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2019年8月22日 (木)

全国遺跡の方位精査でわかったこと(川瀬さん) 【8/22・23改訂】

全国遺跡の方位精査でわかったこと。

1:現在の考古学が編年の基準としている飛鳥(大和)地方における正方位の出現は、6世紀末から7世紀初頭であること。これは飛鳥寺で日本書紀によりその造営年代がわかる稀な例である。正方位寺院の出現は九州王朝の指示と考えれば、6世紀末から7世紀初頭出現は全国的現象と思われる(仮定1)。

2:仮定1を基準として全国の古代寺院遺跡と官衙遺跡の方位を精査した結果、飛鳥(大和)地方から東西にはなれれば離れるほど、その遺跡の年代が後ろにずらされていることがあきらかとなった。その程度は

      九州←←中国四国←←畿内(大和)→→中部→→関東・東北

      100年   50年              50年    100年

である。これは畿内で発生した瓦や須恵器が次第に全国に広がったと仮定したからこそ生じた編年のずれと思われる。実際は九州王朝による全国的な一元的な寺院・官衙建設なので、そこで使用された瓦も須恵器も同じ形式のものは全国一律に同時期に使用されたと考えるべきことがあきらかとなった。

※ 追加

  畿内に比べて、50年とか100年とか年代が後ろにずらされる傾向はいつまで続いたか。

 この大事な問題はまだ確定していないが、太宰府政庁Ⅲ期がⅡ期の焼土層の上に再建されている事実から、Ⅲ期の年代である10世紀中葉との年代は940年の純友の乱に基づいて判断されたものなので実年代と考えられ、10世紀までは年代のずれは及んでいないとみられる。

 また福島県の泉官衙遺跡で、この行方郡衙と見られる遺構とこれに付属した製鉄遺構とみられる金沢地区製鉄遺構は、7世紀中頃(実年代は6世紀中頃)に始まり、10世紀前半で突然終末を迎えている。しかし内陸にある他の官衙群や製鉄遺構は8世紀末頃(実年代は7世紀末頃)に在地勢力のもとで始まって行方郡衙とも密接な関係を保って栄えていたが、この内陸の官衙や製鉄遺構は、太平洋沿岸にある泉官衙遺跡や金沢地区製鉄遺構が10世紀前半に突如消えているのに反して、それ以後も続いている。

 発掘者は其のまとめで、これは貞観地震津波で沿岸部の官衙や製鉄工場が被災して終末を迎えたが、内陸にあった官衙や製鉄工場は被災を免れたのでその後も続いたと解釈している。

 貞観地震津波は869年の出来事である。9世紀後半。

 したがってこの泉官衙終末である10世紀前半というのも実年代の可能性が高く、ここでも10世紀までは年代のずれが及んでいない可能性が高い。

 以上二つの遺構の実態から、年代のずれは9世紀台までなのではないかと考えられる。

なお、瓦や土器を元にした編年が、実年代と50から100年ずらされていることを、他の年代鑑定法で確かめることはできないかという問題だが、今のところ、放射性炭素年代法とのずれでこれが証明される遺構は一つだけである。長野県(信濃国)の明科廃寺。

 この遺跡は出土した素弁蓮華文軒丸瓦の形式から7世紀後半と判断されてきたが、その後の調査で柵列跡と目される穴から出土した炭化物の放射性炭素年代測定による結果は、6世紀中ごろから7世紀前半ごろの年代が推定され、瓦による年代判定と約50年のずれが生じていることが示されている(「安曇野市の埋蔵文化財第12集 明科遺跡群明科廃寺4」2017年安曇野市教育委員会)」。

 元データを転記すれば

 明科廃寺

 放射性炭素測定

 未補正年代  δ13C     補正年代  暦年代

 1490±15  -26.41±0.21  1492±17  543-611

 なおこの明科廃寺の瓦を分析した論文には、この寺の第一期の瓦と同じものは滋賀県衣川廃寺I類に求められ、この瓦の年代は620~ 640年頃に位置づけられている。論文の著者はこの形式の瓦が同様な瓦が出土する寺院や窯跡があることから、「衣川廃寺一杉崎廃寺一明科廃寺一天狗沢窯址(山梨県)」と東山道ルートを使って明科廃寺まで50年ほどかかって伝来したと解釈しているが、この衣川廃寺の年代と先の明科廃寺の柵列跡から出土した炭化物の年代はほぼ一致しているので、滋賀県の衣川廃寺と長野県の明科廃寺とはほぼ同じ時期に同じ技術で作られたことを物語る資料である(「明科廃寺址」2000.3明科町教育委員会)。

 こうして明科廃寺では、放射性炭素測定年代と瓦形式による年代が一致し、従来の瓦による編年が、実年代とは50年ずれていることが明らかとなった稀な例である。

 精査すれば、全国にこのような遺跡は数多くあるものと思われる。

3:九州王朝における寺院や官衙を東偏で設計することのはじまりは、九州王朝の中枢である筑前・筑後・豊前の精査から、6世紀中頃であることがあきらかとなった。これは九州年号の始まりの時期と一致し、さらに日本国・天皇号の出現の時期とも一致する。この現象の背景は、朝鮮半島の支配をめぐって半島各国と争い、その宗主権が倭国に有ることを中国南朝に認めさせようと尽力して果たせず、倭国が中国南朝王朝からの自立を図ったということではなかろうか。南朝の都はみな東偏で設計されている。

4:九州王朝における正方位の出現は、飛鳥(大和)で予想された通りの6世紀末から7世紀初頭であった。これで仮定1は正しいことがわかった。これは中国を統一した蛮族出身の王朝隋の出現と正方位の都城洛陽の出現時期と一致している。さらにこれは隋書に記された隋に対抗するかのような国書を倭国王が送った時期とも一致している。これは中国正統王朝である南朝の滅亡と、倭国と同様な蛮族出身の統一王朝ができたことへの対抗措置と思われる。

5:九州王朝における寺院や官衙の方位の変遷は以下のようにまとめられる。

   6世紀中頃まで:西偏(これは方位磁石に従ったもの)

   6世紀中頃以後:東偏(これは中国南朝の設計思想に倣ったもの)

   6世紀末から7世紀初頭:正方位(これは中国隋王朝の設計思想に倣ったもの)

 以上のようにきわめて短期間のうちに、寺院や官衙の設計思想に変化がみられる。

6:全国の寺院や官衙の方位の変遷は、九州王朝中枢域におけるその変遷とほぼ同じである。

7:九州王朝が、西偏⇒東偏⇒正方位と寺院や官衙の設計思想を変化させたなかで、近畿天皇家がこれと異なる動きをしていることが、奈良県(大和)や近畿王朝の畿内地域の古代寺院官衙の方位の精査から明らかとなった。

   6世紀末ごろまで:東偏(これは九州王朝に倣ったもの)

   6世紀末から7世紀後半まで:西偏(あえて方位磁石に従って作った。九州王朝からの独自の動きか)

   7世紀後半から:正方位

 この近畿天皇家の西偏時代は、九州王朝が正方位に替えた時代に対応している。ということはあえて近畿天皇家は九州王朝の指示に従わなかったということではないか。近畿天皇家の支配領域において6世紀末から7世紀初頭の正方位の寺院は数えるほどで正方位の官衙はない。

 ちょうどこの時期は、推古朝に始まる対隋・唐独自外交路線をとった時期に照応する。

 そして近畿天皇家がその寺院や官衙を正方位で作り始めた時期は、白村江の敗戦で事実上統一権力を失った九州王朝に代わって、近畿天皇家が事実上の統一王権の位置についた時期に照応する。

 ただし近畿天皇家が統一王権の地位について以後の時期の寺院や官衙だが、かならずしも正方位とは限らないところに特徴がある。すなわち正方位のものと西偏のものとが混在する。

 これは近畿王朝の統合力の弱さを示し、正方位のものは王朝自身が直接関与したもので、西偏のものは現地勢力が建設をおこなったものという性格の違いがあるものと思われる。
 そしてやがて近畿王朝の時期においても、磁石の北が東偏を示すようになる時期(11世紀ごろ以後)以後は、寺院や官衙も東偏となっていったことは、王朝国家の統合力の喪失を示すものであろう。

8:以上の検討結果に従えば、全国の古代寺院・官衙遺構の年代は、その設計思想である方位さえわかれば、九州王朝における方位の変遷と近畿天皇家におけ方位の変遷に照らし合わせれば、その大まかな年代を明らかにできるものと思われる。

9:以上の検討結果に付随して、全国の国分僧寺国分尼寺の問題に言及しておく。

 数少ない正方位のもの:九州王朝の正方位の時代につくられたものと、聖武詔に基づいて8世紀中頃につくられたものの二種類がある。その区別をつけるポイントは瓦の形式と伽藍形式。

 東偏のもの:大部分は九州王朝の東偏時代のものだが、少数は、磁気偏角が東偏となった11世紀以後に新たにつくられたものも含まれる。この区別をつけるポイントは瓦の形式と伽藍形式。

 西偏のもの:可能性としては二つある。一つは九州王朝が正方位をとっていた時代に、これと独自路線をとって西偏にしていた近畿天皇家の領域でつくられた、国府に付属した寺院である場合。もう一つは、近畿王朝の時代になってからできた寺院で、中央権力ではなく地方勢力が主体となって作られた寺院の場合。ここも区別するカギは、瓦の形式と伽藍形式だ。前者なら7世紀初頭から後半の時期。後者なら8世紀だ。当然流行した瓦の形式も伽藍の形式も異なる。 【西偏のもの:8/23】

 伽藍は8世紀の近畿王朝時代になると、塔が金堂のある内郭ではなくてその外側に建てられる傾向が強い。それまでは金堂と塔とはともに聖なる建物であったので、内郭につくられた。この違いで時期が区別できる。


 瓦は、最も初期の素弁蓮華文(単弁無子葉蓮華文)軒丸瓦は6世紀末から7世紀前半。次の単弁蓮華文(単弁有子葉蓮華文)軒丸瓦が、7世紀中頃から。さらに次の形式の複弁蓮華文軒丸瓦が7世紀後半から8世紀に。さらに8世紀に入ると、単弁蓮華文軒丸瓦のリバイバルが広がる。ただし前代の物とことなり装飾的で蓮華文の周囲に重圏文などが施される特徴がある。9世紀以後になると蓮華文に代わって巴文が現れる。


 これが軒丸瓦の文様の主な変遷。

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Img_4208

Img_4209

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コメント

間違いがあります。

9:の国分僧寺尼寺の箇所。
 数少ない正方位のもの:九州王朝の正方位の時代につくられたものと、聖武詔に基づいて8世紀中頃につくられたものの二種類がある。その区別をつけるポイントは瓦の形式と伽藍形式。
 東偏のもの:大部分は九州王朝の東偏時代のものだが、少数は、磁気偏角が東偏となった11世紀以後に新たにつくられたものも含まれる。この区別をつけるポイントは瓦の形式と伽藍形式。
 伽藍は8世紀の近畿王朝時代になると、塔が金堂のある内郭ではなくてその外側に建てられる傾向が強い。それまでは金堂と塔とはともに聖なる建物であったので、内郭につくられた。この違いで時期が区別できる。
 瓦は、最も初期の素弁蓮華文(単弁無子葉蓮華文)軒丸瓦は6世紀末から7世紀前半。次の単弁蓮華文(単弁有子葉蓮華文)軒丸瓦が、7世紀中頃から。さらに次の形式の複弁蓮華文軒丸瓦が7世紀後半から8世紀に。さらに8世紀に入ると、単弁蓮華文軒丸瓦のリバイバルが広がる。ただし前代の物とことなり装飾的で蓮華文の周囲に重圏文などが施される特徴がある。9世紀以後になると蓮華文に代わって巴文が現れる。
 これが軒丸瓦の文様の主な変遷。

2:編年のずれに追加

  畿内に比べて、50年とか100年とか年代が後ろにずらされる傾向はいつまで続いたか。
 この大事な問題はまだ確定していないが、太宰府政庁Ⅲ期がⅡ期の焼土層の上に再建されている事実から、Ⅲ期の年代である10世紀中葉との年代は940年の純友の乱に基づいて判断されたものなので実年代と考えられ、10世紀までは年代のずれは及んでいないとみられる。
 また福島県の泉官衙遺跡で、この行方郡衙と見られる遺構とこれに付属した製鉄遺構とみられる金沢地区製鉄遺構は、7世紀中頃(実年代は6世紀中頃)に始まり、10世紀前半で突然終末を迎えている。しかし内陸にある他の官衙群や製鉄遺構は8世紀末頃(実年代は7世紀末頃)に在地勢力のもとで始まって行方郡衙とも密接な関係を保って栄えていたが、この内陸の官衙や製鉄遺構は、太平洋沿岸にある泉官衙遺跡や金沢地区製鉄遺構が10世紀前半に突如消えているのに反して、それ以後も続いている。
 発掘者は其のまとめで、これは貞観地震津波で沿岸部の官衙や製鉄工場が被災して終末を迎えたが、内陸にあった官衙や製鉄工場は被災を免れたのでその後も続いたと解釈している。
 貞観地震津波は869年の出来事である。9世紀後半。
 したがってこの泉官衙終末である10世紀前半というのも実年代の可能性が高く、ここでも10世紀までは年代のずれが及んでいない可能性が高い。
 以上二つの遺構の実態から、年代のずれは9世紀台までなのではないかと考えられる。

なお、瓦や土器を元にした編年が、実年代と50から100年ずらされていることを、他の年代鑑定法で確かめることはできないかという問題だが、今のところ、放射性炭素年代法とのずれでこれが証明される遺構は一つだけである。長野県(信濃国)の明科廃寺。
 この遺跡は出土した素弁蓮華文軒丸瓦の形式から7世紀後半と判断されてきたが、その後の調査で柵列跡と目される穴から出土した炭化物の放射性炭素年代測定による結果は、6世紀中ごろから7世紀前半ごろの年代が推定され、瓦による年代判定と約50年のずれが生じていることが示されている(「安曇野市の埋蔵文化財第12集 明科遺跡群明科廃寺4」2017年安曇野市教育委員会)」。
 元データを転記すれば
 明科廃寺
 放射性炭素測定
 未補正年代  δ13C     補正年代  暦年代
 1490±15  -26.41±0.21  1492±17  543-611
 なおこの明科廃寺の瓦を分析した論文には、この寺の第一期の瓦と同じものは滋賀県衣川廃寺I類に求められ、この瓦の年代は620~ 640年頃に位置づけられている。論文の著者はこの形式の瓦が同様な瓦が出土する寺院や窯跡があることから、「衣川廃寺一杉崎廃寺一明科廃寺一天狗沢窯址(山梨県)」と東山道ルートを使って明科廃寺まで50年ほどかかって伝来したと解釈しているが、この衣川廃寺の年代と先の明科廃寺の柵列跡から出土した炭化物の年代はほぼ一致しているので、滋賀県の衣川廃寺と長野県の明科廃寺とはほぼ同じ時期に同じ技術で作られたことを物語る資料である(「明科廃寺址」2000.3明科町教育委員会)。
 こうして明科廃寺では、放射性炭素測定年代と瓦形式による年代が一致し、従来の瓦による編年が、実年代とは50年ずれていることが明らかとなった稀な例である。
 精査すれば、全国にこのような遺跡は数多くあるものと思われる。
 

川瀬さんへ
コメントとまとめの追加をありがとうございます。

さっそくそれぞれの場所に付け加えます。

肥沼さんへ

 なおして頂いたら9のところで、西偏の場合が抜けてしまっていますね。補っておいてください。

 西偏のもの:可能性としては二つある。一つは九州王朝が正方位をとっていた時代に、これと独自路線をとって西偏にしていた近畿天皇家の領域でつくられた、国府に付属した寺院である場合。もう一つは、近畿王朝の時代になってからできた寺院で、中央権力ではなく地方勢力が主体となって作られた寺院の場合。ここも区別するカギは、瓦の形式と伽藍形式だ。前者なら7世紀初頭から後半の時期。後者なら8世紀だ。当然流行した瓦の形式も伽藍の形式も異なる。

 正方位・東偏のあとに入れておいてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 なおして頂いたら9のところで、西偏の場合が抜けてしまっていますね。補っておいてください。

それはどうもすみませんでした。
さっそく今から入れさせていただきます。

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