« 南相馬市立博物館 | トップページ | 今日も「良野」がいる »

2019年10月21日 (月)

なぜ泉官衙政庁には「玉石敷」があるのか?

古代の東山道と東海道の終点は,茨城県石岡市であった。

普通に考えれば,そこまでが九州王朝の「版図」だったということだ。

ところで,私が惚れ込んでいる泉官衙遺跡は福島県南相馬市にある訳だから,

茨城県石岡市より200キロ以上北にあるので,

これも普通に考えれば蝦夷国の領域の中に作られたということになる。

(仙台にある多賀城は,もっと北にあって柵に囲まれていた模様。

それに対して,泉官衙遺跡は柵の話題は聞いていない)

そこで,泉官衙遺跡の玉石敷についてである。

このⅡ期に敷かれていた玉石敷はどんな意味があるのかということだ。

毎日抗争に明け暮れている状態だったら,玉石敷はかえって攻撃の目標になり,

危険を自ら買って出ているようなものだ。それが,誇らしく敷かれているように見える。

Img_4039_20191021073601

その謎は,蝦夷たちと九州王朝の友好関係にあるのではないか。

ずっと友好関係だったのかはわからないが,

少なくとも泉官衙遺跡の玉石敷の様子を見ているとそう思う。

では,誰のためにこの玉石敷は敷かれたものだろうか?

私はかなり偉い人物(九州王朝の天子や都督など)のためだと思う。

玉石敷と言えば,エビノコ郭の礫敷きが類似だ。

第71次・75次調査では内郭を南北に区分する東西塀SA7904が検出さ れ,

北区画には人頭大の石が、南区画には拳大の砂利が敷き詰められていることもわかった。 

私はあちらも同じように九州王朝の天子に仕事(詔を出す)をしてもらう建物(大極殿)と考える。

なにしろ,飛鳥宮の最大の建物なのだから・・・。(「主語有無の論証」も支持している)

なお,飛鳥宮北部には「増設」された大型建物があり,こちらが生活の場だったのではないか?

Img_5022

 

« 南相馬市立博物館 | トップページ | 今日も「良野」がいる »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

追伸

 遺構全体図を見ると、正倉院(正方位時代)が周囲を大きな堀で囲まれている。その近くに東偏の堀の一部が見られる(変遷図では正方位のあとに東偏堀が拡大したとしているが、逆ではないか)。
 さらに西方の館地域は西側を大きな土塁で区切られている。この土塁も東偏している。
 もしかしたらⅠ期政庁時代には、それぞれの施設を堀で囲み、さらに官衙群全体が土塁で守られていたのではないだろうか。
 さらに遺跡を精査する必要があると思う。

肥沼さんへ

 泉官衙遺跡のⅡ期では政庁中庭に玉石敷が行われていた。これが何であるかを考えた。
 結論としてはこれは、この地を治める都督や天子が訪れた時のための施設。

 この結論は良いと思う。
 ただその前提になる蝦夷国との関係。
 肥沼さんはこの地は蝦夷国だとした。理由は東山道と東海道の終点が常陸国府にあるから。
 しかしこの視点には、蝦夷国の範囲が時代によって変遷するという視点が抜けている。言い換えれば九州王朝や近畿王朝が常に、蝦夷国を圧迫してその領土を自己の帝国に併合してきたという歴史が抜け落ちている。
 書紀で「蝦夷」で検索してごらんなさい。
 かなり以前から蝦夷を攻めていることがわかるでしょう。

 もし九州王朝にとっての北の敵国が粛慎であるのなら、蝦夷国は九州王朝と粛慎との間の緩衝地帯。できるだけ友好国として遇し、粛慎と戦うときの拠点としておきたいところだ。
 これが東山道と東海道の終点が常陸国府に置かれた時期。

 しかし中国に隋という巨大な統一国家ができ、それが九州王朝の南の琉球を攻めたとなれば、隋との戦も覚悟せねばならず、より北方の強国粛慎にも備えなければならない。
 こうなると蝦夷国の存在が邪魔になり、できれば併合したいと考えるはず。

 ここで確認したいのは陸奥国がいつできたかということ。
 泉官衙遺跡は陸奥国の行方郡衙だと考えられている。九州王朝時代なら陸奥国の行方評衙だからだ。
 試にウィキペディアで陸奥国を引いてみた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9B%BD
 これによると、陸奥国の始原は「常陸風土記」に難波朝廷時代に、関東に八か国を置いたという記事があり、この一つに陸奥国が含まれるとしたことだ。
 当時の表記では「道奥国」。
 その範囲は、「現在の宮城県の中南部、山形県の内陸部、福島県のほぼ全域、茨城県の北西部に相当し、内陸盆地のみならず、阿武隈高地以東に位置する太平洋沿岸である福島県浜通り(旧磐前県)や宮城県沿岸部も含まれていた。 」と。
 つまりこの時に行方評も設置され、その中心施設として泉官衙遺跡ができたわけだ。
 年代は654年と。
 Ⅰ期は7世紀後半から8世紀初頭。100年ずらせば6世紀後半から7世紀初頭。
 つまり泉官衙1期は「道奥国」設置の前になる。
 要するに654年以前から九州王朝は、蝦夷南部を侵略して版図に組み入れたということ。
 これはすでに6世紀のこの地方に国造が置かれていたことでわかる。安定した版図ではなく侵略拠点ではあるが、各地に倭国からの移住民(たぶん屯田兵)が移り住み、それらを指揮した豪族(国造)のもとで蝦夷と戦っていた。
 行方国造はいないので、この地は常陸行方からの移住民(屯田兵)で作られ、最初から九州王朝の官吏が指揮していたのだろう。その拠点的官衙が泉官衙Ⅰ期政庁。

 問題のⅡ期は、8世紀初頭から後半。100年ずらせば7世紀初頭から後半。
 つまり泉官衙遺跡のⅡ期政庁こそ、九州王朝治下の道奥国行方評衙だということ。
 要するにこの地が、九州王朝の安定した版図に組み入れられた時期だということだ。

 すでに蝦夷国から完全に切り離され、常陸国から大量の移民を導入して(道奥国の行方評は、同名の常陸国行方評から移民でできた)、この地を完全に倭国化した。すでにこの地は周囲を蝦夷に取り囲まれた前進基地ではなく(前進基地なら柵や堀で囲まれていただろう)、安定した国土となり、その行政機関となっていた。
 Ⅰ期とⅡ期とでは政庁の性格が異なるのだ。
 Ⅰ期は前進基地。Ⅱ期は安定した行政機関の官衙。
 だからこそⅠ期とは異なり、政庁中庭が中央の宮殿のように玉砂利で真っ白なものに装飾されたのだと思う。

「泉官衙遺跡のⅡ期では政庁中庭に玉石敷が行われていた。これが何であるかを考えた。」。
 この視点は良いが、考察の詰めが甘いです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 Ⅰ期とⅡ期とでは政庁の性格が異なるのだ。
 Ⅰ期は前進基地。Ⅱ期は安定した行政機関の官衙。
 だからこそⅠ期とは異なり、政庁中庭が中央の宮殿のように玉砂利で真っ白なものに装飾されたのだと思う。
「泉官衙遺跡のⅡ期では政庁中庭に玉石敷が行われていた。これが何であるかを考えた。」。
 この視点は良いが、考察の詰めが甘いです。

玉石敷の意味から始まって,また1つ泉官衙の歴史が明らかにできました。
「考察の詰め」をありがとうございました。

肥沼さんへ

>玉石敷の意味から始まって,また1つ泉官衙の歴史が明らかにできました。
「考察の詰め」をありがとうございました。

 いえいえ。いつものことです。肥沼さんの鋭い着眼が、新しい発見に導くのです。ご自身でその発見をできるようになるには、もっと多くの智識が必要だということと、「玉石敷き」が高貴の人のためのものだと気が付いたことだけに満足せず、
 1:この高貴の人とはだれだろう?
 2:Ⅱ期遺構の年代を考慮して、100年動かした時期には一体この地で何があったのかを、歴史的に考察してみる。
 という手続きに踏み込む姿勢が大事です。
 わたしがやったのは2の考察。

 1もやってみると面白いと思います。
 654年に道奥国が作られ、その行方評の政庁として、正方位のしかも尊い場所という標示である玉石敷を伴う官衙が出現した。
 この時の天子は、いわゆる「大化改新詔」を出した人。この人が東国巡幸をする予定だったのかな?
 これはいわゆる「難波朝廷」の時代だ。

 これと関連して、「常陸風土記」の倭武天皇巡幸記事が気になりました。
 この記事は年代不詳です。
 しかし常陸国の主な評を歴訪してさらに足を北に伸ばして「日高見国」まで巡幸している。この「日高見国」とはふつう蝦夷国と考えられているが、もっと正確には、蝦夷国から切り取った、後の道奥国ではなかったか?
 この記事に対応する書紀の記事は、景行紀の日本武尊巡幸記事だ。

 そして行方評は、従来国造がいない地域に作られたわけだから、これこそ九州王朝が蝦夷侵攻を進めるための国家的拠点として作った行政区域だ。だから戦に備えた大規模な製鉄工場まで備えていた。
 Ⅰ期政庁の時代からこの官衙はこうした性格を持っていた。
 ということを考慮すると、倭武天皇の常陸・日高見巡幸とは、九州王朝による蝦夷侵攻の始まりの時期のできごとであったのかも、という想像が湧いてきます。

 日本書紀で蝦夷が出てくる場所と、二倍年暦を考慮してその年代を確定したいな。
 まさに中国正史に「倭王武」としてでてくる天皇のことなのかもしれません。
 今気が付いたけど、倭武天皇とは、日本武尊と倭王武が合成された人物なのかもしれませんね。
 倭王武は477年。宋に使いを送った最初だ。最後に使いを送ったのは479年。相手は斉。

※参考:
 私の著書「徹底検証新しい歴史教科書」第一巻のp194で蝦夷と九州王朝との関係を書紀記事で考察したものがあります。これによると
 書紀に蝦夷が出てきた初出は、景行紀。の40年の記事。蝦夷反乱だ。これを押えに行ったのが日本武尊。これを私は西暦260年と計算した。一倍年暦であることが明らかな継体の所以前は全部二倍年暦と考えて遡った結果だ。
 次に蝦夷反乱が出てくるのはその122年後(実際は61年後)の仁徳55年。その次はさらに199年後(実際は99年後)の敏達10年。
 この間に見られる蝦夷記事はみな朝貢記事。
 敏達10年の記事は西暦581年。6世紀末。まさに泉官衙Ⅰ期政庁の時代だ。

 仁徳55年の時代は敏達10年の99年前。480年ぐらい。どんぴしゃりに倭王武の時代。

 このp194前後の蝦夷記事も一度精読してみてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

川瀬さんの考察を拝見していると,歴史の知識が豊富に使われていて,うらやましいと思います。
ただ,私は「著者の書いていることを,素直にみんな受け入れてしまう」という短所があるので,
通史の勉強には少々二の足を踏んでいます。

〉 このp194前後の蝦夷記事も一度精読してみてください。

今日の読書は,そこから始めてみることにします。

肥沼さんへ

>川瀬さんの考察を拝見していると,歴史の知識が豊富に使われていて,うらやましいと思います。
ただ,私は「著者の書いていることを,素直にみんな受け入れてしまう」という短所があるので,
通史の勉強には少々二の足を踏んでいます。

 通史は知らないより知っている方がましです。肥沼さんは知らないことでたくさん損をしています。知っていたら、もっと深い発見をできるはずです。
 「著者の書いていることを,素直にみんな受け入れてしまう」という短所とおっしゃいますが、肥沼さんの本や論文の読み方は、それを丸ごと覚えようとしているから、そのまま受け入れてしまうのです。
 ざっと読み飛ばすだけでも良い。おかしいと思ったら付箋をつけておく。
 まずは知ることです。そしてその知った知識を使って考えてみることです。つかっているうちに「ちょっとおかしいな」ということが出てきます。出てきたらそこを深く探求すれば、新しい発見が出てくるのです。
 通史の勉強に二の足を踏んでいる限り、現状からの発展はありません。

 私の著書は、通史の勉強にもおおいに参考になるはずです。
 古い友人(彼は音大出の音楽教師で今は作曲家です)が歴史が好きでいろいろ読んでいたけど、「川瀬君のは読みやすいしわかりやすいし、今までの疑問がすっと解けてしまっておもしろい」と言ってくれました。彼は近世編3と近代編の二冊の一刻も早い刊行を望んでいます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  通史の勉強に二の足を踏んでいる限り、現状からの発展はありません。

そうは思っていますが,最初から読み通す意欲が湧いてきません。
もちろん,「そこに何かありそうだ」と思えば,普段の10倍以上の意欲で取り組めますが…。

〉 私の著書は、通史の勉強にもおおいに参考になるはずです。

そう思います。

〉 古い友人(彼は音大出の音楽教師で今は作曲家です)が歴史が好きでいろいろ読んでいたけど、「川瀬君のは読みやすいしわかりやすいし、今までの疑問がすっと解けてしまっておもしろい」と言ってくれました。彼は近世編3と近代編の二冊の一刻も早い刊行を望んでいます。

私も同感です。

肥沼さんへ

〉 私の著書は、通史の勉強にもおおいに参考になるはずです。
そう思います。

 ということなので、まず私の著書を古代編・中世偏・近世編1・2と通しで読んでみてください。これで弥生時代から江戸時代の中ごろまでの通史が把握できますよ。

 あと、肥沼さんは日本史辞典と日本歴史年表をお持ちでしょうか。
 この二つが手元にあれば、いつでも何か考えようとするときに参考になります。今回の泉官衙の検討のときも、倭王武の年代を確認したのは歴史年表です。私はだいぶ古いですが岩波書店の日本史年表を使っています。 日本史辞典も岩波のもの。どちらも持ち運びできるもので各1冊。
 他に平凡社の世界大百科事典から日本史の項目だけ抜粋した7巻本の日本歴史辞典。さらに明治時代史大辞典全4巻を持っています。
 この歴史辞典は平曲の解説を書くときにも重宝していますし、歴史を考えるにも重宝します。
 あとはネットで引いてみると、ウィキペディア以外に、「ことばんく」というサイトがあって、ここは、平凡社の世界大百科全書の記述や、朝日新聞の日本人名事典など、定評のある学者が書いた歴史辞典類の記述が掲載されているので、これを読むと確実に歴史研究者や国文学者の認識がわかります。
 こうしたネットの辞典を使って考察するのも良い勉強になります。

 私の著書4冊を書くときは、それぞれの章の最後の参考文献を全部読んでみて、これはという学説があったらそれに依拠し、ないときにはいくつもの学説を比較検討して、私の説を立てて書くなどしました。
 通史ではなく、通史を書くために各項目の専門書を膨大に読むというのもすごい勉強になります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

たくさんの参考図書をご紹介いただきましたが,
「千冊の読書も,まず一冊目から(千里の旅も一歩から)」ということもありますので,
『古代編』からスタートしてみます。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 南相馬市立博物館 | トップページ | 今日も「良野」がいる »

2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ