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2019年10月26日 (土)

土佐国府跡に残る「内裏」地名の不思議(川瀬さん)

多元的「国分寺」研究サイトでは,「方位の考古学」提唱のために

全国の〈寺院遺跡〉〈官衙遺跡〉の精査を行っています。

最近「土佐国府」について精査を行ったのですが,その中で川瀬さんが「内裏」地名を見出しました。

(私も同じ画面を見ていながら,意識しておらず残念!)

また,このブログにも登場した侏儒国民さんは,ご自身のサイトの中で,昨年3月19日に

「国府(国衙)跡ーー内裏(ダイリ)中にコフラ塚あり」という記事を書かれているとのこと。

Photo_20191026073101

(侏儒国民さんのサイトからコピーさせていただきました)

合田さんの愛媛県の「紫宸殿」「天皇」地名と相まって,歴史の真相に触れる発見ではないかと思います。

多元的「国分寺」研究サイトのコメントでは皆さんの目に触れにくいので,「夢ブログ」でも取り上げさせていただきます。

ぜひお読みいただければと思います。

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土佐国府跡に残る「内裏」地名の不思議  川瀬健一

 
肥沼さんはこの小字「内裏」地名に興味を感じませんでしたか?
 土佐国府域と考えられるところに「内裏」の地名が残っている。その内裏地区のほぼ真ん中に、紀貫之が暮らしたという国司館跡がある。
 しかし調べてみると遺構が見つかったわけではなく「国司の館を内裏と呼んだ」からここに国司館があったのだろうという想定で定められたそうな。
 そんなバカなことはありません。
 内裏とは天子が通常居住する宮殿のこと。それ以外の用例があるはずもない。
 なんで国府遺跡の内裏が国司館の場所だとの説が生まれたのか。
 今のところ詳細は不明ですが、可能性としては、太宰府政庁のすぐ北側に「内裏」地名が残っており、この内裏地区の西側に太宰帥であった大伴旅人の館跡と言われるところがあったこと。
 この「事実」が上記の「国司館が内裏と呼ばれた」との説が生まれた根拠ではないか。
 でも太宰府の内裏は、まさしくここを都とした九州王朝天子の居所以外にはありえない。
 遺構を見ると、太宰府政庁の正殿のすぐ北側に塀で囲まれた区画があり、その区画の政庁正殿のすぐ北側に少し小型の建物があり、その区画の東側に正殿とほぼ同じ大きさの大型の建物があり、ここから多数の木簡が出た。
 この区画は南側は政庁との間に門があり、さらに北側にも門がある。
 つまりこの区画の北側にもまた、一定の区画があることを示している。
 平城宮遺跡と較べてみると、この区画は「内裏前庭」であることがわかる。
 つまり太宰府政庁の北側には内裏前庭と考えられる区画があり、すなわちその北門のさらに北側には内裏そのものがあったとおもわれるのだ。
 この太宰府の内裏こそ、書紀孝徳紀に新宮として出てくる「味経宮」だ。
 だが通説は九州王朝を認めないし、太宰府がその首都であったことも認めない。
 このため太宰府政庁の北にある内裏地名を解釈できない。
 幸いここには太宰帥であった大伴旅人の館と伝承される場所がある。
 そこで通説派が逃げ込んだ先が、国府の北にある国司館を内裏と呼んだという「珍説」だったのだろう。
 
 では土佐国府の北部にある内裏とは何だろうか。
 この問題を論じた人がいないか検索してみたら、たった一人いた。
 侏儒国民さんのサイト「もう一つの教科書問題」。
 このサイトの2018/03/09の項に「国府(国衙)跡ーー内裏(ダイリ)中にコフラ塚あり」との記事がある。
 http://rekisi.tosalog.com/%E9%AB%98%E8%89%AF%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AE%E8%AC%8E/20180309
 ここでは、土佐国府域の字内裏地区のほぼ真ん中に「コフラ」という小字があり、かつてここから菊の紋の瓦が出土したという事実を背景に、この「コフラ」の北側が「宮の前」という地名でもあることから、ここにはかつて高良神社があり、その祭神は、「天皇以上の存在」と論じておられた。
 おそらく九州王朝の天皇が一時期、筑後高良宮を拠点とする玉垂命であり、それ以後の九州王朝天子はその子孫であったという説を前提にしておられるのだろう。
 天子の居所には祖先神を祀る高良神社があると。

 しかしそうであってもなぜ、この土佐国府に天子の居所を示す内裏があり、そこに天子の祖先神を祀る高良神社が置かれたのだろうか。
 いやそもそもどうして九州から離れたこの土佐の地に天子が住んだのであろうか。
 可能性がある歴史的事実としては、唐新羅との戦いを控えた時期に九州王朝の天子が筑前朝倉に宮を置き、分家の近畿天皇家の大王斉明もこの朝倉の橘広庭宮に居したことが書紀斉明紀に書かれていることだ。
 つまり九州王朝の天子と同盟国近畿天皇家の大王とがともに、戦の前線となる難波の地を離れ(近畿の中大兄も難波にいた。当然九州王朝を指揮する皇太子も難波にいたはずだ)、ずっと奥まった朝倉に宮したということ、戦を避けて避難したということを意味する。
 当時の九州王朝天子も近畿天皇家の大王もともに女性。
 この事実を背景にすると、近年愛媛県の西条市付近に「朝倉」「紫宸殿」地名があることを根拠に、合田氏が、九州王朝が唐新羅と決戦する際に、九州王朝天子の斉明(さいみょう)がここに避難していたのではないかとの説を立てておられることも、合理的な推論であると思われる。
 これを前提にすれば、土佐国は伊予のさらに奥。伊予国府からさらに険しい山を越えた向こうの国である。決戦を避けて避難した伊予国は瀬戸内海海域であり、おそらく行宮であった久米官衙遺跡の回廊状遺構も、「紫宸殿」も、ともに海から近いために、瀬戸内海にまで唐水軍が侵入した場合には危険な場所となる。
 こうした不測の事態に備えるための、さらに奥の避難所として土佐国府が選ばれたのではなかろうか。
 そして国府政庁のすぐ北側に天子が避難する内裏が築かれた。
 だからこの地に「内裏」地名が残ったと私は考える。

 またこう考えると、土佐国府政庁の場所も特定できる。
 内裏地名のすぐ南側だ。
 その内裏地名の南側の、20次調査地区と16次・17次調査地区に正方位の建物がまとまって存在する。そしてさらに南の14次調査地区にも正方位の建物がまとまって存在する。
 この内裏地名の真南の未発掘地域に、土佐国府政庁の正殿・脇殿などが存在するのではなかろうか。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼様

いつも貴ブログを拝見させていただき、刺戟を受けております。
今回は高知県の「内裏」地名を紹介されておられますので、以前「洛中洛外日記」に掲載しました拙稿をご紹介させていただきます。

古賀達也


古賀達也の洛中洛外日記
第271話 2010/07/11
「紫宸殿」「内裏」地名研究の課題と可能性

 第270話で、「『紫宸殿』地名の歴史的由来や伝承も無いので、どのように捉えるか判断できずにいました」と述べました。と言うのも、地名研究を歴史学に応用や利用する場合の難しさを感じていたからです。
  例えば、太宰府政庁跡にある「紫宸殿」「大裏(内裏)」という字地名は、古田先生による九州王朝説という体系的に成立した学説や考古学的遺跡の裏づけにより、ここに九州王朝の宮殿が存在していたという傍証力を有しますが、仮に他の地域にあった場合、そこに古代王朝の宮殿があったという論証力を地名自身は持ち得ないからです。
  すなわち、地名がいつ付いたのか、誰により付けられたのか、どのような歴史的背景を持つのかは一般的には地名自身からは不明です。したがって他の史料や伝承、考古学的事実に基づく個別の論証が要求されるのです。
  例を挙げれば、紀貫之が赴任した土佐の国府跡には「内裏」という字地名が残されていますし、大伴家持は越中の国府を「大君の遠の朝廷」と『万葉集』(巻十七・4011、巻十八・4113)で歌っています。これら地名や歌により、土佐や越中に王朝があったと言うことは学問上できません。都から派遣された国司が自らの赴任先の館を「内裏」と呼んだり、「遠の朝廷」と歌ったというケースを否定できないからです。
 ですから、伊予に「紫宸殿」という字地名があると今井さんが「発見」された時も、九州王朝や越智国の紫宸殿という魅力的な仮説に飛びつきたい衝動と同時に、土佐や越中と同じケースもあることが脳裏をよぎったのです。
 このように地名や地名研究を歴史学に利用する場合、多元史観に立つわたしたちはより慎重にならなければなりません。その点、九州や出雲は九州王朝・出雲王朝の存在が既に安定した学説として成立していますから、こうした多元史観に立った地名研究が、歴史学に大きく寄与できる可能性があります。地名研究の限界に配慮しながらも、新たな可能性にわたしは期待しています。

古賀さんへ
コメントありがとうございます。

〉 古賀達也の洛中洛外日記
第271話 2010/07/11
「紫宸殿」「内裏」地名研究の課題と可能性

ずいぶん早い時期に「洛中洛外日記」に書かれていたのですね。失礼しました。
けっこう目を通しているつもりでしたが,スルーしてしまっていました。
でも,「方位の考古学」からも注目すべき遺跡(内裏)と考えますので,
さらに追究していきたいものです。

古賀さんの論はすでに知っております。しかしその論は、通説に完全に屈服している。
 特に土佐国府遺跡の有る場所に「内裏」字が残り、ここが紀貫之のいた国司館だとしている「通説」を何の検証もなく、「都から派遣された国司が自らの赴任先の館を「内裏」と呼んだ」と断定したあたりは、学問的態度ではないと思います。
 調べてみるとわかることですが、通説派は「内裏」地名を理解できなかった。解釈不能。
 そこで飛びついたのが、太宰府の政庁の北にある「内裏」地名。
 ちょうどこの場所に太宰帥であった大伴旅人の館跡そされるものがあったので、「国司が自分の館を内裏と呼んだ」例とした。
 土佐国府の内裏にある紀貫之館そのものが、こうした通説の「妄説」に依拠してできたものなのです。
 さらに大伴家持が越の国府で読んだ歌を根拠に「都から派遣された国司が自らの赴任先の館を、「遠の朝廷」と歌った」ケースとしたところも、通説を検証なしに受け入れたものです。
 これはたしか古田武彦さんも言っていたとおもいますが、万葉歌人の柿本人麻呂が太宰府を遠の朝廷と呼んで九州王朝の時代を忍んだものを本歌として、近畿天皇家の直接の祖先であるオオド王の故地がこの越の国であることをベースにして、越国府を遠の朝廷になぞらえた特殊な例だと思います。
 家持の父旅人は軍人として、九州王朝の都太宰府に乗り込み、九州地方での九州王朝残存勢力の討伐、特に隼人の乱を鎮圧した人物です。家持は太宰帥として太宰府に赴任した父に、母や弟とともに同行したと考えられています。滞在は僅か数年間ですが、一つの王朝が滅びて行くさまを幼少の彼は感じたことと思います。
 そして家持が越中守として赴任したのは746(天平18)6.21、そして都に帰任したのは751(天平勝宝3)年7.17に少納言に任じられてから。出立は8月5日なので帰京したのはその月の末か?
 生年は718(養老2)と考えられているので、28歳からの6年間。
 家持の若き日のこと。越中守任官は長い官歴のほぼ最初の頃。
 天皇家の祖先の地に赴任して今後の出世を夢見た心が「遠の朝廷」と読ませたのではないでしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

通説派は,生き残るためには何でも利用するのですね。
でも,内裏の持つ意味は,本当にはわからなかった。
私たちは,考古学の成果と「方位の考古学」に助けられ,
本当の歴史を明らかにしたいものです。

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