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2019年8月23日 (金)

板倉さんの「これからはアマチュア科学者の時代が復活する」を読んで

1988年の『たの授』に掲載された板倉さんの上記の文章が,

アーカイブズとして『たの授』2019年8月号に掲載された。

あの頃は,「自分とは関係ないこと」と思っていたが,

ここ数年まがりなりにも「研究」らしきことをしてみて,

もしかしたら「自分とも関係あること」と思えるようになってきた。

板倉さんの文章から,小見出しを拾ってみる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●新しい学問は素人がつくる

●1900年代は「プロ科学者の時代」というおかしな時代

●アマチュア科学者の仕事は面白い

●これからは再びアマチュア科学者が科学をつくる時代

●今はプロ科学者の最後の時代

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

実はこの文章のもとは,1988年の仮説実験授業研究会の

冬の大会(江の島大会)で講演したものが元になっている。

私もその大会に参加していたようだ。

先ほど書いたように「自分とは関係ないもの」と思っていた内容が,

今は「自分とも関係あること」に到るまで実に30年の時を要したが,

これからは「アマチュア」の良いところ※を生かして,研究を進めて行きたい。

 

※ 誰か(国等)に雇われているわけではないので,テーマを自由に選べたり,

また人数もアマチュアの方がたくさんいるので,ずっと発想が豊かということらしい。

 

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仮説実験授業」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 「これからはアマチュア科学者の時代が復活する」。とても刺激的な標題ですね。
 まあ考えてみれば、昔は、一つの学問だけを専門にする学者よりも、多くの分野に精通した「ハイアマチュア」とでもいうべき博学な人が学者でもたくさんいました。時代は遡るけど、西洋のダビンチ、日本では平賀源内など。著名な人は多い。
 しかし現代は一つの分野だけの専門家が絶対多数を占めており、多分野にわたる人はごく少数。
 たとえば古田さんだって、そもそもは日本思想史の人であって、古代史の専門家じゃない。そういう意味では古代史の通説に囚われない見方ができるし、できたわけだ。
 古田さんは自らが身に着けた実証主義歴史学の方法論を古代史に応用した。応用してみたら、自分でもびっくりする通説に真っ向から反する結論がでてしまった。でも方法論は間違っていないのだから、古田さんは史料を信じて自分で出した結論に従った。
 よく考えたら、古田さんが古代史のアマチュアだったからできたことです。

 最近は学問の世界でも異分野の専門家が協力して一つのテーマを研究する場面が多くなっている。異分野の方が通説に囚われずに自由な発想ができるからだし、分野が異なると方法論や物の見方が異なるから、異分野の交流は刺激的で発展できるからでしょう。
 言い換えればある課題について、それぞれアマチュアである異分野の専門家が一緒に取り組んでみると、専門に囚われない自由な発想での発見や発展があるということ。
 専門分野に閉じこもってますます細分化して全体がわからなくなっているとは、最近の学問への批判です。
 ここを乗り越えるには、アマチュア主義が有効ということかな?

 この論考。読んでみたいのだが。どうやら一冊だけの分売はないようだし、電子書籍版も分売はしないみたいですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  よく考えたら、古田さんが古代史のアマチュアだったからできたことです。

きっとそうなのでしょうね。
プロなら「邪馬台国」という通説を取るところが,
古田さんは「邪馬壹国」が本来ではと気が付いた訳ですから。

〉 最近は学問の世界でも異分野の専門家が協力して一つのテーマを研究する場面が多くなっている。異分野の方が通説に囚われずに自由な発想ができるからだし、分野が異なると方法論や物の見方が異なるから、異分野の交流は刺激的で発展できるからでしょう。
 言い換えればある課題について、それぞれアマチュアである異分野の専門家が一緒に取り組んでみると、専門に囚われない自由な発想での発見や発展があるということ。
 専門分野に閉じこもってますます細分化して全体がわからなくなっているとは、最近の学問への批判です。
 ここを乗り越えるには、アマチュア主義が有効ということかな?

私は1年間水曜日だけ小学校へ教えに行っていたのですが,
それだけでもすごく刺激がありました。
中学校の常識≠小学校の常識だったのでした。
もっとお互いのやり方を交流した方がいいと思いました。

〉 この論考。読んでみたいのだが。
どうやら一冊だけの分売はないようだし、電子書籍版も分売はしないみたいですね。

仮説社では分売もしていますが,私は編集委員をしているので一冊もらっているので,それを送ります。
板倉さんの「アマチュア科学者」の話ももちろんいいですが,
松野さんの「フックの化石」の話もいいですよ。
私たちの「遺構精査」と化石のことがダブります。
考えてみると,化石というのは生物の「遺構」みたいなものですから。

肥沼さんへ

 雑誌を一冊お送りいただけるとのこと。ありがとうございます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

金曜日の午後ポストに入れましたので,
週明けには届くと思います。

肥沼さんへ

 「たのしい授業」届きました。さっそく板倉さんの文を読んでみました。
 アマチュア科学者がとてもすごい研究をやった豊富な事例が示されていて、とても説得力のあるものでした。
 ただ忘れてはいけないことは、「新しい学問は素人がつくる」と言ってもこの素人とは、「他のことについては玄人でも、その分野のことには素人である」人ということです。何も知らない人ではなくて、他の分野では玄人であるというところがミソだと思います。
 「つまり一芸を持っている人が、他の分野に挑んでみると、本人が思いもしないことが起きる。自分の得意芸の技を応用して、全く今までその分野に携わっていた人では考えられないようなことをやってしまう。」そういうことなのだと思います。
 ある意味で異分野の接触、異業種の交流で、突然変異のようにして新しい地平が開かれる。
 素人といっても、まったくの学問的素養のない人ではなく、それなりに自分の専門分野では玄人である人が、異分野に手を出してみると、新しい方法や新しい視点で取り組むので、その分野の玄人がやるのとは大違いの新しい地平が生み出される。そしてその分野では素人でも、他の分野で研究ということをわかっているので、自分の発見を証明したり何かに応用したりと、確実なものに仕上げることができるということです。
 ある分野の玄人ということは、それなりに方法論などをきちんと知っているということ。
 これに素人特有の自由な発想が加わると、鬼に金棒だ。

 もう一つミソなのが、アマチュアとプロとの違い。
 この違いはその能力のレベルではなく、給料をもらっているかいないかだけ。ここが大事。
 給料をもらって学問をするということは、その給料を支払ってくれた人や団体の意向に縛られるということ。自由に、一見何の役にも立たないことに全精力を注ぎこむなんてことは、給与生活者にはできない。大学の教員や企業の研究員は研究の内容や幅にさまざまな制約を掛けられる。仕事としてやらなければいけないことも多いので、自分が好きでやる研究に費やす時間すら自由にはならない。もちろんそれに必要なお金も自由ではない。
 だから精神も体も自由にはならない。
 ここがアマチュアだとほとんど制限がなくなる。金を稼ぐために研究するわけではなく、好きでやる。その研究で金を稼ぐのではなく、他の事ですでにお金を手に入れることができるので、お金の制約もない。そして働く必要のない人ならば、時間もお金もまったく自由だ。
 だから精神も体も自由だ。
 この精神の自由さ、発想の自由さが大事だということですね。

 そして板倉さんの話の大事なもう一つのことは、学問の在り方は時代とともに変わるということ。
 そもそも昔は学問をすることを職業として食べられる人というのはほんのわずかしかいなかった。古代や中世なら、僧侶や役人を養成する学校の教師ぐらいだ。ただ教師専業ではなくて、教師自身が僧侶や役人だから、ある意味で兼業学者。
 兼業ではなくて専業の学者が誕生したのが近代。日本では江戸時代からだ。
 社会が豊かになったので直接生産に携わらない膨大な人々を養えるようになったことと、国民国家が形成され、その国家の統治そのものに、学問とその成果が必要となったからだ。
 だが近代と言っても当初は科学者ではなく、統治のための学。日本では儒学。儒学は哲学であると同時に政治学や経済学・歴史学でもあったから。そして儒学者以外では、医者と数学者が、職業としての学者に加わる。
 科学者が専業学者になる背景には、産業の発展とそのために必要な科学の発展が要請されるようになってから。
 日本では江戸中期以降。医学の必要から本草学という植物学や鉱物学を含んだ博物学が発展し、今日の自然科学が発展してくる。そして幕府や藩は、優秀な本草学者を高給で雇い、領内の資源や特産物の調査を行わせたりし、その結果を経済学に明るい儒学者と協力して、殖産興業政策をとるようになってからだ。
 この傾向が社会を覆ったのが明治以降。19世紀後半以後だ。
 役所も企業も、その仕事の遂行のためにたくさんの専門家を雇った。その中には多数の科学者が含まれる。
 こうして板倉さんの言う「プロの科学者の時代」が始まった。
 ではどうしてこの「プロの科学者の時代」が終わるのだろうか。
 この点については板倉さんはこれからはアマチュア科学者の時代が来るとしか言っておらず、なぜそうなるのかには言及していない。
 語られたことは、プロだけの世界は、玄人の閉じられた空間、言い換えれば同じ利益集団という閉じられた空間になってしまうために、発想の自由さが失われ、研究の自由さもなくなるということだけで、これは異常な時代だとの一言で片づけられている。
 では板倉さんの言うこの未来像をどう歴史的には考えたらよいのか。
 そのヒントが、プロの科学者が生まれた背景が、国民国家の成立と資本主義的私企業の成立に有るという指摘です。特に現代は国家と私企業とが一体化して、国家の政策は有力企業群の利益に益するものに成り果てている。そして私企業というものは利益追求が究極の目的であって、企業の利益にならないことには取り組まない。このため国家や企業に雇われたプロの科学者の研究には、こうした枠がはめられる。
 しかし現代は同時にこのような歴史的社会体制に限界が見えてきた時代でもある。
 資本主義とは強い者(国)が弱い者(国)を収奪して富を不当に奪い、その不当利益を元に成長する社会システムであることが、ますます実証主義的にも明らかになっており、社会が一握りの富裕層と大多数の貧困層にと二分解し、その貧困層が「われわれにも生きる権利を!」と叫んで社会の改革を求める時代でもあるからだ。そして私企業一辺倒の時代が続いた中で、こうしたさまざまな差別だけではなく、環境破壊など、人間社会そのものや地球環境そのものまで破壊しかねない問題も目についてきた。
 でもこうした差別の解消のために如何にするかとか、環境破壊を真に止めるにはどうしたらよいかということは、私企業の利益にはならないから、プロの科学者たちは研究しない。
 したがってこうした社会を支配する利益集団にはとらわれない人々による科学研究の必要性が日々求められている時代にはいっているからだ。そしてこのような課題は国民国家の枠を越え、私企業の枠も超えたグローバルなもの。国家や企業からの自由な研究環境こそが求められている時代。これが現代だ。
 と考えてみると、板倉さんが言った生活のための時間がどんどん少なくなり自由時間が多くなるという社会傾向だけではなく、こうした社会の変化が、アマチュア科学者の時代を求めているということだろうと思います。

 最後にもう一つ大事なことが。これは板倉さんの講演自体ではなくて、このアーカイブスを掲載することを決めた宮地さんの「アマチュア科学者の時代」に書かれていること。
 それは板倉さんの言う科学は、サイエンスではなくて、ナチュラル・フィロソフィーだというところ。
 サイエンスも本来は哲学の一部であった。そして哲学とは、思想そのものを取り上げる学問であり、その中には人間活動である経済も入るし社会国家という政治も入るし、人間の心の表現である芸術活動も入るし、そうした人間活動の全体の歴史も入る。そうした人間全体を考察する学問が哲学だ。
 近代は学問があまりに専門的に細分化しすぎて全体が見えなくなった時代。だから専門家が専門家ではなくなり、問題を解決する方向すら見いだせない時代になった。
 狭い学問分野を越えて社会全体を見渡すことが今は必要な時代だ。
 これを言い換えると哲学の復権。自然科学も社会科学も、そして経済学も政治学も、哲学的な人間全体を考察する視点を持って取り組まないといけない時代になっているということでしょうか。

 長々と書きましたが、とても刺激的な講演でした。
 送って頂きありがとうございます。これから他の論考も読んでみます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ある意味で異分野の接触、異業種の交流で、突然変異のようにして新しい地平が開かれる。

〉  ある分野の玄人ということは、それなりに方法論などをきちんと知っているということ。
 これに素人特有の自由な発想が加わると、鬼に金棒だ。

〉  だから精神も体も自由だ。
 この精神の自由さ、発想の自由さが大事だということですね。 

広く考察していただいて,私が気が付いていなかったことをたくさん教えていただきました。

〉  最後にもう一つ大事なことが。これは板倉さんの講演自体ではなくて、このアーカイブスを掲載することを決めた宮地さんの「アマチュア科学者の時代」に書かれていること。
 それは板倉さんの言う科学は、サイエンスではなくて、ナチュラル・フィロソフィーだというところ。
 サイエンスも本来は哲学の一部であった。そして哲学とは、思想そのものを取り上げる学問であり、その中には人間活動である経済も入るし社会国家という政治も入るし、人間の心の表現である芸術活動も入るし、そうした人間活動の全体の歴史も入る。そうした人間全体を考察する学問が哲学だ。
 近代は学問があまりに専門的に細分化しすぎて全体が見えなくなった時代。だから専門家が専門家ではなくなり、問題を解決する方向すら見いだせない時代になった。
 狭い学問分野を越えて社会全体を見渡すことが今は必要な時代だ。
 これを言い換えると哲学の復権。自然科学も社会科学も、そして経済学も政治学も、哲学的な人間全体を考察する視点を持って取り組まないといけない時代になっているということでしょうか。

宮地さんは,授業書《生物と細胞》を作られた高校理科の先生です。
この授業書は板倉さんの力をあまり借りずに完成させた成功例の1つという評価があり,
シュワンの細胞説の成立過程を授業書化したものです。
そういう人だから,このように広い視野で考えられるのかなと思いました。

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