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2019年9月 4日 (水)

三内丸山遺跡の人たちは,クリによって栄え,クリによって・・・

川瀬さんのコメントから,三内丸山遺跡を検索してみた。

そうしたら,興味深い話にぶつかった。

三内丸山遺跡の人たちは,クリによって栄え,クリによって・・・というものだった。

縄文人は何を食べていたか — 新しい科学が明らかにする日常 (小山修三)】

https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/021/ss_1.html

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 小山修三さんの文章。とても刺激的ですね。縄文時代のイメージが完全に覆ったでしょ。
 実は縄文時代は農耕の時代だったのではという見解はずいぶん昔からありましたが、その証拠が最初に見つかったのが、福井県の鳥浜貝塚遺跡です。この遺跡は1961年から1985年まで調査され、この遺跡から初めてクリ、どんぐり、クルミなどとともに、ヒョウタン、緑豆(りょくとう)、ウリなどの「栽培植物」の種子が発見されていたのです。
 この結果が公表されたのはたしか1985年。私が教員になった翌年。この年から社会科を担当した私は早速歴史の授業の中に、縄文時代はすでに栽培農耕時代だとのテーマでやりました。そもそも西洋の考古学では、石器を磨き上げて様々な用途別の形状に作り上げている新石器時代は農耕社会だとされていたのです。なのに日本は農耕というと稲という先入観があるので、畑作の方が先行しているのではないかとの意見が考古学者以外からでても無視してきたのです。
 まさに縄文時代は畑作農耕の時代。なんと稲も畑で作られる陸稲だったのです。
 山内丸山遺跡が注目を浴びてそろそろ20年になります。
 肥沼さんはこの遺跡の縄文人が栗を栽培して生きてきたことを知らなかった。つまり縄文が農耕社会であることを知らなかった。ということは教科書の狩猟採集という間違いをそのまま教えていたのですね。知らないということは怖いことです。
 ちなみに小山論文を補足すると、栗の実のDNA鑑定からなぜ栽培種であると判断されたか。実は栗の実のDNAは皆同じだったのです。つまり山内丸山遺跡の栗畑で栽培された栗は皆、同じ木の挿し木で増やされたものだったからなのです。
 こうしたこともDNA分析技術が進んだからこそのものです。
 縄文農耕で検索してみてください。もっといろいろ情報があるし、手軽な良い本がたくさん紹介されています。
 僕が読んでみようと思っている本が二つ。
●タネをまく縄文人: 最新科学が覆す農耕の起源 (歴史文化ライブラリー) 小畑弘己著 吉川弘文館
●縄文農耕の世界―DNA分析で何がわかったか 佐藤 洋一郎著 PHP新書
  小畑著は2015年刊。佐藤著は2000年刊です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 肥沼さんはこの遺跡の縄文人が栗を栽培して生きてきたことを知らなかった。つまり縄文が農耕社会であることを知らなかった。ということは教科書の狩猟採集という間違いをそのまま教えていたのですね。知らないということは怖いことです。

えーっ,それは川瀬さんの誤読ですよ。私がこの文章をリンクしたのは,「クリによって栄え」の方が言いたいのではなく,
「クリによって・・・(滅んだ?)」の方です。クリ(一つのものに)に頼りすぎると,しっぺ返しを食うことがある,
という教訓は現代にも通じると思ってリンクしました。それを川瀬さんは「肥沼は三内丸山のクリの話も知らない」と勘違いされた。

私は25年ほど前に古田さんたちと三内丸山遺跡にも行きましたし,クリで建てられた巨大建物も見てきました。
授業でも「水田はよくわからないが(歴博で弥生時代が引き延ばされました),陸稲や畑作はしていた」と教えてきました。
ただ,三内丸山のクリはあまりにも有名ですが,どこでもそのようにクリを作っていたのか,というのは疑問で,
水さらしでのあく抜きの面倒さはあるが,やはり「平均するとどんぐりが一番多かった」というのが
これまで所沢の縄文遺跡を見てきた印象です。(所沢は,丘陵地なので縄文遺跡がやたら多い)
だから縄文時代が完全に農耕社会だいうのは少し言い過ぎだと思います。
人が入れるほどの大きな縄文土器に,収穫したどんぐりを貯蔵していたのではないでしょうか?
(所沢の埋蔵文化財保存センターの地下には,大きすぎて展示できない縄文土器がたくさん並んでいました)
川瀬さんは,日本全国の縄文遺跡で,三内丸山のようにクリが主食だったと考えていらっしゃるのですか?

肥沼さんへ

 そうでしたか失礼しました。栗に頼りすぎて滅んだ。ここを言いたかったのね。ならばそう書かないと読んでもわからない。
 山内丸山の栗は挿し木で増やしたクローンだったから、害虫や病気にやられたときには一斉に枯死する。研究では気候の激変が原因としていますが、気候の激変で病気や害虫が広がって、一気に栗が枯れたからでしょう。

 私は何も全国の縄文人が栗を栽培しそれを主食にしたなど思ってもいません。日本列島は南北東西に長い。当然地域で気候風土が違うから、栽培するにしても地域ごとにことなるものを栽培し主食にしていた。
 このことは小山さんの文章でも明らかです。
 鹿児島の縄文遺跡で見つかったのはハトムギ。
 そして東北地方の遺跡で多いのは,ヒエ,ヒョウタン,ゴボウ,エゴマ,アサ。
 そして山内丸山遺跡で多いのは、クリ。
 他の地域では他の作物だったのでしょう。遺跡を精査すればわかることです。
 縄文農耕と言っても各地で異なるものを栽培しているのです。主食も当然異なります。

 もういってん「縄文時代が完全に農耕社会だいうのは少し言い過ぎ」の箇所。
 この根拠に所沢の縄文遺跡はどこもどんぐりだという事実を挙げています。
 でも山内丸山遺跡が示したことは、縄文前期の人はすでに、木の枝を土に指すと根が生えてきて、ちゃんと元の木と同じものに成長するという事実。つまり挿し木の技術を知っていた。
 そして挿し木の方が種から育てるよりも成長が早いことも知っていた。
 これが山内丸山だけのことだろうか。
 縄文時代は広域の交易がおこなわれていた時代です。当然技術も交流する。
 つまり所沢の縄文遺跡で出てくる大量のどんぐりが、栽培種である可能性もある。これが山内丸山遺跡が示したことなのです。クヌギやコナラの木を挿し木で増やしていた可能性。
 自然の山や林に入って木の実をとってきた。こう考えているから、出土したどんぐりの実のDNA分析などしたことがないのですよ。
 縄文農耕で検索しましたか。
 すでに欧米の考古学者も含めた縄文農耕のシンポジウムが行われていますよ。どうして、農耕文明に伴って出現する土器や磨製石器が大量に出てくる縄文社会が農耕社会じゃないのか。ずいぶん前からあったこの疑問。土器の出現は世界で最も早いのに、どうして農耕の出現は遅いのか。この疑問に答えることができるのが、山内丸山の遺跡でわかった栽培技術の存在なのです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  すでに欧米の考古学者も含めた縄文農耕のシンポジウムが行われていますよ。どうして、農耕文明に伴って出現する土器や磨製石器が大量に出てくる縄文社会が農耕社会じゃないのか。ずいぶん前からあったこの疑問。土器の出現は世界で最も早いのに、どうして農耕の出現は遅いのか。この疑問に答えることができるのが、山内丸山の遺跡でわかった栽培技術の存在なのです。

私は別に縄文文化は遅れたものだんて思っていません。
当時すでに相当な知恵と技術を持っていたと思っています。
また所沢の例で恐縮ですが,漆の栽培をかなり計画的にやっていたことが,
下宅部(しもやけべ)遺跡の研究からわかっています。泉官衙遺跡と同じ,新泉社のシリーズです。
本日紹介させていただきますだきますね。

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