« 桜井古墳(福島県南相馬市) | トップページ | 前方後方墳 »

2019年10月30日 (水)

泉官衙遺跡への旅(2日目)

今日は「桜井古墳群」を訪問することにした。

余裕を持ってショート・ステイの母を迎えるためには,

もう一度泉官衙遺跡に挑戦するのは無理があるし,

この地を治めたであろう豪族の古墳を見ておくことは,

泉官衙遺跡を考えるうえで役に立つはずだと考えた。

そして,それは的中したように思う。以下写真で見ていただこう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Img_5128

Img_5141

Img_5131

Img_5132

Img_5133_20191030121701

Img_5134_20191030121801

Img_5135

Img_5136

Img_5139

Img_5137

Img_5138

Img_5140 

今日の格言「人生は計画通りにはいかないものだ。

しかし,計画していた以外のものに出会えるのも人生である」

« 桜井古墳(福島県南相馬市) | トップページ | 前方後方墳 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

 やはり予想どおりに泉官衙遺跡群を見に行かれましたね。

>この地を治めたであろう豪族の古墳を見ておくことは,泉官衙遺跡を考えるうえで役に立つはずだと考えた。そして,それは的中したように思う。

 この桜井古墳を見に行ったことが、どう泉官衙遺跡を考えるに役立ったのでしょうか。
 この古墳は前期古墳。ウィキペディアには4世紀後半~5世紀初頭とありますが、おそらく編年が100年下げられているので、3世紀後半~4世紀初頭だと思う。
 その証拠はこの古墳の主体部は木棺直葬で割竹形。そして木棺の上部の墳丘上に、底に穴が開いた壷が置かれていたとここと。
 これは私の家のすぐそばの久地イヤノメ古墳と同様で、この壺は弥生土器です。そしてそこに穴があけられて土に下部が埋まっていたということは埴輪の原型なので、桜井古墳は古墳発生時のものと考えることができます。
 でも泉官衙遺跡は7世紀後半。100年上にあげても6世紀後半。
 桜井古墳とはおよそ300年の年代差があります。
 そして前に見たと思うのですが、この陸奥行方郡の地には、6世紀段階では国造はいないのです。
 つまり3世紀から4世紀には豪族がいたが、300年後にはここを支配した豪族はいなくて、泉官衙遺跡=行方評衙は豪族が作ったのではなく、九州王朝直営の官衙だと思われるのですが。

ただこの地に古墳発生期の大型古墳があるということは、すでにこの3世紀末から4世紀初でもここは蝦夷の地ではなく倭国だったのでしょうか。
 陸奥南部で常陸に隣接したこの地は、蝦夷国の中で最も早くに倭国に侵略された地域だったのかもしれませんね。
 陸奥の古墳を調べてみないとわかりませんが。

追伸
 この陸奥行方郡に隣接する常陸国は、古墳時代前期の前方後方墳が多い地域として知られています。
 同じ形式の古墳が陸奥行方郡にあるということは、きっと常陸行方郡の勢力が、なんと3世紀末にはこの地に勢力を広げていた証拠かもしれません。
 常陸における前方後方墳の分布と年代を調べないと確定できませんが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

南相馬は今でも,めちゃくちゃ水田の多いところでした。
そこから穫れる米を桜井古墳の主は支配していたのだと思います。
そして,その豊穣の地に九州王朝は目を付けて官衙を置いた。
また,九州王朝滅亡後は,近畿王朝が官衙を置いた,と。

この桜井古墳の主が誰か推定してみましょう。合わせてこの地域で水田耕作が始まったのもいつなのか。
 前に書紀の記事を元に、九州王朝による蝦夷侵略の歴史を示しました。
1:一番古いのは日本武尊の遠征。書紀では景行40年。これを継体以前は二倍年暦という仮定で計算していくと、西暦260年頃。3世紀後半です。
2:次は仁徳55年。これは西暦382年頃。ここでは朝廷側の将軍が戦死。
3:その次は敏達10年。これは継体以後だからずっと正確だが、西暦581年。
 以後は蝦夷との戦闘の記述は書紀ではなく、むしろ斉明紀では蝦夷を越えてさらに北の粛慎遠征がしるされている。

 桜井古墳は通説では4世紀後半とされる前期古墳だ。
 しかし私は100年年代を上げるべきだと思う。木棺を納めた埋葬施設の上に土師器の壷の底に穴をあけたものが多数それを取り囲むように出土しているからだ。これは埴輪の初期形態。そして土師器と弥生土器とは区別できないから、弥生土器の可能性も高い。
 と考えると桜井古墳は3世紀後半から4世紀初頭だ。
 なんと九州王朝による蝦夷侵略の第一段階。日本武尊の時代に相当する。
 桜井古墳の主は、日本武尊とのちに名付けられた将軍のもとで蝦夷侵略を敢行し、現地に留まって現地を支配した豪族であったのだ。

 では桜井古墳の主が支配したこの行方の地は、日本武尊の侵略に伴って常陸から植民した農耕民によって初めて水田農耕がはじまったのだろうか。
 そうではないと思う。
 すでに青森県では縄文晩期の遺跡である砂沢遺跡(青森県弘前市三和)で水田と遠賀川式土器が見つかっており、弥生時代前期にすでにここまで水田耕作が広がっていたことが確認されている。さらに弥生時代中期の遺跡である垂柳遺跡(青森県南津軽郡田舎館村)では大規模な水田が発掘されており、東北最北部でもすでに水田耕作が広がっていた。
 私たちは蝦夷というと、農耕を知らない野蛮人のようなイメージを持つが、彼らはすでに鉄器を持ち水田耕作を行い、馬に鎧を着て騎乗していた人々で、倭国の人々とほとんど変わらない(民俗や宗教は違うかもしれないが)人々だったのだ。
 だからこそ仁徳55年の戦闘で九州王朝側の将軍が戦死するほどの激戦になったわけだ。
 福島県行方はその蝦夷の人々の勢力圏の古墳時代における最南部(弥生時代の蝦夷はもっと南まで広がっていたと思う)。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  桜井古墳は通説では4世紀後半とされる前期古墳だ。
 しかし私は100年年代を上げるべきだと思う。木棺を納めた埋葬施設の上に土師器の壷の底に穴をあけたものが多数それを取り囲むように出土しているからだ。これは埴輪の初期形態。そして土師器と弥生土器とは区別できないから、弥生土器の可能性も高い。

ここでも「方位の考古学」が使えるということですね。

〉  と考えると桜井古墳は3世紀後半から4世紀初頭だ。
 なんと九州王朝による蝦夷侵略の第一段階。日本武尊の時代に相当する。
 桜井古墳の主は、日本武尊とのちに名付けられた将軍のもとで蝦夷侵略を敢行し、現地に留まって現地を支配した豪族であったのだ。

すごく古い時代の人ということになりますね!

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 桜井古墳(福島県南相馬市) | トップページ | 前方後方墳 »

2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ