福岡県の〈官衙遺跡〉の精査結果とまとめ(川瀬さん)
「福岡県の「長いトンネル」を越えると,そこは大分県だった」と川端肥さんは,
この1か月の苦しき日々を振り返っている。
最後に,川瀬さんがまとめを書いて下さったので,精査結果とともにアップしてみる。
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【筑前】
~6世紀半ば・・・鹿部田渕(西),練原(西)
6世紀後半・・・比恵(東),柏原遺跡群柏原M(東),黒山遺跡群(西)
7世紀初頭・・・杷木宮原(西)
7世紀前半・・・尾崎・天神(東)
7世紀半ば・・・
7世紀後半・・・大宰府・政庁Ⅰ(正方位),阿恵Ⅰ(西),那珂遺跡群(東→正方位),井尻B遺跡群(東→正方位),
鴻臚館(北館はやや西。南館はやや東),小郡官衙Ⅰ(東),城田(東),堂原(東),大迫(正方位。砦か),
志波岡本(東),志波桑ノ本(東)
7世紀末葉・・・阿恵Ⅱ(東)小郡官衙Ⅱ(東),有田・小田部(東・正方位・西)西は「孝徳の難波長柄豊崎宮」か,
(7世紀末葉~8世紀中頃)
8世紀初頭・・・大宰府・政庁Ⅱ(正方位),大宰府・条坊(正方位),都地(東),八並(西),内橋坪見(西)
8世紀前半・・・2つの大宰府・客館(正方位),阿恵Ⅲ(東),鴻臚館(北館も南館も,ほぼ正方位),三月田(正方位)
8世紀半ば・・・阿恵Ⅳ(西),小郡官衙Ⅲ(正方位),麦野(西),下遺跡群小倉(東)
8世紀後半・・・吉崎(西),柏原遺跡群柏原M(西),城田(東),井出野(西)「斉明の朝倉橋広庭宮」,
宮野脇(西),八並遺跡群(東)
8世紀末葉・・・
9世紀以降~・・・大宰府・政庁Ⅲ(正方位),湯納(西),清末(西),田村遺跡群(西),野芥(ほぼ正方位),
東入部遺跡群(東),波多江(西),竹戸(西)
※ 才田・・・7~8世紀(東・正方位),11~13世紀(東)
【筑後】
~6世紀半ば・・・
6世紀後半・・・
7世紀初頭・・・
7世紀前半・・・
7世紀半ば・・・筑後国府先行Ⅰ(東)
7世紀後半・・・筑後国府先行Ⅱ(東・正方位),ヘボノ木・南地区(正方位),上岩田西(西)
7世紀末葉・・・筑後国府Ⅰ(正方位),上岩田(東)
8世紀初頭・・・上岩田(正方位),下高橋官衙・正倉院(正方位),下高橋官衙・官衙(東)
8世紀前半・・・上岩田(西)
8世紀半ば・・・道蔵(東),野瀬塚(東・正方位~9世紀中葉),ヘボノ木・中央地区(正方位)
8世紀後半・・・筑後国府Ⅱ(西),道蔵(正方位),ヘボノ木・北地区(東),下高橋馬屋元(西)
8世紀末葉・・・
9世紀以降~・・・筑後国府Ⅲ(10世紀・西),道蔵(西),黒土・新替(正方位)
【豊前】
~6世紀半ば・・・
6世紀後半・・・下唐原伊柳(東)
7世紀初頭・・・
7世紀前半・・・
7世紀半ば・・・豊前国府(Ⅰ期ほぼ正方位),フルトノ(西)
7世紀後半・・・大ノ瀬下大坪Ⅰ期(東),池ノ本(東)
7世紀末葉・・・福原長者原官衙(東),ハカノ本(東)
8世紀初頭・・・
8世紀前半・・・大ノ瀬下大坪Ⅱ・Ⅲ(東)
8世紀半ば・・・大ノ瀬下大坪Ⅳ(西),豊前国府(Ⅱ期わずかに西)
8世紀後半・・・古川西(東)
8世紀末葉・・・
9世紀以降~・・・豊前国府(Ⅲ期わずかに西)
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肥沼さんへ
集計お疲れ様でした。精査結果をまとめてみると、いろいろなことがわかりますね。
※まとめ
1:筑前で見ると、東偏の出現実年代は5世紀後半。豊前も同じ。
正方位の出現実年代は筑前で見ると6世紀後半ないしは6世紀末。この正方位出現時期は、筑後も豊前も同じ。
この地域も編年が100年後ろにずらされていることを確認。さらに太宰府政庁遺跡で、Ⅲ期は焦土層の上に建てられていることから、藤原純友の乱(940年頃)で焼かれたのはⅡ期政庁であり、其の後再建されたことがわかる。Ⅲ期の編年は10世紀中ごろ以後なので、土器や瓦による編年で畿内に比べて100年年代が下げられていたのは、9世紀までだということが確認できる。つまり平安時代の初めごろまで。
※2:筑前の7世紀後半から8世紀中頃、つまり実年代が6世紀後半から7世紀中頃の有田・小田部(東・正方位・西)の中の西偏官衙は、年代からみて、孝徳の難波長柄豊碕宮である可能性が高い。
※3:筑前の8世紀半ば、つまり実年代7世紀半ばに、それ以前の東偏官衙から大規模な正方位官衙へと建て替えられた小郡官衙遺跡は、年代から見て、書紀孝徳紀に見える、小郡屯倉を宮へ建て替えたその宮だと考えられる。
※4:筑前の8世紀後半、実年代は7世紀後半に、それまでの西偏官衙をさらに大規模に改造した井出野遺跡は、その場所と年代から、斉明紀に出てくる朝倉広庭宮と考えられ、その周辺に実年代6世紀後半から7世紀後半にかけて存在し、東偏40°または西偏40度で作られた官衙群(志波岡本(西)・志波桑ノ本(西)・八並遺跡群(西)・宮野脇(西))は、朝倉広庭宮を防衛するために作られた砦群と見られる。
※5:筑前の太宰府遺跡。7世紀後半(実年代6世紀後半)に後の政庁の位地に正方位の官衙群が作られたのが最初で、この時期は周辺の官衙は東偏であった。これが7世紀末(実年代6世紀末)から8世紀第一四半期(実年代7世紀第一四半期)に正方位の掘立柱建物群が建てられ(Ⅰ期)、これが8世紀第一四半期以後(7世紀第一四半期以後)に、正方位で礎石建て瓦葺で中国の朝堂院様式で大極殿を備えたものに建て替えられた(Ⅱ期)。この時期に太宰府条坊も作られ、他の官衙群も正方位に作り変えられた(ただし大部分は掘立柱)。政庁はそのまま正方位の礎石建物群で維持されたが、他の官衙は、8世紀中ごろ以後(実年代7世紀中ごろ以後)は次第に東偏に戻って行き、11世紀になると政庁も官衙もみな東偏へと移行していった。
では大分県の寺院遺跡の精査を続けましょう。
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