現在この辺・・・「方位の考古学」の全遺跡精査
前にも書いたが,川瀬さんと多元的「国分寺」研究のサイトでやっている
「方位の考古学」の全遺跡精査が,九州に入った。
東日本をやった後,山陽道から九州へという流れ。
このまま南下して,あと残った地方をやろうというところまで来ている。
私は「方位の考古学」を思いつきましたというのと,
全遺跡精査の結果「方位の考古学」の考え方でいけることがわかりました!
というのでは,まったく説得力が違う。
もし,「方位の考古学」で行けるとなると,今度は逆に
「国分寺建立の詔」や「編年」が正しくないということになるが,
それはこちらのあずかり知らぬこと。
数が多かった千葉県の遺跡に比べると,その後は「えっ,もう終わり!?」という県も。
チリも積もれば山となるという諺があるが,1日5ヵ所でも,1年で1800ヵ所だものね。
このままいくと秋までには終わるので,11月の古代史セミナーには発表できそうだ。
(図をクリックすると拡大します)
※ ここでいう遺跡は,「奈良文化財研究所」データベースの
〈寺院〉と〈地方官衙〉の主要遺跡ことです。
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肥沼さんへ
すでに福岡県の寺院遺跡をやっていて、7世紀後半(または末)に東偏寺院と正方位寺院が同居していることが確認されています。
つまり肥沼さんが考えたように、この100年前の
7世紀後半から末の時期に、九州王朝が、東偏⇒正方位へ変更した 可能性は極めて高いです。
したがって九州地方の編年は近畿に比べて100年下げられていることもほぼ確かです。九州を全部やって同じ結論なら、「方位の考古学」の仮説はほぼ確定。
投稿: 川瀬 | 2019年7月 5日 (金) 12:42
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 すでに福岡県の寺院遺跡をやっていて、7世紀後半(または末)に東偏寺院と正方位寺院が同居していることが確認されています。
つまり肥沼さんが考えたように、この100年前の
7世紀後半から末の時期に、九州王朝が、東偏⇒正方位へ変更した 可能性は極めて高いです。
したがって九州地方の編年は近畿に比べて100年下げられていることもほぼ確かです。九州を全部やって同じ結論なら、「方位の考古学」の仮説はほぼ確定。
近畿から東方へ。そして,今度は西方へ。
「方位の考古学」の旅を続けてきて,得るものが多かったです。
まだ,「全問正解」の日は少ないですが,それで自分の足りないところもわかります。
今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: 肥さん | 2019年7月 6日 (土) 03:05