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2019年7月27日 (土)

横浜読書会 7/26

昨日は,上記の研究会(清水さん主宰)に行ってきた。
参加者は,9名。
私は「歴史解明のための様々な「武器と歴史観」たち」という
川瀬さんのまとめの文章を資料として持って行った。

なかなか古田史学関係の会でも,「方位の考古学」は理解してもらえないようだ。私の説明が足りないのだろう。

もちろん川瀬さんが直接説明して下さればもっと説得力があるのだろうが,なんかパワーがしぼんできてしまった。

資料発表のあとは,例によって『失われた九州王朝』の読み合い。
(P71の日本書紀の中の「臺」の例のところ)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 御疲れ様でした。
>なかなか古田史学関係の会でも,「方位の考古学」は理解してもらえないようだ。私の説明が足りないのだろう。もちろん川瀬さんが直接説明して下さればもっと説得力があるのだろうが,なんかパワーがしぼんできてしまった。

 肥沼さんの報告に対して(私のまとめを使用したとのことですが)どんな質問や疑問があったのでしょうか。これを教えていただくと「理解されない」理由がわかると思います。
 そしてその質問や疑問に肥沼さんがどう答えられたのかも教えてください。

「失敗」にこすそ「成功」の鉤はありますからね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

4つの遺跡の例をあげたのですが,
泉官衙遺跡のように連続していないので,説得力が弱いのかもしれません。
泉官衙遺跡の図は,横浜読書会で何回か見せています。
横浜読書会に参加した直後に出会った図なので,
あれと比べると「東偏」「西偏」「正方位」は静的な感じがするのかもしれませんし,
また,文系の人にとって,4世紀~9世紀ずっと西偏であったということも
イメージしにくいのかな,と思いました?
さらに,「大宰府で,天壇・地壇が発掘されていますか?」という質問も。
(近畿では,750年頃の例があるらしいです)

質問
>4つの遺跡の例
 とはどの遺跡のことでしょうか。そしてこれにどんな質問が出たのでしょうか。「小郡遺跡」ならば、西偏⇒東偏⇒正方の変遷が見られるはずですが。
 それとも同じ場所の同じ時期に、正方位・東偏・西偏が同時に存在している遺跡かな?

>文系の人にとって,4世紀~9世紀ずっと西偏であったということもイメージしにくいのかな,と思いました?
 これはどういうこと? 磁気偏角ということがよくわからないと言われたのかな?

>「大宰府で,天壇・地壇が発掘されていますか?」という質問も。 (近畿では,750年頃の例があるらしいです)
 これは九州王朝の都が中国の都に倣っていると説明したからこその質問ですね。私の知る限りでは太宰府遺跡ではないとおもいますが、もっと報告書や書物を読んでみないとわからないね。
 それより近畿では750年頃の例ありとは。どこの遺跡の事でしょうか。これは耳よりの情報だと思いますが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 >4つの遺跡の例
 とはどの遺跡のことでしょうか。そしてこれにどんな質問が出たのでしょうか。「小郡遺跡」ならば、西偏⇒東偏⇒正方の変遷が見られるはずですが。

★持って行ったのは,「長門国分寺」「三宅廃寺」「椿市廃寺」「ヘボノ木遺跡」です。
 
〉 それとも同じ場所の同じ時期に、正方位・東偏・西偏が同時に存在している遺跡かな?

★表のようになっていたり,時代を比べられるものがほしそうでした。

>文系の人にとって,4世紀~9世紀ずっと西偏であったということもイメージしにくいのかな,と思いました?
 これはどういうこと? 磁気偏角ということがよくわからないと言われたのかな?

★ そういう人もいると思います。

>「大宰府で,天壇・地壇が発掘されていますか?」という質問も。 (近畿では,750年頃の例があるらしいです)
 これは九州王朝の都が中国の都に倣っていると説明したからこその質問ですね。私の知る限りでは太宰府遺跡ではないとおもいますが、もっと報告書や書物を読んでみないとわからないね。
 それより近畿では750年頃の例ありとは。どこの遺跡の事でしょうか。これは耳よりの情報だと思いますが。

★大墨さんが聞いたことがあるらしいです。

肥沼さんへ

 持って行った図面が間違いでしたね。
 「長門国分寺」(東偏)「三宅廃寺」(東偏)「椿市廃寺」(東偏)「ヘボノ木遺跡」(変遷がわかる)ですが、最初の三つは九州王朝の中心域の寺院が東偏であることを示したかったのかもしれませんが、変遷の有る遺構じゃないので説明できない。「ヘボノ木遺跡」は変遷が見られるが、時代的移り変わりが読み取りにくい。
 持っていくのなら「小郡遺跡」(西偏⇒東偏⇒正方位の変遷がわかり、書紀孝徳紀の小郡屯倉を改造した小郡宮の可能性があって改造の実年代がわかる)、「有田・小田部遺跡」(同じ時代に東偏・正方位・西偏の官衙が併存し、西偏官衙は時代から孝徳の難波長柄豊碕宮に比定できる)の二つじゃなかったかな。そしてもう一つ持っていくのなら「鴻臚館」でしょう。ここも一つの遺跡で西偏⇒東偏⇒正方位(九州王朝時代)⇒正方位(近畿王朝時代)の変遷がよくわかる。
 方位の考古学の方法論とその有効性を説明するのなら、使用する図が違ったということだと思います。
 磁気偏角については、ウィキペディアの当該の項目の資料などを持参し、これに岡山大学の磁気偏角変遷図を合わせて説明すればわかると思いますよ。今だって真北に対して横浜付近なら約7度西偏するわけで、これは国土地理院の地図にもちゃんと説明がついているわけですから、こうした資料をそろえれば、文系の人だって理解できます。
 第一私も肥沼さんも文系ですよ。

 天壇・地壇の件。これは日本の都も中国の都に倣って正方位化されたのではないかとの肥沼説が出てきたとき、最初から私が問題にしたところです(肥沼さんはあまり意識されなかった)。福岡の「福原長者丸遺跡」を東偏5度の遺跡として紹介したときも、その南北に天壇・地壇と思しき高まりがないか、私が探していたでしょ。
 だから当然九州王朝の都が中国に倣って正方位化したと説明し、その最初が太宰府だと言えば、「太宰府にも天壇・地壇は発見されているか」という疑問は当然でてくるわけですね。
 肥沼さんがこの質問を予期していなかったところに問題があると思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 持って行った図面が間違いでしたね。

今度は「小郡官衙」や「鴻臚館」を持って行きたいと思います。

〉 岡山(理科)大学の磁気偏角変遷図

あの図は基礎となる情報なので,カラーで用意したいですね。
(A4判を2枚合わせたA3判で,30円で安くコピーすれば1枚15円です)

〉 肥沼さんはあまり意識されなかった

いや覚えていますよ。ただ,図がはっきり見えない感じでしたよね。
あの時は大宰府の方に気持ちが行っていなかったし。
でも,福原長者原官衙であるとしたら,東偏でも「天壇」「地壇」の祭祀をするということですかね。

肥沼さんへ

 福原長者原遺跡でしたね。
 この宮殿のような神殿のような不思議な遺構。豊前国の京都郡にありますから、九州王朝の都の一つだとは思います。
 九州の歴史の会では、九州王朝を豊前王朝派と筑前王朝派に分けていて、この二つの王統の対立として倭国の歴史を考えています(たとえば筑紫君磐井の乱)。この際に福原長者原遺跡は、豊前王朝派の都として注目されています。
 東偏という政治的な建て方をしているのですから、当然中国の後漢の都以降の考え方、天丘(檀)・地壇思想は継承されていると思いますよ。そうでなければ単なる形の模倣になってしまう。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  東偏という政治的な建て方をしているのですから、当然中国の後漢の都以降の考え方、天丘(檀)・地壇思想は継承されていると思いますよ。そうでなければ単なる形の模倣になってしまう。

そうですね。私は「東偏ばかりに注目している」ように思われてしまっていますが,
考古学を科学的な学問にしていくための切り口なので,強調している訳です。
もちろんその背景には,天丘(檀)・地壇思想があることはわかっています。

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