多元的「歴史を見る下敷き」
仮説社の商品に,「歴史を見る物差し」というものがある。
古代・中世・近世・近現代の時間の比を,
4:3:2:1で単純化してみると,面白いということに気が付かれた
木浪健二郎さんの発案と聞いている。
ところで,今私が紹介するところのものは,多元的「歴史を見る下敷き」である。
実はこれは,福島県のにある泉官衙遺跡の遺構変遷図なのだ。
1枚の図の中に6つの時代が描かれており,
まるでMRIで人体を輪切りにしたように各時代の歴史が刻まれている。
私はこの遺構変遷図に「2つの王朝の「栄枯盛衰」を見る」のだが,
(九州王朝の東偏・正方位→近畿王朝の正方位)
それには「方位の考古学」の力を借りて,土器編年を100年遡らせることが条件となる。
すると,関東や東北の遺跡(西日本の場合も,九州の遺跡)は100年遡らせられる。
したがって,九州王朝と近畿王朝の「栄枯盛衰」が見えてくるという訳なのである。
(太宰府は,6世紀末~7世紀初頭に九州王朝の正方位の都に・・・)
「物差し」だとマネっこになるので,
多元的「歴史を見る下敷き」あたりでいこうと思っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今思いついた。裏面には,「方位の考古学」の説明を入れればいいのだ。
そうすれば,一石二鳥。
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肥沼さんへ
ところでだいぶ前になるけど、方位の考古学の発表要旨に対して12個の質問を出しましたが、あれに対する答えはどうなったのでしょうか。
仮説の会だとあのレベルの質問はないとおもいますが、セミナーでの発表ではかなりきつい質問が出ると思いますよ(10分の発表にどれくらい質問時間があるかも問題ですが)。
ちなみにその質問を再度載せておきます。
1:畿内を中心として東西で100年中間地帯で50年編年がずらされていることがわかったというが、このずれの年代をどのようにして測定したのですか?
2:九州王朝の方位の変遷を、6世紀中頃を画期としてそれ以前を西偏、それ以後を東偏と判断した根拠はなんですか。同じく6世紀末から7世紀初頭にかけて正方位に替えたと判断した根拠はなんですか。
3:近畿天皇家は6世紀末までは九州王朝に倣って東偏だったが、その後は西偏に変更したとの判断の根拠はなんですか。また7世紀後半からは正方位に替えたとの判断の根拠はなんですか。
4:この50年から100年編年がずらされている現象は、実年代で、いつ頃からいつ頃まで続いたのでしょうか。
5:九州王朝が6世紀の中ごろに中国にならって東偏に変更したことの意味は何だとお考えですか。
同じく6世紀末から隋王朝の設計思想にならって正方位に替えたことの意味は何だとお考えですか。
6:太宰府の編年が7世紀末ではなく6世紀末に遡るとのことですが、これによって従来の太宰府理解にどのような変更が生まれるのでしょうか。
7:資料のB小郡官衙遺跡を、書紀孝徳紀にある小郡宮とした根拠はなんですか。
8:資料C有田・小田部遺跡の中の西偏の官衙を孝徳の難波長柄豊碕宮とした根拠はなんですか。
9:資料Fの岡山理科大学の磁気偏角データベースは、どのようなデータに基づいて算出したものなのでしょうか。またこの信憑性はどの程度なのでしょうか。
10:中国南朝や後漢・魏の都が東偏で作られた理由はなんでしょうか。またそれが隋以降は正方位に変わる理由は何でしょうか。
11:資料のH2の漢魏洛陽城ですが、ここは南北に連なる地壇ー王宮ー天丘の線を基準とした都城の出現(東偏都城のはじまり) と説明されていますが、王宮は明示されていますが、地壇と天丘は明示されていません。どこにあるのでしょう。また王宮が二つ南北にあっても東西にずれていますので、この都城の中心の南北の軸線はどれでしょうか。
12:九州王朝は南朝や隋に倣って都を東偏や正方位にしたといいますが、九州王朝の都である太宰府には地壇・天丘はあるのでしょうか。同じように近畿天皇家の宮や、近畿王朝の都でも地壇・天丘はあるのでしょうか。
2019年9月 2日 (月) 12:48
すでに一週間経っています。
1から順番に考えてください。
投稿: 川瀬 | 2019年9月 9日 (月) 22:39
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 ちなみにその質問を再度載せておきます。
ご丁寧にありがとうございます。
A4判・4枚にコピーして,質問と質問の間にスペースを作り,
書き込みを始めたところです。
毎日1個というやり方で添削していただくと,「夢ブログ」が古代史であふれかえりますので,
多元的「国分寺」研究サイトの方にしようかと思っています。(複数で組ませた方がいいような)
投稿: 肥さん | 2019年9月10日 (火) 05:34
肥沼さんへ
多元的国分寺研究サークルのサイトに添削結果を書いておきました。
問い2と3の答えとして肥沼さんが書いたものは、問い5の答え。
1から4はすべて「判断の根拠」を聞いているのですから、実際の遺跡の状況で答えるしかありません。
5で初めて「西偏⇒東偏」の変化の意味と「東偏⇒正方位」の変化の意味を聞きました。
よく読んだら、3の問いで近畿の方位変遷の根拠を聞きながら、その変化の意味を聞く問いを出すのを忘れていましたね。
問い13:近畿天皇家は6世紀末までは九州王朝に倣って東偏だったが、その後は西偏に変更した。この意味は何でしょうか。また7世紀後半からは正方位に替えた意味はなんでしょうか。
これを追加しておいてください。
投稿: 川瀬 | 2019年9月11日 (水) 00:17
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 問い2と3の答えとして肥沼さんが書いたものは、問い5の答え。
1から4はすべて「判断の根拠」を聞いているのですから、実際の遺跡の状況で答えるしかありません。
5で初めて「西偏⇒東偏」の変化の意味と「東偏⇒正方位」の変化の意味を聞きました。
「実際の遺跡の状況」で応えるのですね。
似たような質問があって,何を聞かれているかよくわからない感じでした。
〉 問い13:近畿天皇家は6世紀末までは九州王朝に倣って東偏だったが、その後は西偏に変更した。この意味は何でしょうか。また7世紀後半からは正方位に替えた意味はなんでしょうか。
これを追加しておいてください。
了解しました。
投稿: 肥さん | 2019年9月11日 (水) 08:02