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2019年8月28日 (水)

「方位の考古学」の影響について

「方位の考古学」の影響について考えてみる。

これまで長い間地下に眠っていた遺構の方位の精査によって,

飛鳥から離れた地方での年代比定のズレが明らかになった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

九州(100年)←中国・四国(50年)←飛鳥(±0)→中部(50年)→関東・東北(100年)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とすると,「方位の考古学」が世に認められた場合,

従来の土器編年で書かれていた遺跡の年代比定は,本当の年代とはかなりズレていることになるので,

50年・100年昔にさかのぼって書き直さなければならないということになる。(8世紀→7世紀など)

ということになると,オーバーに言えば,今書店で売っている日本の歴史の本や

現在図書館に収蔵されている日本の歴史の本全部の年代自体が問われてくる!

それでいいですかね?そうしたら,ものすごく大きな影響が出てくる訳ですが・・・。

昨日友人に「方位の考古学」の話をしていたら,

「もしこれが正しいとしたら,どんな影響が出てくるの?」と聞かれ,

そんなことを考えてみた次第です。

Img_3847_20190828003301

藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』(新泉社)に掲載の遺構変遷図。

これが「2つの王朝の「栄枯盛衰」を表している」と認識される日は近い!(といいなあ)

 

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 太宰府遺跡を考えただけでも影響の大きさがわかります。
 太宰府の政庁Ⅰ期は正方位ですが、7世紀末から8世紀初頭と土器や瓦編年で定まりました。その後8世紀初頭から8世紀中頃にかけて大規模に改造され、中国の朝堂院様式のものに。
 この年代は事実上近畿天皇家が列島宗主権を握った時代ですから、日本書紀に太宰府が初出する天智紀の時代に作られその後拡充したという通説になっています。
 またこの年代は太宰府周囲の山城や土塁や水城が白村江の敗戦後に、唐王朝がせめて来ることを想定して強化した結果だとの通説とも(書紀に依拠した)適合しています。
 これが一気に100年上に動くのですから。
 太宰府に関する通説は完全に崩壊します。
 朝堂院様式で条坊都市の太宰府の出現が7世紀初頭から中ごろになる。日本でもっとも古い条坊都市が太宰府になる。
 そして書紀孝徳紀に記された建設中の都城とは太宰府という結論になる。
 前期難波宮が孝徳の宮との大阪歴史博物館の説にも激震が走る。
 当然この首都と思しき都市を作った権力はどれかが問題になる。通説で考えると孝徳は首都を九州に遷都したということなる。
 しかし彼の死後中大兄によってふたたび飛鳥に都が戻され、その都はずっと規模が小さくて朝堂院様式でもなく条坊もない。
 なんで首都の縮小がなされるのか?
 まさに九州王朝説ではないと理解できないことに。

 また全国の国衙遺跡についても大きく影響します。
 たとえば武蔵国府の政庁ですが、大規模な礎石建物で床に專が敷かれた遺構は、9世紀中頃と編年されています。平安時代。王朝国家が衰微してきた時代にどうして大規模に改造を?と疑問視されていました。
 ところがこれが100年上にずれれば8世紀中頃。聖武朝のころ。
 この時期の大改造ならまったく問題はありませんね。
 こうしたズレは全国にありますから、6世紀から8世紀・9世紀の遺跡の年代が大きくずれますから、通説には深刻な誤りがあることになり、書き改める必要がでてきますね。

 なんといっても大きな影響は九州王朝論を支える結果になっていることです(太宰府が典型のように)。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  なんといっても大きな影響は九州王朝論を支える結果になっていることです(太宰府が典型のように)。

そうですよね。そうであれば,少しは古田さんに「恩返し」ができたことになろうというものです。

追伸

 肥沼さんはご自身の発見のもつ破壊力をほとんど理解していませんね。
 通説の太宰府の年代観がまったく覆されて、近畿一元史観では理解できなくなるだけではありません。肥沼さんが注目した全国的官道と東山道武蔵路の年代も100年繰り上がるのです。
 たしか(記憶で書くと)武蔵路は、道路建設時の祭祀跡から出た土器の編年から、7世紀第三四半期(第四かな?)とされています。これだと白村江の戦いと同時期かあと。
 これを100年上げてみてください。
 6世紀第三四半期(第四かな?)。なんと書紀で言えば推古の時代。隋が中国を統一する直前の時代。こんな時代に全国的道路網ができていた。
 これも近畿一元史観では理解できない。

 さらに古田史学にも激震が走る。
 九州の古代遺跡が100年上に遡るということは、たとえば観世音寺などの九州でも最も古い寺院の年代が6世紀末まで上がってくる。
 九州王朝説にとって6世紀末から7世紀の古代寺院が少ないということが障壁になっているというのが古賀さんの前期難波宮九州王朝副都説の前提の一つ。先にみた太宰府の年代が7世紀末となっていて、北部九州には統一国家に相応しい都がないというのも障壁の一つ。いわゆる九州王朝説に刺さった三本の矢。この内の二本が雲散霧消する(残りは巨大古墳)。
 そして前期難波宮を7世紀中頃とする大阪歴史博物館の見解をそのままにしても、太宰府が6世紀末、さらに条坊都市出現が7世紀初頭から中ごろとなれば、これは前期難波宮よりも古く、そして規模の大きく中国の朝堂院様式をとり、前期難波宮にはない大極殿も持っている。
 この二つの都城のどちらが統一権力の都として相応しいか。論じるまでもなく太宰府だ。
 こうして古賀さんの前期難波宮九州王朝副都説も吹っ飛ぶ。
 ※この太宰府が7世紀後半ではなくて7世紀初頭もしくは6世紀末に遡る可能性は、すでに服部さんが素弁蓮華文軒丸瓦の年代比定の再検討で、太宰府の中心寺院である観世音寺からこの瓦が出ることを示した時点ですでに示唆されていた。古賀さんはこれを「観世音寺の前身寺院」という言い方でごまかしているが。

 方位の考古学はこうした破壊力を秘めているのです。
 したがって肥沼さん。このご自身の提案が受け入れられるとは思わない方が良い。
 古田学派の中では古賀さんらが認めない。受け入れない。
 そして通説派は受け入れない。なぜなら方位の考古学の仮説には前提として九州王朝説があるからだ。
 ただ通説派に受け入れられる可能性はある。
 それはすでに古墳時代の始まりが全国一斉だったのではないかとの認識が広がることを通じて、古墳の広がりが近畿に比べて関東で50年から100年遅れる(西の端も同じ)との認識が間違いであることが指摘されており、これによって土師器や須恵器の編年を組み直さねばいけないという動きが始まっているからです。
 方位の考古学の結論とこの土師器須恵器の編年の組み替えはおそらく同じ結論になります。
 そして服部さんが手を付けた素弁蓮華文軒丸瓦の全国普及は全国同時との仮説も同じ結論にいたります。
 遺跡の方位と、土器の形式変遷と瓦の形式変遷、この三つを根拠にして、古代の(5・6世紀から9世紀)の編年が間違っているとの結論は、近い将来に考古学の通説になる可能性を秘めています。
 だがそれで近畿一元史観という歴史観(=皇国史観)が崩壊するわけではありません。
 この歴史観が生きている背景には、日本の政治構造があるからです。
 天皇制が生き続け、その天皇を絶対的統治権者に復活させたいという有力な政治勢力がある限り、近畿一元史観は生き続けますから。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  肥沼さんはご自身の発見のもつ破壊力をほとんど理解していませんね。
 通説の太宰府の年代観がまったく覆されて、近畿一元史観では理解できなくなるだけではありません。肥沼さんが注目した全国的官道と東山道武蔵路の年代も100年繰り上がるのです。
 たしか(記憶で書くと)武蔵路は、道路建設時の祭祀跡から出た土器の編年から、7世紀第三四半期(第四かな?)とされています。これだと白村江の戦いと同時期かあと。
 これを100年上げてみてください。
 6世紀第三四半期(第四かな?)。なんと書紀で言えば推古の時代。隋が中国を統一する直前の時代。こんな時代に全国的道路網ができていた。
 これも近畿一元史観では理解できない。

そうですよね。自分の刀は,すぐに自分の体にも降り掛ってくる。
7世紀第3四半期 → 6世紀第3四半期ということになりますね。

〉 遺跡の方位と、土器の形式変遷と瓦の形式変遷、この三つを根拠にして、古代の(5・6世紀から9世紀)の編年が間違っているとの結論は、近い将来に考古学の通説になる可能性を秘めています。

それを信じて進んでいくしかないですね。

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