大宰府政庁の焼土層
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肥沼さんへ
資料のご提示ありがとうございます。
地表にあるⅢ期政庁は焼土層の上に建っており、その南門基壇の穴から菅原道真霊廟の瓦を再利用したものが出土した。したがって焼土層は940年頃の純友の乱によるものと確定。
これならⅢ期政庁が「10世紀中頃再建~12世紀」の年代観は確定ですね。
となると方位の考古学の認識も訂正ですね。
Ⅰ期:6世紀後半から7世紀初頭
このb期:6世紀末から7世紀初頭:正方位の掘立柱政庁。
Ⅱ期:7世紀前半~10世紀中頃
九州王朝盛期に作られた礎石建瓦葺の朝堂院様式の政庁はそのまま近畿王朝に引き継がれた。
そしてこれが純友乱で焼失。
Ⅲ期:10世紀中頃再建~12世紀。
乱後少し建物の配置を変えて再建され、鎌倉時代まで継承。
土器や瓦編年で100年年代がずらされているのは、飛鳥奈良時代が主で、平安時代初期9世紀ぐらいまでと判断できますね。平安時代中ごろ以後は、実年代にほぼ等しいわけだ。
投稿: 川瀬 | 2019年8月 2日 (金) 13:02
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
焼土層が,こんなにはっきり残っているのですね。
先日の数値を訂正しておきます、
投稿: 肥さん | 2019年8月 3日 (土) 05:26
肥沼さんへ
太宰府の編年が100年下げられている証拠がありました。
『古代官衙』のp187.
「築地下位の腐食土層Ⅲからは、1点木簡が出土している。木簡表面には「十月廿日竺志前贄駅寸分留(以下略)」と」
これは筑紫国が分割された持統3年(689)前後から国名表記が一斉に定められた大宝四年(704)年ごろに位置づけられるので、これはつまりⅡ期政庁成立以前だから、この木簡に関わる官衙の主体は付近の北側に存在した可能性がある」
築地の下位の腐食土層から7世紀末から8世紀初の木簡が出土した。ということはこの築地は太宰府政庁のⅡ期の築地ということになり、木簡はⅠ期政庁の時期ということになる。だがⅠ期は政庁地域の建物は少ないので、その北側の未発掘地域に主体があったと考えたわけだ。
だが100年編年がずれれば、この木簡の年代とⅡ期政庁は同時代となり、木簡の上にある築地は、Ⅲ期政庁時
代のものと年代が変化する。
つまりこの木簡が出土した場所は内裏南庭と考えることができて、正殿の後殿と言われているものは内裏南殿。いわゆる宴会などを行う大安殿だ。木簡が出土した築地のすぐ南にはⅡ期政庁と同時期の官衙の総務的役割を果たしたと推定されるSB500Aがある。
つまり贄とは天子に送られるものだから、この正殿の北側の区画が内裏に属するという証拠であり、SB500Aは内裏に送られた贄を整理する役所だということを示す。
この木簡が示す年代、持統3年(689)前後から大宝四年(704)年ごろに、この宮殿に九州王朝天子がいたことを示す史料でもあると思います。
この木簡は遺跡の年代が100年ずれるということを示すと同時に、出土地点が内裏の一部であり、ここが九州王朝の内裏の一部であったことを示す貴重な史料だと思います。
投稿: 川瀬 | 2019年8月 3日 (土) 12:51
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 太宰府の編年が100年下げられている証拠がありました。
おー,それはすごい。
〉 この木簡は遺跡の年代が100年ずれるということを示すと同時に、出土地点が内裏の一部であり、ここが九州王朝の内裏の一部であったことを示す貴重な史料だと思います。
木簡は,「黙」簡ではなく,雄弁に語っていたのですね。
それを読み取れるかどうかが,勝負の分かれ目。
投稿: 肥さん | 2019年8月 4日 (日) 07:47