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肥沼さんへ
資料の掲載ありがとうございます。
なるほど。8世紀後半以降(つまり7世紀後半以降=九州王朝が滅びて以降)は、それまでは太平洋岸の郡衙が中心となった製鉄工場が展開されていた状況が変化し、内陸部の古墳時代からの在地有力氏族がそれぞれが製鉄工場を持って展開する方向に代わっていた。
この際に郡衙が何もしなかったのではなく、内陸の在地氏族による製鉄工業と郡衙中心の製鉄工業を結び付ける役割をもっていたわけだ。泉官衙遺跡のⅢ期に、川に面した港と役所が見られるのはそういうわけ。
この郡衙と内陸氏族の協力関係での製鉄工業の展開が9世紀後半まで続いていたが、沿岸部の郡衙中心の製鉄工業は、9世紀の終わりに突然、郡衙とともに廃絶したわけだ。
この事実が、貞観津波で沿岸部が深刻な被害を受けた証拠だと、著者は捉えているわけですね。
おそらくこれは事実だと思います。
やはり飛鳥中心の瓦や土器による編年で関東東北が100年下に下げられていた状況は、9世紀後半には及ばないと結論して間違いないようです。
投稿: 川瀬 | 2019年8月17日 (土) 12:51
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 この際に郡衙が何もしなかったのではなく、内陸の在地氏族による製鉄工業と郡衙中心の製鉄工業を結び付ける役割をもっていたわけだ。泉官衙遺跡のⅢ期に、川に面した港と役所が見られるのはそういうわけ。
〉 この事実が、貞観津波で沿岸部が深刻な被害を受けた証拠だと、著者は捉えているわけですね。
おそらくこれは事実だと思います。
なるほど,東日本大震災の時の津波で,港湾施設が壊滅的被害を受けたのと似ていますね。
〉 やはり飛鳥中心の瓦や土器による編年で関東東北が100年下に下げられていた状況は、9世紀後半には及ばないと結論して間違いないようです。
確認できて良かったです。
投稿: 肥さん | 2019年8月18日 (日) 05:47