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2019年7月28日 (日)

太宰府政庁の付近に九州王朝の「大極殿」と「内裏」があったかも!?

大宰府の精査についての,川瀬さんのコメントを読んでいて驚いた。

実際に政庁遺構を見ると、Ⅱ期で大極殿(報告書では政庁正殿。ここに天子が居するとは通説では考えませんから)の北側に

「内裏」と思しき築地で囲まれた方形区画があり、その東寄りに大極殿とほぼ同じ大きさの建物があります。

最初は掘立柱で建てられ、すぐに礎石建に変更されていますが、これが内裏正殿=天子の居所でしょう。

Photo_20190728213501

何か変ったものが発掘されているなあ・・・とは思ったが,

東偏・朴としては「後で見てみよう」ということに脳が働いた。

それをさらに推し進めれば「金星モノだったの」だったのに,残念さが止まらない。

いや,Ⅰ期の四面廂(4間×11間)もすごい建物だ。

前に話題にした「エビノコ郭」が9間×5間だったと思うが,

数字だけで掛け算すると「44対45」ということで,ほとんど同じ面積と思われるからだ。

私は「Ⅰ期の下に0期の東偏の大宰府政庁を考えている」のだが,

Ⅰ期の時点で九州王朝の正方位の「天子の居場所」がすでに発掘されているのに気が付かなかったのだ。

(府中の遺跡の精査でもう「多磨郡衙」は発掘されているのではないか? 」という仮説を立てて

東偏の多磨評衙を探したことがあったが,その方法が太宰府でも有効だったのか・・・)

考古学は発掘という素晴らしい「武器」を持っていながら,

それに見合う「歴史観」(多元史観)を持っていないと,

いつまでも「見れども見えず」の状態が続くと思った。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 コメントに「大極殿」「内裏正殿」の言葉があることを見逃すなんて!!!
 いかに肥沼さんが「東偏」に目を奪われていたかということの証拠ですね。

 一点訂正です。
 報告書で政庁正殿とされた大極殿の北側の方形区画ですが、ここは内裏の南側の区画で、内裏正殿などのものはこの北側の発掘されていない区画だと思います。前期難波宮や藤原宮、そして平城宮と較べると内裏はこの北側の未発掘区域です。
 そう考えると大極殿の北側の建物は内裏南殿=大安殿(酒宴などを行う場)で、その北東にある大きな建物は何かの事務官所かと。江口桂編『古代官衙』のp185・186はこの遺構の記述があり、この建物の北側の土坑からは大量の木簡が出土しているが、多くは切りくずとのこと。そこで総務的な官衙だとしている。

 肥沼さんはⅠ期の大型四面廂建物を「天子の居所」と即断されていますが、はたしてこれはどうでしょうか。
 この政庁域の北側、大極殿を含む政庁の北側が内裏だとすれば、そこにこそⅠ期の天子の居所はあったかもしれませんよ。今政庁域にある南北棟の四面廂よりもっと大きな東西棟の四面廂が。

 もう一点、正方位のⅠ期の下に東偏の0期太宰府を考えるとのこと。
 私はこの下には何もないと思います。Ⅰ期の正方位の掘立柱建物群が太宰府だとすれば、太宰府というものはそもそも、中国皇帝に代わって天下を統治する役所のことだから、太宰府は最初から正方位だったと思うからです。
 また不丁地区のⅠ期は政庁地区のⅡ期に相当する時期で8世紀の前半にあたるのですが、そこの正方位の建物の下に東偏の南北棟が三棟ありますから、この東偏建物が政庁のⅠ期にあたる7世紀後半から8世紀第一四半期初頭の物だと思います。
 さらに日吉地区のⅡ期が8世紀前半から後半なので政庁のⅡ期と同じだが、Ⅰ期はその前だから7世紀後半から8世紀初頭の政庁Ⅰ期にあたる。ここは実は東偏です。
 つまり7世紀の後半から8世紀初頭、つまり100年ずらして6世紀後半から7世紀初頭の太宰府遺跡は、政庁地区のみ正方位で、他の不丁地区や日吉地区は東偏だった。
 こう考えるので、政庁地区には東偏の0期は無いと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  コメントに「大極殿」「内裏正殿」の言葉があることを見逃すなんて!!!
 いかに肥沼さんが「東偏」に目を奪われていたかということの証拠ですね。

まさか,そんな語句が登場するとは,予想していませんでしたので・・・。

〉 私はこの下には何もないと思います。Ⅰ期の正方位の掘立柱建物群が太宰府だとすれば、太宰府というものはそもそも、中国皇帝に代わって天下を統治する役所のことだから、太宰府は最初から正方位だったと思うからです。

そうも思うのですが,図面を見ていると溝とかがそう見えたりして。

PS ちょっと題名を変えました。

訂正です

 『古代官衙』のp202・203に大宰府政庁のⅠ期建物群についての詳しい記述がありました。これによるとⅠ期の建物群の柱は丁寧に抜かれて、その柱穴はⅡ期の礎石建の建物群の基壇を形成した粘土できちんと埋められていた。このことからⅠ期とⅡ期は建物配置が全く異なるが、Ⅰ期の建物群の機能の発展的解消としてⅡ期の建物群があるのではないかと推定されていました。
 そしてこのⅠ期建物群の中心的存在の四面廂南北棟のSB121ですが、肥沼さんが「天子の居所」とした見解に疑問を呈しましたが、逆に遺構を精査してみると、文字通り「天子の居所」(ただし常の御所ではない)に関連した建物であった可能性が出てきました。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m120177-55196/up.jpg
 奈文研のデータの「政庁遺構」の図を見ているとわかりますが、この四面廂の建物の北には、Ⅱ期の正殿(大極殿)の下から、東西に長い、南廂の東西棟の掘立柱建物SB120があります。この建物の北辺はSA110という柵列と一体なのですが、復元B案としてSB120の北側の一列の柱は柵列と一体となった回廊になっていてそのまま東西に延長されて、建物か回廊に繋がっているのではないかと考えられているようです。ここを覚えて図面を見ますと、SB121の東側に南北向きの二列の柵列SA112があります。この柵列が回廊だと考えると、北側のSB120の回廊につながる可能性があって、結論的には、四面廂建物SB121は回廊に囲まれていて、その北側の回廊には、SB121に面した南向きの大きな廂をもった東西棟があったと考えられます。
 もしかしたらこの東西棟SB120こそ天子が儀式に臨む殿舎で、後の大極殿にあたるのではないか。そして四面廂建物SB121は、この天子が親裁する儀式に参加する貴族たちが集う参集殿だったのかもしれませんね。

 結論的には天子の常の御所である内裏はここではなくて、もう少し北側の場所だと思いますが、四面廂建物とその北側の南廂建物はとても重要な建物であった可能性が高いです。

 追伸:正殿付近遺構図。http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m120177-55196/up-seiden.jpg
 ここで四面廂南北棟SB121のすぐそばにある少し南に傾いた東西溝。これが肥沼さんが政庁の下層に東偏遺構があるのではと考えた根拠ですが、逆にこれは、政庁区域にも東偏建物が現れたⅢ期以降の遺構と考えた方が良いと思います。つまり10世紀中頃以後の遺構と。
 したがって政庁遺構の一番したの遺構はⅠ期の正方位建物群(7世紀後半期⇒6世紀後半期)だと思います。これを丁寧に解体したうえにⅡ期建物群として、基壇をもった礎石建物で大極殿を中心とした朝堂院様式の政庁が建てられ(8世紀第一四半期⇒7世紀第一四半期)、この九州王朝の太宰府政庁がそのまま9世紀後半⇒8世紀後半まで維持された。そしてⅢ期として同じく基壇建物で礎石建の正方位の政庁群が建て替えされた(10世紀中頃⇒9世紀中頃)が、940年から941年の藤原純友の乱で焼失し、二度と正方位の礎石建て建物群は再建されなかった。
 定説の編年ではⅢ期が10世中頃以後で純友の乱以後再建されていると学者は驚いているが、編年が100年下に下げられていると考えれば、Ⅲ期は純友の乱の100年ほど前になるので、太宰府政庁の消滅が純友乱だという従来説を逆に支持することになると思われます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

やはりあの区画は,ものすごい場所なんですね。
今は観光客が「何もない場所」で写真を撮ったりしていますが,
まさに九州王朝の中枢域として,再評価しなければいけない場所です。
それにしても,ちゃんと四面廂も記録してくれていて,
考古学がまた好きになりました。(笑)

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