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2019年9月24日 (火)

岸の上遺跡に「方位の考古学」を適用すると・・・

今,多元的「国分寺」研究サイトで,川瀬さんと全国の遺跡を精査している。

「方位の考古学」によって,悉皆調査をしていくというすごいものだ。

(奈良文化財研究所のデータベースを使用。検索すれば誰でも利用できる。チャンスは平等にある)

昨日「やり直し!」ということで,私が再提出したのは,以下の精査だった。

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(1)岸の上(6世紀後半~10世紀後半)・・・倉であるが,早い時期の正方位。その後,西偏。

 1期(7世紀末より以前)・・・正方位

 2期(7世紀末~8世紀初)・・・西偏

 3期(8世紀第2四半期)・・・西偏

遺構図(平成26年度調査)】【遺構図(平成28年度調査) 】と建物データ

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これでも最初の精査に比べれば少しは進んだ部分があったが,川瀬さんのコメントは次のものだった。

なるほど,与えられた資料に「方位の考古学」を適用されると,このような精査が可能なのかと驚いた。

(詳しくは,多元的「国分寺」研究サイトをご覧下さい。ここでは結論だけ)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 つまりこの岸の上遺跡は

0期:6世紀後半~:東偏(後の旧南海道の付近から北側)→6世紀前半~


1期:7世紀末以前:正方位(後の旧南海道付近の南側) →7世紀中頃以前


2期:7世紀末から8世紀初:西偏(上に同じ)        →7世紀中頃から7世紀末


3期:8世紀第二四半期:西偏(上に同じ)          →7世紀末から8世紀初


 ーーーーーーーーーこの後に九州王朝→近畿王朝の変化があり、南海道が付け変わったーーーー


4期:9世紀前半:西偏(旧南海道が作られ、その北側に官衙が移動)→8世紀末から9世紀初


 ※以上の年代は全部50年上にあげないといけない。


  この50年上にあげた年代を見ると、南海道が付け変わった年代(養老2年・718年)とぴったり一致します。

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正方位の前に「東偏の0期」を入れ,4期で「南海道の付け替え」にまで至る川瀬さん。

本当にすごい精査を見せていただきました。そして,「方位の考古学」の素晴らしさも再認識しました。

Img_4479

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ここまで書いてきて,「あれ,これも東偏じゃないの?」と思った建物(青色のSB8022)を思い出しました。

「2期」という年代比定がされていますが,正方位の倉(1期)に切られている訳ですから,

「方位の考古学」でみれば,当然0期の東偏では?川瀬さん,いかがでしょうか?

21610

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コメント

肥沼さんへ

 正方位の正倉院の下に東偏の掘立柱建物を発見!!!!
 大ヒットですね。たしかにそのとおり。
 SB8022の柱穴が正方位の倉SB8010に切られている。明らかにSB8022は7世紀末以前の倉より前の遺構ですね。
 つまり0期で6世紀後半で実年代は6世紀前半。

 この肥沼さんの発見によってこの地にあった東偏の正倉院群は旧南海道の南側にも広がり、この南側にこそ正倉院の主な役所の建物があったということ、そしてこの東偏の正倉院群があった時代にはまだ、旧南海道はなかった(すくなくとも幅が10mを超す規模の道路ではなかった)ことが確定したと思います。

 そうするとこの遺構からも確認できる幅10mを超す南海道はいつできたかが問題になります。
 先の見解では2期3期にともなってとしましたが、これは間違いですね。0期と1期の間。
 東山道武蔵路は今の考古学編年で7世紀第三四半期とされている。これを100年遡らせれば6世紀第三四半期となり、この遺跡ではまさしく0期と1期の間だ。
 0期と1期の間に幅10mを越す南海道で、讃岐国府と伊予国府は繋がれた。
 この結果南海道で南北に分断された正倉院(これはおそらく讃岐国府に伴う正倉院だと思う)は廃止され、新たに南海道の南側に正方位で建てなおされたのだと思う。

 しかし1期のあと、すなわち2期の時期に、年代でいえば7世紀末から8世紀初、実年代では7世紀中頃から7世紀末にこの正倉院群は、南海道に直交した西偏に建て替えられた。
 この時期の建物が28年度地区では緑色に塗られた建物だ。
 この時期は実年代でみると白村江の戦いの直前から直後。
 讃岐の国は国府も正方位→西偏で場所が変わっているから、この時期に近畿天皇家の領域に吸収されたのではないでしょうか。
 そしてさらにその後、8世紀第二四半期、実年代では7世紀末から8世紀初に、近畿王朝のもとで再度西偏に建てなおされた。これが図の水色の建物群。
 この時期に土佐に行く南海道が、伊予→土佐でななく、阿波→土佐に変更された。
 さらにその後9世紀前半、実年代で8世紀末から9世紀初に、この官衙は南海道の北側に移されたのだと思います。

 以上肥沼さんの発見によってわかったことを元に訂正します。

※なお、南海道の側溝遺構を見ると南側が二条の溝になっているので、時期はわかりませんが、一度道を拡幅していることは確かです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  正方位の正倉院の下に東偏の掘立柱建物を発見!!!!
 大ヒットですね。たしかにそのとおり。
 SB8022の柱穴が正方位の倉SB8010に切られている。明らかにSB8022は7世紀末以前の倉より前の遺構ですね。
 つまり0期で6世紀後半で実年代は6世紀前半。
 この肥沼さんの発見によってこの地にあった東偏の正倉院群は旧南海道の南側にも広がり、この南側にこそ正倉院の主な役所の建物があったということ、そしてこの東偏の正倉院群があった時代にはまだ、旧南海道はなかった(すくなくとも幅が10mを超す規模の道路ではなかった)ことが確定したと思います。

府中研究会で何日も,「他の遺跡を切っている例外がないか」を探し続けたことが,
ここにきて生きたと思います。ありがとうございました。

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