ONラインで考えてみれば・・・
1990~2年の古田武彦氏主宰による共同研究会によって,
旧政権(九州王朝)と新政権(近畿王朝)の境目=ONラインが,
700年と701年とされた。この意味は決して小さくない。
それまでの国家の意志は九州王朝にあり,それ以降の国家の意志は近畿王朝にあることになるからである。
例えば,倭の五王を送ったのは5世紀のことであるから,
ONラインに従う限り,原則九州王朝の中国南朝への朝貢ということになる。
(これは「方位の考古学」の東偏政策とも合う)
また,「日出ずる処の天子」の手紙も,聖徳太子ではなく「隋書」に出てくる多利思北孤(鉾をたくさん持っている男)
という九州王朝の天子と言うことになるし,
また白村江の戦いを主導したのが九州王朝(「薩野馬」が皇太子か)ということになる。
実は,白村江の戦いに近畿王朝は参戦していない。斉明天皇の葬儀を理由に,兵を引き上げているのだ。
だから,まったく損害はなかった。
一方,無謀な戦争で,敗戦から滅亡へひた走ったのは,実は倭国=九州王朝だった。
近畿王朝は生き残って,国内ナンバー2からナンバー1(主権者)にのし上がった。
だから,近畿王朝は自らの初めての「大宝」という年号を定めること(建元という)ができたし,
九州王朝の歴史も取り込んで「日本書紀」という正史を書くことができたのだった。
・・・・・・・・・・九州王朝・・・・・・・・・・・・・・ONライン・・・・・・・・・・・・・近畿王朝・・・・・・・・・・・・
(517年から九州年号あり) 700年・701(大宝元)年~ ~令和元年
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