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2019年8月21日 (水)

肥さんの「古代史・三部作」と言えたらいいな

古田武彦氏の古代史・三部作といえば,

『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』だが,

これから肥さんの「古代史・三部昨」と言えたらいいな・・・というのが次の3つである。

今突然心臓が止まってしまうと紹介できなくなるので,予告編も含めてどうぞ!

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(1) 授業プラン「〈邪馬台国〉はどこだ!」(1992年)

古田武彦氏の『ここに古代王朝ありき』と仮説実験授業の方法を合体させ,

授業にかけられるようにしたもの。

4つの考古出土物の中心を,北九州・近畿・その他で予想していく。

自分の担当クラスはもちろん,他の先生方にも授業していただき,

小中学校での授業評価は上々。ぜひお試しを。

 

(2) 古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?(2012年)

古田武彦氏との共同研究会における最大の結論は,700年と701年の間に

ONライン(新旧の王朝の交代)があったことだと理解した私が,

「それなら,全国6300キロに及ぶ官道を作った主体は,当然九州王朝である」と論じたもの。

山田さんが西村さんの「五畿七道の謎」を発展させ,また私の「軍用道路」の観点を生かして下さり,

東山道15国の比定をしてくれたりして,「ブログ上のやり取り」で大いに盛り上がった。

「九州王朝は,駅鈴も作ったか?」(2018年)とともに,

『発見された倭京~太宰府都城と官道』に収録。

 

(3)方位の考古学(2019年のうちにまとめたい)

もともと私は,武蔵国分寺の塔(ほぼ真北)と金堂院の方位が違う(7度西偏)ことが気になっていた。

聖武天皇が出した「国分寺建立の詔」のなかに「国分寺」という言葉が1回も出てこないので,「〈国分寺〉はなかった!」を書いた。

その趣旨は「(これまでの伽藍に)七重塔を加えよ。金泥の経を授けよう」であるとしたのだ。

そして,これに賛同して下さる方々と多元的「国分寺」研究サークルを立ち上げた。(2016年)

武蔵国分寺および武蔵国府を川瀬さん・山田さんと共に研究しているうちに,「どうも建物や街を東偏させているようだ」と気づき,

「4~12世紀には,日本列島の磁北がずっと西偏の時代だったこと」を背景に,

それと逆行するような方位の選択には,政治的な意図があるのではないかと考え,しばらく東偏探しをした。

そして,東偏にした理由として,倭の五王が使いを送った南朝の都の方位がそもそも正方位(建康は東偏)でなかったことをつかみ,

川瀬さんとの9か月の府中研究会での遺跡精査とブログにおける全国の遺跡精査で,それがさらに確信となっていった。

またその途中で,正方位にするための努力(天丘祭祀)があったことを知ることにもなる。中国の天子も苦労したのだ。

その後南朝が滅んで,倭国は蛮人の作った北朝との対立を迫られ,正方位の導入に到る。

(日出ずる処の天子➙日没する処の天子は,「聖徳太子」ではなく,九州王朝の天子から隋の煬帝に送られたものだった)

隋は短期間に滅んだが,唐との対立は避けられず,白村江の戦いを迎えてしまい,滅亡した。

白村江の戦いに協力しなかった近畿王朝は,その後も唐との良好な関係(朝貢的態度)を保ったので,

唐は対新羅との関係悪化もあり,年号の制定や正方位の建物の設置など,日本国内のことについては口を出さなかった。

これは隋が短期で滅んだのに学び,他国に干渉しすぎることよるリスクを配慮したものと思われる。

今その検証のため川瀬さんに助けていただきながら全国の遺跡を精査しているが,

特に福島県の泉官衙遺跡は,九州王朝時代の東偏と正方位・近畿王朝時代の正方位が層となって地下に刻まれており,

「泉官衙遺跡の変遷図に,2つの王朝の〈栄枯盛衰〉を見た!」を書いた。(2018年)

遺跡の精査を行ううち,飛鳥から遠い地方は,東西に50年~100年も年代が後年に押し出されていることも確認し,

これを修正して判断すれば,その遺跡の年代が正しくわかるとと共に,

「国分寺建立の詔」の間違った解釈も改める必要があることがわかる。

そもそも,皆殺しにしたり,文書を焼いたりして,政敵を倒したように思っているが,

建物や街並みにはその時代の政治が「方位」として刻まれており,それらを調べることによって,

本当の歴史が明らかにできると考えるのが,私たちの「方位の考古学」である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【東偏や正方位の変化が良くわかる例】

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泉官衙遺跡(福島県)

九州王朝の東偏・正方位→近畿王朝の正方位

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小郡官衙遺跡(福岡県)小郡屯倉➙孝徳紀の小郡宮か

西偏➙東偏➙正方位

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有田・小田部遺跡(福岡県)孝徳の難波長柄豊崎宮か

3種類の方位が混在している(西偏が豊崎宮)

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東偏していた時代もあった斎宮(三重県)2019・1・5の新聞記事

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【参考資料】

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4~12世紀の日本列島が,磁北で「西偏」だったことの証拠

(岡山理科大学の磁気偏角データベース)

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「東偏5度の寺院・官衙・街並み・・・」

「東偏・僕」と称して,あちこちに東偏遺跡を探した。

その頃は,東偏=九州王朝の証拠と考えていたので(半分は当たっていたと思う)

まだ確認が必要だと思っているが,その数はたくさん増えている。

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中国の南朝の都(建康)は東偏だった(点線のところ)

5世紀に送られた倭の五王の使いは,それを学んできた。

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中国の天子も苦労した➙「天丘祭祀」(人工的に正方位を作る方法)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 方位の考古学。簡潔によくまとめましたね。
 一点だけ気になるところが。
>その間,戦争に協力しなかった近畿王朝は,唐との良好な関係を保ち,正方位の建物の設置も許された模様。

 近畿王朝が正方位の建物群を作ったことは、7世紀後半以後の遺跡として確認できます。これは8世紀以後も国家が強く関与したものは正方位で続いたことも確認できます。
 ただこれが「唐王朝が許した」ということなのだろうか。
 古田史学系の人たちにしばしばみられる言動ですが、唐帝国ってそれほどの実力を有していたのだろうか。
 実際に朝鮮新羅が独自年号を建てたときには介入して辞めさせたが、結局は、新羅が朝鮮半島を統一することを許してしまった。その後は朝鮮に介入していない。朝貢の姿勢をとっているのだからそれで良いという感じ。
 白村江の後も日本に直接介入していない。古田説の唐占領軍という理解は誤りだと思う。
 むしろ滅ぼした百済も、唐に随従するとの条件で再建を許していたのは、新羅との対立が予想され、単独で新羅と戦って勝つ自信がなかったから。しかもこの当時はまだ高句麗も健在だったが、直接対立した高句麗を滅ぼしたあとも、日本に直接介入はしていない。
 むしろ唐帝国は、隋が単独で高句麗と戦って国力を落とし、内戦で滅んだ経験に学び、国外のことは、直接敵対せずに朝貢の姿勢をとっている限り介入しないという態度を堅持したのではないかと思う。

 だから近畿王朝が独自の年号を持ち、都などを正方位にしていたことも、唐に許されたということではなく、日本国が唐の真似をし朝貢してくる限り介入しないということの結果だったと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  むしろ唐帝国は、隋が単独で高句麗と戦って国力を落とし、内戦で滅んだ経験に学び、国外のことは、直接敵対せずに朝貢の姿勢をとっている限り介入しないという態度を堅持したのではないかと思う。

なるほど,それが賢い国の在り方かもしれませんね。

〉  だから近畿王朝が独自の年号を持ち、都などを正方位にしていたことも、唐に許されたということではなく、日本国が唐の真似をし朝貢してくる限り介入しないということの結果だったと思います。

これは現代にも通じることですね。力で従わせようとしても無理。
その国をマネしたくなるような魅力的な国を作ることが第一。

ちょっとその辺を,書き替えてみます。

肥沼さんへ

 私が言いたいことがちゃんと伝わっていないようです。
 独自年号を建てたり、建物を正方位にしたりを許すとか許さないということではなく、唐王朝は日本国のそうした行動を無視したということなのではないでしょうか。
 朝貢の姿勢をとってくれるだけで良いと。
 だから「許された」という語句を使用すること自体が、唐が中華主義に建って周辺諸国を従わせていたという、誤った歴史認識の反映ではないかと。

 「独自年号の使用を許す」とか「正方位の都の建設を許す」とかいう考え方は、中国が中華であるという大義名分から来ることでしょうが、他国から見れば、中国の自国中心主義であり大国主義として見えないわけだ。だからこの中華主義の立場にたった結果が、隋による高句麗討伐と隋滅亡と考えたのではないか。
 だから当初は新羅が独自年号を建てたことに激しく介入したが、新羅が半島を統一し、唐と対抗できる大国になったことで、介入を辞めた。(新羅はその後も独自年号は持たないという妥協的姿勢をとったが)。
 日本国に対する唐の対応は、最初から新羅とは異なったのではないだろうか。
 朝貢の姿勢をとっている限り、独自年号の使用などは無視する。都を正方位にして王自身を天子に擬していることも無視する。
 これは唐が倭国に勝てた理由の一つが、日本国の戦争ボイコットだったことを認識し、将来敵になると思われる新羅の東の大国の日本が、新羅と結びつかずに唐と結んでほしいという願望。こうした理由があったと思います。そして日本国は唐のこの願いを知ってか知らずか、天智紀に明らかなように、唐に遣使をしないのに、新羅には頻繁に遣使をしていた。これは唐としてはイライラしたと思う。
 壬申の乱は、この東アジア情勢の中で、唐と結ぶか新羅と結ぶかという国際政策をめぐる争いでもあったと思います。
 天智ー大友政権は親新羅。大海人は親唐。
 大海人の勝利によって日本国はめでたく親唐政権へと変貌。新羅と日本とが結んで唐と対抗するという悪夢が雲散霧消した瞬間だ。
 だから天武朝以後の近畿王朝・日本国への唐の対応は、朝貢だけしてくれればそれでよいという姿勢になったのだと思う。

 唐も倭国と、そして高句麗と戦ってみて、それなりに打撃も大きかったのだと思います。だから次の敵でもある新羅や日本には、あまり中華主義・大国主義では臨まなかった。

 だから「許された」という語句を使用すること自体が、唐が中華主義に建って周辺諸国を従わせていたという、誤った歴史認識の反映ではないかと言ったのです。
 実態はまったく違うと思います(上に説明したように)。

 もちろんこれは私の認識ですので、肥沼さんが受け入れるか反対するかはご自由です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  だから「許された」という語句を使用すること自体が、唐が中華主義に建って周辺諸国を従わせていたという、誤った歴史認識の反映ではないかと言ったのです。
 実態はまったく違うと思います(上に説明したように)。

「白村江の戦いに協力しなかった近畿王朝は,その後も唐との良好な関係(朝貢的態度)を保ったので,
唐は対新羅との関係悪化もあり,年号の制定や正方位の建物の設置など,日本国内のことについては口を出さなかった。
これは隋が短期で滅んだのに学び,他国に干渉しすぎることよるリスクを配慮したものと思われる。」
というふうに変えてみました。

肥沼さんへ

 「唐が認める」という言葉を使わなくなったことで、間違いはなくなりました。

 ただここまでもともとは書かなくてもよかったのだと思います。
 方位の考古学ですから、全国の遺跡の精査の結果、何が分ったかだけで良かったのです。
●全国遺跡の方位精査でわかったこと。

1:現在の考古学が編年の基準としている飛鳥(大和)地方における正方位の出現は、6世紀末から7世紀初頭であること。これは飛鳥寺で日本書紀によりその造営年代がわかる稀な例である。正方位寺院の出現は九州王朝の指示と考えれば、6世紀末から7世紀初頭出現は全国的現象と思われる(仮定1)。

2:仮定1を基準として全国の古代寺院遺跡と官衙遺跡の方位を精査した結果、飛鳥(大和)地方から東西にはなれれば離れるほど、その遺跡の年代が後ろにずらされていることがあきらかとなった。その程度は
      九州←←中国四国←←畿内(大和)→→中部→→関東・東北
      100年   50年              50年    100年
である。これは畿内で発生した瓦や須恵器が次第に全国に広がったと仮定したからこそ生じた編年のずれと思われる。実際は九州王朝による全国的な一元的な寺院・官衙建設なので、そこで使用された瓦も須恵器も同じ形式のものは全国一律に同時期に使用されたと考えるべきことがあきらかとなった。

3:九州王朝における寺院や官衙を東偏で設計することのはじまりは、九州王朝の中枢である筑前・筑後・豊前の精査から、6世紀中頃であることがあきらかとなった。これは九州年号の始まりの時期と一致し、さらに日本国・天皇号の出現の時期とも一致する。この現象の背景は、朝鮮半島の支配をめぐって半島各国と争い、その宗主権が倭国に有ることを中国南朝に認めさせようと尽力して果たせず、倭国が中国南朝王朝からの自立を図ったということではなかろうか。南朝の都はみな東偏で設計されている。

4:九州王朝における正方位の出現は、飛鳥(大和)で予想された通りの6世紀末から7世紀初頭であった。これで仮定1は正しいことがわかった。これは中国を統一した蛮族出身の王朝隋の出現と正方位の都城洛陽の出現時期と一致している。さらにこれは隋書に記された隋に対抗するかのような国書を倭国王が送った時期とも一致している。これは中国正統王朝である南朝の滅亡と、倭国と同様な蛮族出身の統一王朝ができたことへの対抗措置と思われる。

5:九州王朝における寺院や官衙の方位の変遷は以下のようにまとめられる。
   6世紀中頃まで:西偏(これは方位磁石に従ったもの)
   6世紀中頃以後:東偏(これは中国南朝の設計思想に倣ったもの)
   6世紀末から7世紀初頭:正方位(これは中国隋王朝の設計思想に倣ったもの)
 以上のようにきわめて短期間のうちに、寺院や官衙の設計思想に変化がみられる。

6:全国の寺院や官衙の方位の変遷は、九州王朝中枢域におけるその変遷とほぼ同じである。

7:九州王朝が、西偏⇒東偏⇒正方位と寺院や官衙の設計思想を変化させたなかで、近畿天皇家がこれと異なる動きをしていることが、奈良県(大和)や近畿王朝の畿内地域の古代寺院官衙の方位の精査から明らかとなった。
   6世紀末ごろまで:東偏(これは九州王朝に倣ったもの)
   6世紀末から7世紀後半まで:西偏(あえて方位磁石に従って作った。九州王朝からの独自の動きか)
   7世紀後半から:正方位
   
 この近畿天皇家の西偏時代は、九州王朝が正方位に替えた時代に対応している。ということはあえて近畿天皇家は九州王朝の指示に従わなかったということではないか。近畿天皇家の支配領域において6世紀末から7世紀初頭の正方位の寺院は数えるほどで正方位の官衙はない。
 ちょうどこの時期は、推古朝に始まる対隋・唐独自外交路線をとった時期に照応する。
 そして近畿天皇家がその寺院や官衙を正方位で作り始めた時期は、白村江の敗戦で事実上統一権力を失った九州王朝に代わって、近畿天皇家が事実上の統一王権の位置についた時期に照応する。
 ただし近畿天皇家が統一王権の地位について以後の時期の寺院や官衙だが、かならずしも正方位とは限らないところに特徴がある。すなわち正方位のものと西偏のものとが混在する。
 これは近畿王朝の統合力の弱さを示し、正方位のものは王朝自身が直接関与したもので、西偏のものは現地勢力が建設をおこなったものという性格の違いがあるものと思われる。
 そしてやがて近畿王朝の時期においても、磁石の北が東偏を示すようになる時期(11世紀ごろ以後)以後は、寺院や官衙も東偏となっていったことは、王朝国家の統合力の喪失を示すものであろう。

8:以上の検討結果に従えば、全国の古代寺院・官衙遺構の年代は、その設計思想である方位さえわかれば、九州王朝における方位の変遷と近畿天皇家におけ方位の変遷に照らし合わせれば、その大まかな年代を明らかにできるものと思われる。

9:以上の検討結果に付随して、全国の国分僧寺国分尼寺の問題に言及しておく。
 国分寺僧寺尼寺は、聖武天皇の詔によって作られたと誤解されていたため、その年代は一律に8世紀中頃以後とされてきた。しかし実際に遺構を掘ってみると、古瓦の中には、この時期のはるか以前、7世紀後半にあたる白鳳期の瓦が多数でてくるし、寺院の伽藍配置に置いても全国一律ではなく、さまざまな形式があるとともに、その伽藍の方位も、東大寺などと同様の正方位のものは少なく、多くは東偏や西偏である。
 このなぞは従来説明不能であった。
 だが方位の考古学で明らかになったことを元に考察してみると、国分僧寺尼寺の内で、数少ない正方位のものだけが聖武の詔に基づいて8世紀中頃に中央権力の関与で作られたもので、西偏のものは、この時期に地方勢力の力によって作られたものと解釈できる。そして国分僧寺尼寺の中で多数を占める東偏のものは、まさしく九州王朝が東偏の設計思想を採用した、6世紀中頃から末の時期に、全国一斉に王朝の関与によって作られたものと解釈できる。
 これは聖武詔の精査により、その内実は、すでに国々にあった僧寺に七重の塔を造れと言う命令にすぎなかったという事実とよく照合する。

 以上の事実を示したうえで、各地における方位の変遷がよくわかる遺構をいくつか紹介すれば、方位の考古学の説明になると思います(東は福島の泉官衙遺跡。西は、福岡の小郡官衙遺跡と有田・小田部遺跡。この三つで良いと思います)。
 まだ全国精査が終わったわけではないですが、おそらくこのまとめで良いでしょう。

 あまり余計なことは書かないことです。
 そうそう大前提として、4世紀から11世紀ごろまでは、磁石が示す北は西側に偏している(磁気偏角が西偏である)という自然科学的事実があることは忘れずに。

川瀬さんへ
コメントとまとめをありがとうございます。
例によって,川瀬さんのまとめをアップさせていただきます。

〉  以上の事実を示したうえで、各地における方位の変遷がよくわかる遺構をいくつか紹介すれば、方位の考古学の説明になると思います(東は福島の泉官衙遺跡。西は、福岡の小郡官衙遺跡と有田・小田部遺跡。この三つで良いと思います)。
 まだ全国精査が終わったわけではないですが、おそらくこのまとめで良いでしょう。
 あまり余計なことは書かないことです。
 そうそう大前提として、4世紀から11世紀ごろまでは、磁石が示す北は西側に偏している(磁気偏角が西偏である)という自然科学的事実があることは忘れずに。

どうやら「私の不十分なまとめ」は,「川瀬さんの十分なまとめを引き出す」,
という効果があるようです。(笑)

11月の発表に向けて弾みがつきました。
残りの遺跡の精査も,よろしくお願いいたします。

肥沼さんへ

>どうやら「私の不十分なまとめ」は,「川瀬さんの十分なまとめを引き出す」,という効果があるようです。(笑)

 ご自身のまとめのどこがなぜ不十分なのかわかりますか?
 方位の考古学という新しい方法を気が付いた経過を縷々述べることは大事だ。どうやって気が付いたかという発見の歴史になるからだ。ここは良い。経過だからいろいろ出てくる。
 問題は、方位に注意して古代遺跡を精査したら何がわかったかだ。
 肥沼さんのまとめは、経過を述べるところと、その成果を述べるところとが、同じ文体になっているところに欠点があります。
 経過は様々な紆余曲折と試行錯誤がありますから、その有為転変がわかるためには、縷々多方面にわたって述べなければいけません。その過程で、何を考えたかとかどう感じたかも書くと、発見の臨場感が高まります。経過は情緒的な叙述になっても良いわけです。
 しかし精査の過程とその結果を述べる部分は、これではいけません。
 論理的かつ簡潔に、精査方法とその結果わかったことが提示されなければいけません。ここは科学分析の箇所ですから。
 肥沼さんは、この二つの書き分けができていないのです。
 そのため往々にして、余計なことまで書いてしまって、読者を混乱させる。

 今まで何度となく方位の考古学を話してきても、いまひとつ反応が悪いのは、肥沼さんが経過を述べることと、その分析方法と分析結果を述べることとの、それぞれの意味の違いと文体の違いを認識していなかったので、聞く人に良く伝わらなかったのだと考えます。

なお私のまとめはご自由に使ってください(ただし数点大事なところで欠落と間違いがあるので、別項の方に訂正しておきます)。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  肥沼さんのまとめは、経過を述べるところと、その成果を述べるところとが、同じ文体になっているところに欠点があります。

まず,成果を述べる。
次に,経過を述べる。
その差を,何か(文体など)で付ける。
これから心がけて行きたいと思います。
ご指摘ありがとうございます。

〉なお私のまとめはご自由に使ってください。

お言葉に甘えて,大いに使わせていただきます。
わざわざありがとうございます。

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