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2019年8月30日 (金)

そろそろ原稿の提出期限【8/31小改訂】

11月9日(土)~10日(日)に「古代史セミナー」が行われる。

そこで私は1日目の夜に「方位の考古学」の説明を10分程度することになっている。

たとえ10分,されど10分。原稿も冊子に入れてもらえるらしい。

ということは,あと2週間でそれを用意することが必要だ。

ごちゃごちゃ説明するより,シンプル・イズ・ベスト。

こんな感じで1ページ目を埋め,あとは資料と解説文にしようかと考えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1) 2016年にスタートした多元的「国分寺」研究と並行して,その延長として武蔵国府の研究を行っていた。

すると,磁北が西偏の古代(450〜1150年)=700年間の中で,

明らかに「東偏→正方位」とする政策がとれらていることを見出した。

この時代日本列島の主権者は九州王朝であり,倭の五王が使いを送ったのも彼ら(隋書タイ国伝)。調べてみたら南朝の都も東偏だった。

 

(2)そこで,武蔵国府の方位が「東偏→正方位」となっているのを確認した後,全国の古代遺跡を精査すべく,奈良文化財研究所のデータベースに立ち向かった。そして,1000件を超える精査の中で,2つの大きな流れを確認することが出来た。

 

(3)九州王朝における寺院や官衙の方位の変遷は以下のようにまとめられる。

   ★6世紀中頃まで:西偏(これは方位磁石に従ったもの)

   ★6世紀中頃以後:東偏(これは中国南朝の設計思想に倣ったもの)

   ★6世紀末から7世紀初頭:正方位(これは中国隋王朝の設計思想に倣ったもの)

  ※ 九州王朝における方位の変遷がよくわかる遺跡として「小郡官衙」遺跡がある。資料に付けるので,参照のこと。

 以上のようにきわめて短期間のうちに、寺院や官衙の設計思想に変化がみられる。全国の寺院や官衙の方位の変遷は、九州王朝中枢域におけるその変遷とほぼ同じである。

また,九州王朝が、西偏⇒東偏⇒正方位と寺院や官衙の設計思想を変化させたなかで、近畿天皇家がこれと異なる動きをしていることが、奈良県(大和)や近畿王朝の畿内地域の古代寺院官衙の方位の精査から明らかとなった。

   ☆6世紀末ごろまで:東偏(これは九州王朝に倣ったもの)

   ☆6世紀末から7世紀後半まで:西偏(あえて方位磁石に従って作った。九州王朝からの独自の動きか)

   ☆7世紀後半から:正方位

そして,精査する中で,九州←←中国四国←←畿内(大和)→→中部→→関東・東北

                  100年   50年       50年    100年

のように,編年がずらされているのを確認することが出来たのであった。(実年代はその分を遡らせてやる。

ただし,国分寺は「聖武天皇の〈国分寺建立の詔〉」に縛られいるので,別の方法で)

 

(4)泉官衙遺跡の遺構変遷図は,2つの王朝の「栄枯盛衰」を表しているのではないか?

精査の途中で,私たちは不思議な遺跡と出会うことになる。

藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』(新泉社)である。

この遺跡は,「7世紀後半に東偏でスタート」しているのだが,東北なので100年引くと,6世紀後半。

「8世紀初頭に正方位に切り替える」のだが,それも7世紀初頭に。(その後,九州王朝の滅亡に伴って廃絶)

「8世紀後半(→7世紀後半)にはサイズアップした近畿王朝の正方位が登場」するも,律令制の衰退に伴って廃絶。

これらが,1つの遺跡の遺構変遷図に刻まれ,現在に伝わっているとは,本当に奇跡というしかない。

 

(5) 私たちは,相手の勢力を皆殺しにしたり,関連書物を焼いたりすれば,完全犯罪が出来たと思いがちである。

しかし,遺構の方位は地下に残され,辛抱強く本当の歴史が明らかにされるのを待っているのではないか。

私たちは「方位の考古学」を進めるなかで,何回も「遺跡は嘘をつかない」と言い合ったものだった。

 

(6) もしこの「方位の考古学」が認めると,大きな影響をもたらすことになる。現に私もその一人なのだが,

これまで編年で時代を表してきたものは,当然変更を迫られるのだ。場合によっては,それを作った勢力の変更も。

私の場合は,東山道武蔵路の年代を,従来の7世紀第3四半期との土器編年に従っていたが,これが6世紀第3四半期に

変るので「白村江の戦い直前」から,「台頭する北周や隋に対抗して」というように変更させられた。(この方がリアルだ)

そして,同様に太宰府についても,従来は書記の記述や土器編年に従って7世紀末に編年されていたが,

これが,「100年遡って6世紀末に太宰府が成立」となるわけとしたら,通説の崩壊も起こらざるを得ない。

等々いろいろなことが起きてきますが,「論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれが,いかなる所に到ろうとも」(ソクラテス)です。

ぜひ,「方位の考古学」への御支持やご声援をいただければと思います。

(川瀬健一さんには,共同研究者として苦労のかけ通しで,本当にお詫びとお礼と感謝の気持ちでいっぱいです)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 ざっと読んだだけですが簡潔に分りやすくまとまっていると思います。

 3の九州王朝における方位変遷がよくわかる遺跡として「小郡官衙」遺跡をあげておくと良いと思います(もちろん変遷図も資料として掲載する)。

 6の所の東山道武蔵路の年代を、従来は7世紀第三四半期との編年に従っていたが、これが6世紀第三四半期にかわるので・・・と説明しておいた方が良いと思います。
 同様に太宰府についても従来は書紀記述や土器編年に従って7世紀末に編年されていたが・・・と説明した方が良いです(ちなみに後半ではないです。従来編年は7世紀末→6世紀末)。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

これから指示していただいた3つのことを修正します。

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