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2019年7月10日 (水)

いくつかの前提~多元的な考古学を目指して

今川瀬さんと組んで「方位の考古学」の全遺跡精査をしている。

発掘の仕方も昔と違ってスライスでやってくれるようになっていて,

より下層の版築の状態まで知ることができるようになってきている。

ありがたいことである。

それ以外で私たちが前提として考えていることを書いておきたいと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)4世紀~12世紀,日本の古代は「西偏の時代」であったということ(磁北は移動する)

岡山理科大・考古地磁気学データベース

なので,磁石で北をさしても,それは「磁北」で,

東偏または正方位の建物(街並み)にするには意識的にする必要がある。

(統一権力の意志の必要)

 

(2)九州王朝は,5世紀に中国南朝に倭の五王として遣使し,中国南朝の文化を学んでいた。(柵封体制)

その都が,東偏だったこともある。

Photo_20190710091901

 

(3)聖武天皇の「国分寺建立の詔」の中に「国分寺」という言葉は何回出てくるか?

「1回も出てこない」が正解なのだ。一元史観の立場だと,無理やり「国分寺」の代役を考えるが,

多元史観で考えるなら「国分寺はなかった」である。これだけで,歴史が半世紀動く。

つまり,「九州王朝が作った「国寺」の伽藍に,七重塔を付け加えよ」という命令と読み解くのだ。

【国分寺建立の詔・・・「国分寺」はなかった!】

http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage1099.html

 

(4)飛鳥編年にしろ何にしろ,土器や瓦に「製作年」は書いていない。

だから,それをいくら積み上げても,狂いが生じてしまう。

それが数年なら影響も少ないが,50年や100年もだとしたら,編年が「変年」になってしまうのではないか。

 

(5)また,今の考古学は,「国分寺建立の詔」や「編年」をもとにして,それに合わせるように「古」を「考」えている。

つまりひどい言い方をすれば,一元史観のけらいにされていることが少なくない。

考古学が真の誇りを取り戻し,考古学の立場から一元史観に物申すことができるように,

私たちは「方位の考古学」を提唱する次第である。私たちの武器は,「遺構の方位」である。

(ちなみに,武蔵国分寺は,塔がの正方位に対し,金堂院は7°Wである。「それって変では?」と思ったのが最初だ)

(多数発掘されている遺物については,金印と違って分布図を作ることが出来,「遺物の考古学」として有効であると考える。

私はすでに,古田氏の『ここに古代王朝ありき』を参考にして,授業プラン「〈邪馬台国〉はどこだ!」を作っている)

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