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2019年10月28日 (月)

土佐国府の出土物をグラフにする

土佐国府の「内裏」発掘は,26次だけではなかった。

合計3回行われているようだ。(報告書の発行年は,少しズレる)

1980(昭和55)年・・・1回目(8次)

1983(昭和58)年・・・2回目(12次)

1999(平成11)年・・・3回目(26次)→ 報告書は,2001年となる。

3回のうち一番新しいものが,奈良文化財研究所のデータベースに掲載されている。

「報告書抄録」を載せてみよう。

Img_5099

蛍光ペンでめぼしいものをアンダーラインしてみたが,

私にとっては「イマイチ」の感があった。

そこで,調査地区の表をもう一度みてみると,

「内裏」と名前が付けてあるのが,もう1か所あった。

8次の発掘がやはり,「内裏」と名付けてあったのだった。

(ただし,詳しい報告は出ていない)

そこで,「土佐国府 内裏 発掘」で検索してみた。

すると,8次発掘のことにふれているものがあった。

以下のものである。

土佐国府発掘調査測量用骨格基準点設置報告書

これによると,8次の発掘で,「内裏」その他から,掘立柱建造物址をはじめ,

円面硯,転用硯,風字硯のほかに,「緑彩陶器」,「青磁」,「白磁」,「青白磁」等

数多くの関連遺構,遺物が出土したとあった。

これらは他の国府でも「よく出土するもの」なのだろうか?

ということで,8次発掘では,26次発掘より多くのものが出土していることが分かった。

いずれにしても,残された区域の発掘をぜひしてもらいたいものだ。

また,1~27次の発掘が一覧表になっているものを見出したので載せてみる。

「内裏」だけではないが,たくさんの遺物が出土していることがわかると思う。

8次と26次の間に,12次でも「内裏」の発掘を行っていることも分かった。

Img_5106

次に,1~27次の遺物を「硯」「陶器」「磁器」に分けて,色ペンで地図中に記入してみた。

特に黄色で記した硯は,刀子などと共に,役人が実務を行う際の「7つ道具」と考えられる。

国府の配置を知る手掛かりになると思う。

Img_5108

すると,硯は南側に集中し,北側には出現していないことが分かった。

南部には官庁街が,北部にはそれ以外のものが存在していた証拠だろう。

すると「硯の多い官衙街」が,その北方に「政庁」が,

そのさらに北には「九州王朝の天子の宮」(内裏)を私は想像するが,

いかがだろうか・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

内裏(天子がいるところ)

 ↑

政庁

 ↑

官衙群(硯が多く出土)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 出土遺物、とりわけ「硯」「陶器」「磁器」を色分けして地図に置いた作業。とても素晴らしい作業をされたと思いますね。
 肥沼さんは硯が南部から出ていて北部にはないから、この北部が政庁とされました。
 でももっと詳しく見ると、硯が出土している箇所は、内裏地名のすぐ南側の一角を除いた、その周辺と南部なのです。
 硯は書記官などの下級役人の道具。
 したがって政庁はこの硯が出てこない場所。内裏のすぐ南側の17次18次20次発掘が行われた場所、小字でいうと「松の下」「南屋敷」だと思います。
 ふつう国衙の建物配置は、政庁を中心にして、その東西南北に関連の官衙が連なるもの。
 土佐国府は政庁の北に内裏が置かれたので、この内裏と政庁の東西南北に官衙が連なったのだと思います。
 内裏地区の一部をほった26次の遺跡図を奈文研サイトでみると26次の北側が、小字「宮の前」。ここには大きな掘立柱建物と正倉が出ていますので、内裏に伴う官衙の可能性。ここに緑釉陶器がでている。この陶器の年代がわからないかな?報告書で確認してください。
合わせて青磁・白磁の年代も知りたいな。
 これらはどれも高級な陶器と磁器ですから。
 26次の南側が「コフラ」の東半分を掘ったもの。
 ここには小型の建物が二棟あるが、北の「宮の前」との中間部分は空白。北の建物と南の建物の間の空間はおよそ南北に20m。大型の基壇を伴う建物が一棟入る空白です。
 ここかな?内裏紫宸殿の場所は。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 出土遺物、とりわけ「硯」「陶器」「磁器」を色分けして地図に置いた作業。とても素晴らしい作業をされたと思いますね。

ありがとうございます。蛍光の色ペンがまた役に立ちました。

〉 したがって政庁はこの硯が出てこない場所。内裏のすぐ南側の17次18次20次発掘が行われた場所、小字でいうと「松の下」「南屋敷」だと思います。

なるほど,なるほど。

〉ここに緑釉陶器がでている。この陶器の年代がわからないかな?報告書で確認してください。
合わせて青磁・白磁の年代も知りたいな。
 これらはどれも高級な陶器と磁器ですから。

なかなかわかりません。

〉  26次の南側が「コフラ」の東半分を掘ったもの。
 ここには小型の建物が二棟あるが、北の「宮の前」との中間部分は空白。北の建物と南の建物の間の空間はおよそ南北に20m。大型の基壇を伴う建物が一棟入る空白です。
 ここかな?内裏紫宸殿の場所は。

これで,だいたいの位置関係はわかりましたね。

第26次の発掘報告書を精査してみました。
緑釉陶器は、北側の調査区の穴・P173から出土したもの。付近の穴からは鉄製の刀子も出ています。
 考察編を読むとこの遺構と遺物の性格がわかります。
 P49にはこの調査区で出てきた掘立柱建物群の年代が推定されていますが、SB81を含む三棟が、8世紀末~9世紀前葉、また四棟は11世紀後葉~12世紀前葉としていました。
 P50にはこの調査区最大の掘立柱建物で、土佐国府遺跡群の中でも最大の掘立柱建物SB81の事が論じられています。
 そしてこの建物群にはたくさんの土坑が付随しているのですが、その中から杯や皿や甕が多数出土することから、この建物群は厨房ではないかと推定されています。
 そしてこの建物群に伴う穴からでた緑釉陶器ですが、近江産のもので、平安時代土器のⅢ期古段階(930~960年)の物と東海産で平安時代土器のⅡ期新段階(900~930年)の物と判断されていました。

 残念ながら最大の掘立柱建物は8世紀末~9世紀前葉で50年上げても8世紀前半末ぐらで、九州王朝時代の7世紀には遡らず、緑釉陶器も10世紀代のものとわかりました。
 内裏地区の中心を掘った26次の遺構は、内裏地名そのものとは関係がないようです。

 なおP50~51の「まとめ」を読むと、南国市教育委員会も、土佐国府の国庁の場所は、内裏地名のすぐ南側と考えていることがわかります。
 ここは多くの野菜栽培のビニールハウスが立ち並んでいるので調査が困難な場所だとも書かれていました。一年中農耕がされている場所ですから掘れないわけですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 第26次の発掘報告書を精査してみました。

お疲れさまでした。

〉  残念ながら最大の掘立柱建物は8世紀末~9世紀前葉で50年上げても8世紀前半末ぐらで、九州王朝時代の7世紀には遡らず、緑釉陶器も10世紀代のものとわかりました。
 内裏地区の中心を掘った26次の遺構は、内裏地名そのものとは関係がないようです。

そうですか,それは残念でした。

〉  なおP50~51の「まとめ」を読むと、南国市教育委員会も、土佐国府の国庁の場所は、内裏地名のすぐ南側と考えていることがわかります。
 ここは多くの野菜栽培のビニールハウスが立ち並んでいるので調査が困難な場所だとも書かれていました。一年中農耕がされている場所ですから掘れないわけですね。

本当に掘りたいところが掘れない。考古学のつらいところです。

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