泉官衙遺跡の変遷図は,2つの王朝の「栄枯盛衰」を表していたか?
かなり前にこの「夢ブログ」では,泉官衙遺跡(福島県)のことを書き,
「2つの王朝の「栄枯盛衰」を見た」などと不遜な仮説を唱えた。
そろそろ「方位の考古学」に従って,仮説の行方を確認してもいい頃だろう。
この本のP63~5にかけて,「官衙の変遷」と題し,
Ⅰ~Ⅲ期の官衙の年代が書かれている。
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Ⅰ期官衙(7世紀後半~8世紀初頭)
Ⅱ期官衙(8世紀初頭~後半)
Ⅲ期官衙(8世紀後半~9世紀後半)
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これだと,2つの正方位は,両方とも近畿王朝が作ったものということになるだろう。
しかし,私たちの「方位の考古学」では,東北地方は100年後ろにズラされていると考えるので,
100年前に戻すと,以下のようになる。
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Ⅰ期官衙(6世紀後半~7世紀初頭) 九州王朝の東偏
Ⅱ期官衙(7世紀初頭~後半) 九州王朝の正方位 → 白村江の戦いによって敗北。滅亡
Ⅲ期官衙(7世紀後半~8世紀後半) 近畿王朝の正方位 → 律令制の衰え
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私がかつて唱えた仮説,「泉官衙遺跡の変遷図に,2つの王朝の「栄枯盛衰」を見た」は,
「方位の考古学」の審判によれば,合格の判断をいただけることになった。
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※ 全国の遺跡の精査により,東日本では中部地方で50年,関東・東北では100年ズラされていることが分かった。
また,西日本では,中国・四国で50年,九州では100年ズラされていることが分かった。
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