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2019年8月28日 (水)

武蔵国分寺の年代比定(ボツ)→ 川瀬さんのものをアップしました

この項は間違っています。参考にしないで下さい。

ただ,私の「方位の考古学」の理解の浅さと

「川瀬さんの論考を引き出した功績」で削除しないでおきます。

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ここで,私たちの多元的「国分寺」研究のスタートとなった

武蔵国分寺の年代比定の話をしておきたい。

この寺院は,福田信夫著『鎮護国家の大伽藍・武蔵国分寺』(新泉社)によると,

大きく3つの時期に変遷が分かれるという。

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第1期(創建期)・・・(741年?)

1a期~区画1の寺院地が定められ,その中心付近に塔を配置する伽藍が計画され,造営に着手した(・・・741年?)

1b期~区画2もしくは区画3で,僧尼寺の創建期および僧尼寺造寺計画の変更期・・・(8世紀中葉)

1c期~区画2もしくは区画3で,造営完了期・・・8世紀後半

1d期~区画2もしくは区画3以後,塔再建に到る間(・・・9世紀前半)

第2期(整備・拡充期)・・・七重塔再建を中心とした9世紀後半

第3期(衰退期)・・・国分寺制度の崩壊とともに区画の意義が失われて,衰退に向かう10世紀,11世紀

3a期~竪穴住居が寺院地内に進出

3b期~竪穴住居が伽藍地内に進出

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これを,関東は100年ズレと考える「方位の考古学」で修正してみよう。すると,こんなことになる。

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第1期(創建期)・・・(641年?)【九州王朝が武蔵国分寺の原型を創建した。正方位】

1a期~区画1の寺院地が定められ,その中心付近に塔を配置する伽藍が計画され,造営に着手した・・・(641年?)

1b期~区画2もしくは区画3で,僧尼寺の創建期および僧尼寺造寺計画の変更期・・・(7世紀中葉)

1c期~区画2もしくは区画3で,造営完了期・・・7世紀後半 【白村江の戦い】 【近畿に協力した地元豪族の力による造営?。7度西偏】

1d期~区画2もしくは区画3以後,塔再建に到る間(・・・8世紀前半)【近畿王朝の時代となる】

 

第2期(整備・拡充期)・・・七重塔再建を中心とした8世紀後半 【741年の「聖武詔」に対応した七重塔の造営?正方位】

            ※ 845年,壬生吉志福正が塔の再建を申し出て許される。『続日本後紀』 

 

第3期(衰退期)・・・国分寺制度の崩壊とともに区画の意義が失われて,衰退に向かう9世紀,10世紀,11世紀

3a期~竪穴住居が寺院地内に進出

3b期~竪穴住居が伽藍地内に進出

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こんなかんじになるでしょうか。

年代を100年遡るということは,九州王朝の時代だということで,

国府や「国分寺」を造営できるのは,九州王朝なのだということです。

Img_4259

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コメント

肥沼さんへ

 国分寺の年代は聖武詔を元に作られている。武蔵国分寺はその典型例。
 その年代を100年古い時代に移したところで、これは意味がありません。肥沼さんが考古学の年代比定の根本を全く分かっていないことが、これで明確になりましたね。
私は先に示した方位の考古学のまとめの9で国分寺を論じましたが、その際に国分寺の通説の年代を100年とか50年ずらす方法ではなく、その方位と瓦形式と伽藍形式で新たな年代比定案を示しました。
 肥沼さんはこのことの意味すら理解していないことがわかりました。


1: 武蔵国分寺は741年の聖武詔を起点として編年されている。 
2: 塔1に焼土が見られたことから、この塔が焼けたのは史書にみる9世紀前半と比定。
 武蔵国分寺の年代比定は、瓦や土器を元にしたものではありません。この二つを基本として、この年代観に合うように土器や瓦の編年さえ動かしている。
 しかし聖武詔は、既存の国府付属僧寺に七重塔を建てろとの命令なので、七重塔の年代比定に使てても国分寺自体には使えない。
 そして2の塔1の焼土層そのものが、9世紀前半のものとの根拠もない。史書に書かれていない時期に焼けた可能性すらある。現に金堂が焼けたとの記事はないのに、金堂基壇から焼土や破壊された塑像破片が出ているのです。

追伸
 2018年の11月14日の府中研究会において、武蔵国分寺出土瓦の精査結果の報告をしました。
 これが現在の私の認識で。遺構と出土瓦を基本にして、年代と変遷を出しています。すでにこの時期にも瓦や土器編年が100年動かされていると想定していましたが、これにはよらず、遺構と瓦だけで考えてみたものです。
 偶然ですが、最初の正方位の伽藍は、なんと通説を100年遡らせたものとほぼ同じです。
 ただし出土した素朴な素弁蓮華文軒丸瓦の年代から、建てられたのは7世紀前半です。
 しかしそれ以後の展開は全く異なります。

 ※武蔵国分寺瓦分析の報告
武蔵国分寺の軒丸瓦について

 ただしくは、金堂の基壇の中と、第二次講堂の基壇の中から軒丸瓦が出土していることを確認したということです。
 金堂は火災で被害を受けたあと補修したあとはありますが、これは作り直されていない。その基壇の中から出た軒丸瓦は、金堂ができる前にあった伽藍の建物の屋根を葺いていたもの。そして金堂より前にあった建物は、正方位で建てられた塔1と他に幾つかあったかもしれない創建伽藍の建物です。
 金堂の基壇から出た軒丸瓦が現在国分寺の創建瓦とされている(素弁蓮華文軒丸瓦)。
 そして金堂と同時に作られた講堂は、後の時代に作り直され、基壇の大きさを広げ、建物を金堂と同規模に改造されている。この時の基壇を第二次基壇とよび、ここから平城京系の素弁蓮華文軒丸瓦が出ている。この改造の時期は確定していないが、第二次基壇に穴を掘り、板でかこっった中に中国宋時代の銭などを入れてあることから、これは基壇を作ったときのまじないで、時代は鎌倉時代と考えることも可能だ。
 つまりここから金堂や第一次講堂の屋根に乗っていた瓦は平城京系の素弁蓮華文軒丸瓦だと判断されるわけだ。この瓦は学者の研究で750年代の後半に平城京で使われていたものなので、金堂や講堂などの主要建物は、この時期に完成したと判断されているわけだ。
 以上は従来の研究で明らかになっていること。
 しかしこうなると、金堂などより前に作られていた塔1などはいつ作られたかが問題になるわけだが、
従来説では743年の聖武の「国分寺建立詔」の実態が、七重塔を造れと言うものだったことに依拠して、まず740年代に塔が正方位で建てられたが、正方位で伽藍を建てることは何故か中止され、そのご750年代になって塔の西側数百メートル離れた位置に、北から西に約7度傾いた軸で金堂などの主要伽藍が作られたと判断されていた。
 だが塔1を中心とする創建伽藍の屋根を葺いた瓦がみな素弁蓮華文であることは、塔1などの創建伽藍の年代比定に変更を迫っている。
 服部さんによる素弁蓮華文軒丸瓦の編年の再検討によって素弁蓮華文は6世紀末から7世紀中ごろの限られた時期の瓦であって従来説のように都から遠方の地域は50年~100年出現時期が遅れるとの考え方は間違いで、全国一律に素弁蓮華文軒丸瓦は6世紀末から7世紀中頃とすべきであるとされた。
 この考えに立てば、塔1などの創建伽藍は6世紀末から7世紀中ごろの時代に建てられたとなる。聖武詔より約100年前のことだ。
 そして塔1を中心として寺院遺跡の各所から、創建瓦とされている素弁蓮華文軒丸瓦よりも意匠の形がより原始的な素弁蓮華文軒丸瓦も出土しており、これは飛鳥時代の寺院を検討した石田氏の著書の中では7世紀前半とされている坂田寺の瓦と酷似している。つまりこれが塔1などの創建伽藍に最初に葺かれた瓦ではなかったか。

 そして金堂など主要伽藍が建てられたときに存在していた塔1の屋根を葺いていた瓦と同じものが破片となって金堂基壇の中にあったということは、塔1以外にも正方位の伽藍がすでに完成していて、それが何らかの理由で廃棄されたために、金堂基壇を作る際の粘土や黒土の中に紛れ込んだと判断できるのだ。
 さらに塔1からは金堂など主要伽藍と同じ平城京系素弁蓮華文も多数出土し、さらに一度火災を受けて損傷した塔を、基壇を2m張り出して拡大し、塔心礎以外の礎石は下に焼けた瓦などを差し込んで少し上に持ち上げて再建されたことがわかっている。従来説はこの火災を平安時代に「神火」で焼けたとの記事に符合するとしているが、塔1の西側には同規模の塔2基壇が発見され、この基壇の中から9世紀の須恵器が見いだされ、さらに塔2周辺からはここのみしか出土しない軒丸瓦、蓮華文の中心が巴文様となった平安時代特有の瓦も見つかっている。
 この塔2の状況から、平安時代の「神火」で焼けたあと再建されたのは塔1ではなくて塔2であり、塔1はこの「神火」で焼けたあとは再建されなかったということになる。
 したがって塔1から見つかった火災のあとは、平安時代のものではない。

 以上を総合して再検討すると国分寺の歴史はこうなる。
 1:6世紀末から7世紀中ごろの時期に塔1を中心として正方位の伽藍が創建された。この伽藍は最初はとても原始的な素弁蓮華文軒丸瓦などで葺かれていたが、次にとても均整のとれた美しい素弁蓮華文軒丸瓦に一度葺き替えられた。その後おそらく火災で塔1を残して焼失。

 2:743年に聖武詔で七重塔を建てることになった際に、焼損したが焼け残った塔1を解体して塔基壇を拡大して七重塔として再建した。そして火災で焼けた創建伽藍の遺構を避けて(理由は不明)、その西側に西偏7度の軸で金堂などの主要伽藍を作った。このとき塔1も金堂なども平城京系の素弁蓮華文軒丸瓦などで葺かれ、創建伽藍の区画溝を利用して、現在確認されている国分寺ができた。これが750年代のこと。

 3:平安時代に「神火」で塔1が焼失したので、新たにその西に同規模で塔2を「再建」した。この際に屋根に葺かれたのは蓮華文の中心が巴文の瓦。

 4:その後鎌倉幕府滅亡に伴う戦乱で国分寺全体が焼損したことに伴い、伽藍の修繕が行われたが、その際に講堂は解体され、基壇も拡大して金堂と同規模のものに再建された(このときの瓦は不明)。

 と、このようになるのではないかと考えられます。
 塔1を中心とした創建伽藍は、あちこちの区画溝や建物の基壇の下の掘り込み地業、さらに参道遺構などとして残されていますが、金堂や講堂などの主要伽藍の場所は未発掘であり、主要伽藍を区画する溝の場所も未発掘なので、その全貌が明らかではないのだと思います。
 現在残された遺構をもとに創建伽藍を復元してみましたが、結論を言うと、伽藍は四天王寺式の伽藍であり、塔1の南に武蔵国府の国庁もあったと考えられます。

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