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2019年8月10日 (土)

飯能・日高サークル 8/10

本日は,上記のサークルに参加してきた。

参加者は,丸屋さんと柴崎さんと私の3人。

私の「方位の考古学」の話の後,

柴崎さんがこの日(8月10日)のために作ったという

「エクアドルについての授業プラン」をやった。

なかなか凝ったものだった。

お父様も同じ高校生物の先生だったそうだが,

前回の井上円了(妖怪博士)といい,今回の世界の国旗関係といい,

素晴らしい才能の持ち主と私は思った。

「ガリ本を送って下さい」とのことなので,

喜んで送らせてもらいたい。(もちろん無料でね)

例会後は,居酒屋で懇親会を行った。

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仮説実験授業」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 飯能・日高サークルの方々の「方位の考古学」への反応は如何でしょうか。仮説の人たち?だから、古田史学系の人よりも頭が柔らかいと思うのですが。
 専門外の方が、冷静に話を聞けるしね(自分が歴史を知っていると自負している人ほど、「方位の考古学」のような斬新な仮説を受け入れるのは難しいと思うのです。私の日本書紀の読み方「主語有無の論証」もそうだと思うのです。古代史を知っていると自負している人たちはほとんど拒絶反応ですね。肥沼さんだけです。素直におもしろい!すごい!と言ってくれた古代史関係者は。斬新な仮説は、自分が理解していると思い込んでいる知識の根本を否定する側面が強いからです)。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

飯能・日高サークルと社会科サークルでは,
大変よく古田説の話はしているので,
興味を持ってくれています。
あと,土器編年と方位との100年のギャップが,
すっきり説明できるといいと思います。
絵とかがあると分かりやすいのかもしれません。

肥沼さんへ

 やはり物事を科学的に考えることを習慣として持っている人たちの反応は違いますね。

>土器編年と方位との100年のギャップが,すっきり説明できるといいと思います。 絵とかがあると分かりやすいのかもしれません。

 今回福岡で見つけた、太宰府遺跡と小郡官衙遺跡、そして遺跡名を忘れましたが、私が孝徳の難波長柄豊碕宮だとした遺跡、この三つの遺跡が土器編年と方位とのギャップを明確にし、かつ方位の考古学に基づいて編年を100年上に動かすと、文献記述とも見事に一致することを示す例だと思います。
 この三つの遺跡の図面と通説での編年が良い資料になると思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  今回福岡で見つけた、太宰府遺跡と小郡官衙遺跡、そして遺跡名を忘れましたが、私が孝徳の難波長柄豊碕宮だとした遺跡、この三つの遺跡が土器編年と方位とのギャップを明確にし、かつ方位の考古学に基づいて編年を100年上に動かすと、文献記述とも見事に一致することを示す例だと思います。
 この三つの遺跡の図面と通説での編年が良い資料になると思います。

有田・小田部(有田) (7世紀後半~10世紀前半?)のことですね。
さっそく準備して,提示できるようにしたいと思います。

追伸

>土器編年と方位との100年のギャップが,すっきり説明できるといいと思います。
 これは無理だと思うな。簡単に説明するのは無理だ。
 一つの説明方法としては、
1:奈良県と福岡県(もしくは関東の群馬県)の寺院遺跡や官衙遺跡の方位の傾向分析を比較すること。
 a:この際に注意することは、現在の考古学では奈良県が年代決定の基準になっているということ。
2:方位の考古学で絶対年代が明らかにできるのは正方位の出現時期だけ。
 b:これは、中国で正方位の都の出現が隋の統一と洛陽城建設にあり、6世紀末であることと、奈良県の6世紀末の正方位の寺院・飛鳥寺は日本書紀で造立年代があきらかであることによる。

3:正方位の出現時期を比べてみれば、奈良県は6世紀末~7世紀初頭だけど、福岡県や群馬県は7世紀末から8世紀初頭となっている。

 この事実が土器編年(瓦編年)と方位の考古学とが100年のギャップがある証拠です。
 
そしてこのギャプから、現在の考古学では、奈良県=大和国=大和朝廷の根拠地で生まれた文化が地方に波及するには一定の時間差があるという考え方に基づいて、土器や瓦の編年がなされていることが背景にあると考えます。
 そしてこの年代決定の背景の考え方は、考古学の発掘報告書などに散見されます。

 という風に説明するしかないとおもいますよ。
方位の考古学は、a/bの事実と、c:4世紀から11世紀ぐらいの日本列島は磁気偏角(真北から磁石の北がずれる角度)が西偏の時代であるという、自然科学的事実にもとづいています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  という風に説明するしかないとおもいますよ。
方位の考古学は、a/bの事実と、c:4世紀から11世紀ぐらいの日本列島は磁気偏角(真北から磁石の北がずれる角度)が西偏の時代であるという、自然科学的事実にもとづいています。

う~ん,何かうまい方法はないでしょうか。
例えば,磁気偏角が「自然科学的事実」であるならば,
放射性炭素測定法や年輪年代決定法と組ませるとかできないものでしょうか?

肥沼さんへ

>放射性炭素測定法や年輪年代決定法と組ませるとかできないものでしょうか?

 一か所だけ、放射性炭素測定法の検査結果から、土器や瓦で出された年代が50年ほどずれていることが明らかになる遺跡があります。
 長野県(信濃国)の明科廃寺。
 この遺跡は東偏の寺院で、年代は瓦から7世紀後半とされています。
「昭和28年の調査で出土した軒丸瓦は、石田博士により3型式に分類されており、素弁八葉蓮華紋を特徴とする第一型式、素弁十二葉蓮華紋を特徴とする第二型式、非常に稚拙な弧状紋を特徴とする第三型式に分類され、第一型式は白鳳時代後期に、第二型式は奈良時代に、第三型式は平安時代であるとしている。
(「明科廃寺址」2000.3明科町教育委員会)」。
 素弁蓮華文軒丸瓦は6世紀末から7世紀初頭のものと飛鳥では推定されている。これを白鳳時代後期、つまり7世紀後半にしたわけだから、およそ50年は年代を下げられているわけ。
 ところが木柵あとと推定されるピットから出土した炭化物の年代は、かなり違った。
「 ・ピット(ASH15 P1)内採取試料より抽出した炭化材(資料)は、放射性炭素年代測定結果に基づく暦年較正結果を参考とすると、6世紀中ごろから7世紀前半ごろの年代が推定される。明科廃寺はこれまでの発掘調査で出土した須恵器や瓦などの考古学的検討から7世紀後半(7世紀第三四半期)頃の創建と推定されており、今回の試料はこれよりも古い暦年代範囲と言える。
(「安曇野市の埋蔵文化財第12集 明科遺跡群明科廃寺4」2017年安曇野市教育委員会)」
 元データを転記すれば
 明科廃寺
 放射性炭素測定
 未補正年代  δ13C     補正年代  暦年代
 1490±15  -26.41±0.21  1492±17  543-611

 つまり放射性炭素測定法で見ると明科廃寺は、50年から100年前の時期に創建されたと考えられるわけだ。

 今のところ、放射性炭素測定法で、瓦編年が実際と50年はずれていることを示す例はこれだけです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

以前登場した寺院ですね。
全然ないより,確実なものが1つあるのは心強いですね。
他の遺跡でも実施してくれないかなあ。

>全然ないより,確実なものが1つあるのは心強いですね。
他の遺跡でも実施してくれないかなあ。

 すでに実施されているとおもいますよ。最近では放射性炭素による年代測定が、炭化物が見つかった場合にはかならず行われているようですから。
 たとえば太宰府遺跡で、正方位の建物群の出現時期である6世紀末から7世紀第一四半期という時期にあう、放射性炭素測定値はないのだろうか。
 また同じように年代が文献で確かめられる小郡官衙遺跡の正方位官衙が7世紀中頃という私たちの判断に合う放射性炭素測定値はないだろうか。
 具体的に遺跡毎に報告書を精査していくと出てくると思いますよ。

 明科廃寺を見つけたのは、服部さんが素弁蓮華文軒丸瓦の各地域の出現時期を調べていたのを補足する意味で全国調査をしていたときに、長野県で一番古い寺院遺跡は明科廃寺だということを見つけ、そこからは素弁蓮華文軒丸瓦が出ていたので、その報告書をネットで探して見つけたのです。
 遺跡名を特定して、放射性炭素年代測定結果を探せば、きっと多数見つかると思います。

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