「方位の考古学」で太宰府を解く
今川瀬さんと「方位の考古学」で太宰府に取り組んでいる。
私は「木を見て森を見ず」の穴にまたしてもハマり,右往左往。
しかし,太宰府には「政庁」ばかりでなく,いろいろな官衙があるし,官人の居住区もある。
たとえ「政庁」だけでは難しくとも,他の官衙の方位は変動の可能性があるわけで,
全部の建物の方から取り掛かるのは,順番が逆だったとようやく気が付いた。
そうしたら少しずつ,当時の筑紫官人の「驚き」や「嘆き」が聞えてくるような気がしてきたのだ。
つまり,中国に対抗して正方位にしちゃって大丈夫なのか・・・という驚きや,
正方位にしたらしたで,また東偏に直すなんて,誰がその費用を出すんだよ・・・など。
「欲しがりません勝つまでは」という80年前の戦争と同じようなことをしている。
(真珠湾を攻撃させるのも,白村江の戦いに似ていると思う。戦えばどちらが勝つか明白)
これらは編年で100年年代を遡らせて考えると,まさしく太宰府の地下に刻まれているのであった。
(私たちは全国の遺跡の精査から,編年が近畿から離れるほどズレていることをつかんだ。
九州や関東・東北では,約100年の編年のズレが生じている。だから, 藤原純友に焼かれたとされる政庁も
次のようなことになる。編年を見直さなければ,歴史は正しく理解できないのだ。
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川瀬さんのコメント・・・定説の編年ではⅢ期が10世中頃以後で純友の乱以後再建されていると学者は驚いているが、
編年が100年下に下げられていると考えれば、Ⅲ期は純友の乱の100年ほど前になるので、
太宰府政庁の消滅が純友乱だという従来説を逆に支持することになると思われます。
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ついでに言うと,741年の聖武天皇の「国分寺建立の詔」。これも歴史理解に何十年もブレーキを掛けていて,
多くの白鳳瓦が出ているにもかかわらず,各国分寺が8世紀半ばからスタートしたとしている。
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一つ間違い。
従来説では純友に焼かれた政庁は、Ⅱ期政庁です。だからⅢ期で再建したと驚いたわけ。
編年を100年動かせば、純友に焼かれた政庁はⅢ期。以後再建されなかったとなる。
投稿: 川瀬 | 2019年7月30日 (火) 12:58
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 従来説では純友に焼かれた政庁は、Ⅱ期政庁です。だからⅢ期で再建したと驚いたわけ。
川瀬さん,コメントが早すぎです。
私も「あれ,おかしいぞ」と思って書き直していたら,その間にコメントが入ってしまいました。
まあ,それだけ川瀬さんのこれにかける思いが強いということで,素晴らしいことですけれど・・・。
投稿: 肥さん | 2019年7月30日 (火) 13:04