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2019年7月21日 (日)

歴史解明のための様々な「武器・歴史観」たち(川瀬さん)

川瀬さんが昨日のコメントで,素晴らしい内容を書いて下さいましたので,

ここにアップさせていただきます。

これまで部分的にしかお伝え出来なかった内容が,総合的に書かれていると思います。

「方位の考古学」に関心がなかった方にも,ぜひご一読下さい。(肥沼)

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肥沼さんへ
>遺跡は嘘をつかない

 その通りですね。でも遺跡を正しく読み解く力を歴史を研究する側が持っているかどうかにかかります。私たちの武器は、
1:4世紀から9世紀の時代は磁気偏角が西偏だから、磁石に添って建物を建てれば西偏になる。東偏にしたり正方位にしたりするのは、何か政治的意図があるに違いない。
 この肥沼さんの「気づき」を基礎に、
2:九州王朝は、建物の方位を、西偏⇒東偏⇒正方位に替えたのではないか
 との仮説を立て
3:東偏も正方位も、どちらの中国王朝の都の方位に倣ったのではないか
 と仮説を立てて、中国の都と日本の古代官衙・寺院遺構を再検討したところにあります。
 建物の方位は従来も注目されていたが、それが政治的意図のもとにあるとの考えは、肥沼さんがはじめて提唱したものと言えましょう。そしてこの仮説を実証したのが、中国の都の設計思想の変遷についての佐川英治氏の歴史的研究、『中国古代都城の設計と思想―円丘祭祀の歴史的展開』(勉誠出版2016年刊)だと思います。

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 この中国都城の研究に後押しされて、まず大和の古代寺院官衙の精査を初め、ここで初めて、
1:正方位の建物は6世紀末の飛鳥寺に始まること
2:その前は東偏で建物は作られていたこと
3:近畿天皇家では一時的に6世紀末に正方位にしたが、すぐさま西偏に戻したこと
4:近畿天皇家では7世紀の末以後はまた正方位に戻していること
 を確認できたので、
 先の、西偏⇒東偏⇒正方位との仮説が実証され、さらに近畿天皇家は6世紀末・7世紀初頭以後は九州王朝からの独自路線をとっていることが建物からも実証され、さらに7世紀末に九州王朝から近畿王朝へと権力が移行したことが建物方位からも実証された。
 これは、前者は、私の書紀推古紀を「主語有無の論証」を武器に読み解いた、推古朝の対隋独自外交論を実証したものですし、後者は従来古田さんとその学派が説いてきた九州王朝から近畿王朝への権力の移行説を実証したものでもありました。

 そして全国の遺跡を精査する中で、先に服部さんが示した素弁蓮華文軒丸瓦は6世紀末から7世紀初頭に一斉に全国に展開したのであって、現在それが近畿を基準にして、東や西に行くほど時代が下げられているのは近畿一元史観の間違いとの提起を、瓦だけではなくて土器でも実際にこうした編年操作が行われている痕跡を見つけ、
 九州地方(100年あと)←中國四国地方(50年あと)←近畿⇒中部地方(50年あと)⇒関東東北地方(100年あと)
 という近畿一元史観による土器・瓦編年の歪みをほぼ摘出した。

 こうした成果を元にしていよいよ九州王朝の中枢を精査したところ、以上の認識をさらに確固としたものとしただけではなく、九州王朝内の動きまで見出すことができたのです。

 考古史料・古代の寺院官衙遺構を読み解く武器・歴史観を私たちがもっていたからこそ、「遺跡は嘘をつかない」ことを実感できたのです。
 そしてこの間、孝徳の難波長柄豊碕宮の発見や、孝徳紀に見られる九州王朝の宮・小郡宮の発見が、私の日本書紀を「主語有無の論証」を使って読み解く方法の正しさをもまた証明しつつあるのだと思います。
 こちらもまた「史料は嘘をつかない」です。
 日本書紀という古代史料を読み解く武器・歴史観を持っていれば、隠された歴史、古田さんが十分には明らかにできなかった列島の古代史の実相を、明らかにできるのだと思います。

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