観世音寺の前に、太宰府と一体の寺院がすでにここにあったということになるのです。
 では観世音寺の前に飛鳥時代に創建された、太宰府と一体の寺院は何と呼ばれたのでしょうね。

 という具合に、素弁蓮華文軒丸瓦の論証は、方位の考古学の論証と同様に、近畿一元史観に立った通説にも、そして通説と古田史学を接木した古賀さんや正木さんの論にも、根本的に見直しを迫るものなのです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ついでに補足すると、服部さんによると、太宰府条坊と一体のものである観世音寺からも素弁蓮華文軒丸瓦が出るそうです。
 つまりは太宰府そのものも飛鳥時代の産物。

〉  という具合に、素弁蓮華文軒丸瓦の論証は、方位の考古学の論証と同様に、近畿一元史観に立った通説にも、そして通説と古田史学を接木した古賀さんや正木さんの論にも、根本的に見直しを迫るものなのです。

なんだか力が湧いてきました。
ありがとうございました。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 肥さんの夢ブログの「月一回モノ」 | トップページ | 残念ながら教育には,ノーベル賞がない »

2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ