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2019年7月21日 (日)

道にこだわり,方位にこだわり

「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」によって,

「肥さんは,古代官道に詳しい」と勘違いしてくれる人がいる。

また,最近の「方位の考古学」の提唱という話から,

肥さんは,方位にも詳しい」とまた勘違いしてくれそうである。

しかし,私は「古代官道に詳し」くもなければ,「方位に詳し」くもない。

ただ,目の前に現れた意外な事実(幅12mの直線道路が全国に敷かれていることや

磁石で測れば西偏の時代に,なぜ東偏や正方位の建物・街並み現れるか)に,

古田史学(多元的古代の考え方)を適応させただけのことなのだ。

だから,もし少しでも私に良いところがあったとすれば,

「間違ってもいいから,こだわってみようということで,研究を進める“非常識さ”」かもしれない。

(最近では,「先制攻撃」で“東偏・朴”の肥沼ですから・・・」と自己紹介しているけどね)

私には歴史の知見において,質量ともに欠けている自覚(かっこよく言うと「無知の知」)があるので,

基礎からその分野をやろうとすると,途中で心が折れてしまうことを恐れるのだ。

川瀬さんはじめ先学の方たちからはよく叱られるが,そういうことですのでごめんなさい。

世の中には,そういうことができる人とできない人がいると思うので・・・。

私はこれからも,好奇心を大切にして研究していきたいと思う。

それが自分を最大限に生かす道だと思うので・・・。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

>私はこれからも,好奇心を大切にして研究していきたいと思う。
 好奇心はあらゆることの基礎です。研究を支えるエネルギーは好奇心と言って過言ではない。なにしろ肥沼さんも方位の考古学で遺跡精査をやってわかったとおもいますが、長時間の忍耐が研究には必要ですから。この忍耐を支えるのが「好奇心」。そして新たなことを見つけた「喜び」。

>世の中には,そういうことができる人とできない人がいると思うので・・・。
 ご自身をあまりに「小さく」「無力で」「実力がない」と決めつけすぎています。自分に足りないことが見つかったら、その時こそが「学ぶべき時」です。
 肥沼さんだって、今まで読んだこともなかった、報告書や研究書を、この間どんどん読んでいるではありませんか。遺跡への興味、建物の方位への好奇心に鼓舞されて。
 この報告書や研究書を読むことを通じて、少しずつ「長文読解力」と「図などの空間把握能力」と、「歴史全体に対する基礎知識」が付いてきているのだとおもいますよ。

>私には歴史の知見において,質量ともに欠けている自覚(かっこよく言うと「無知の知」)があるので,基礎からその分野をやろうとすると,途中で心が折れてしまうことを恐れるのだ。
 たぶん肥沼さんには「心理的なトラウマ」があるのだと思います。途中で心が折れた経験をもっているからだろう。
 でも人間は「面白ければ」「好奇心が勝てば」、自分じゃ無理だと思っていたことにもどんどん挑戦し踏み込んでいき、気が付けば、数年前には考えられないほどの地点に自分が立っていることに気が付くと思います。

 これからもあきらめずに「好奇心」を支えにどんどん勉強し研究に励んでください。

※私事ですが、4月から週二回、川崎市立中原図書館に通って、明治時代の新聞に読みふけっています。朝日新聞の明治21年7月(ここから8ページ立ての大きな新聞になった)から読み始め、この前の金曜日で、明治24年2月の分まで読み終わりました。この間での大きな出来事は、憲法の発布と第一回衆議院議員選挙と帝国議会の開会です。新聞紙上で激しく議論が戦わされているさまと、議会での政府と民党とのやりとりのさまを見ていると、人口の1パーセントしか選挙権も被選挙権もない明治の時代の方が、国民の政治意識が高いことと、藩閥絶対政権と呼ばれる明治政府の方も、民党と真面目に向き合っている姿が印象的でした。昨晩はその第一回帝国議会の衆議院の議事録を読みました。曾祖父齋藤修一郎が衆議院本会議で度量衡法案について説明し質疑応答している場面です。新聞でも概略は報道されていましたが、速記録は、議会の熱気をよく伝えていて面白いです。当時の史料を読むことで(速記録=一次史料、新聞=二次史料)、従来の研究書などでの知見よりももっと深い明治の実像が見えてきたと思います。この作業は修一郎が死去した明治43年6月の分までやる予定。あと2年はかかる作業です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 これからもあきらめずに「好奇心」を支えにどんどん勉強し研究に励んでください。

ありがとうございます。これから命とやる気のある限り,頑張っていきたいと思います。
退職前はなかった研究書が書斎にゴロゴロしています。
違う人の部屋みたいです。

〉 新聞紙上で激しく議論が戦わされているさまと、議会での政府と民党とのやりとりのさまを見ていると、人口の1パーセントしか選挙権も被選挙権もない明治の時代の方が、国民の政治意識が高いことと、藩閥絶対政権と呼ばれる明治政府の方も、民党と真面目に向き合っている姿が印象的でした。

私も昨日,「自由民権運動~所沢・東村山の様子」という講演会に出席して,その頃の雰囲気を
知ったので,明治の人々の政治との「近さ」を感じました。2019年の本日は,18歳以上の男女に
選挙権がありますが,まったく政治とは「遠い」です。
五日市憲法もそういう高揚した雰囲気の中で作られたということがよくわかりました。

〉 この作業は修一郎が死去した明治43年6月の分までやる予定。あと2年はかかる作業です。

どひゃー。あと2年も掛かるのですか!すごいなあ。

肥沼さんへ

 2年かかるくらいで驚いていては研究はできません。
 齋藤修一郎研究は2009年に始めましたからすでに10年経っています。私のサイトの齋藤修一郎研究コーナーの諸論文はこの10年の成果。
 http://www4.plala.or.jp/kawa-k/saito.htm
 この後も何年もかかります。学会の事務局長に送った今後の計画を転載します。

★ 11月例会のタイトル。
 「齋藤修一郎と英学②-2:南校・東京第一番中学時代」
 になると思います。
 この時代の学校のありかたと残された学科表や教科書を紹介します。担当教員の略歴も。

 このあと来年のどこかで(2020年)
 「齋藤修一郎と英学②-3:開成学校時代」
 で専門学校(大学)としての学校のありかたと、学科表と教科書・担当教員の略歴など。

 この次に再来年のどこかで(2021年)
 「齋藤修一郎と英学②-まとめ:東京時代で学び取った事」
 で主として彼が読んだ英文の歴史書の検討と英作文の検討を通じて、彼が東京時代に西洋文明の根幹は立憲政治にあると理解したことを示す予定です。

 あとはボストン時代ですね。英学修行の時代としては。「齋藤修一郎と英学③-ボストン時代」(2022・23年)

 ただ今
1:東大に残る「文部省往復」(文部省と大学南校・南校・東京第一番中学・開成学校との往復文書綴り)の明治4年から8年までを全部読んで、当時の学校の実際を確認。

2:明治の新聞を精査。明治21年7月から明治43年6月までの東京朝日新聞を全部読み、当時の政治情勢の実際と、官僚・政治家としての齋藤の関わりの程度を確認。
 現在明治21年7月から24年1月まで読了。
 明治21年10月の帰国(ベルリンから)以後、農商務省官僚として活動しながら、井上馨の右腕として「自治党」結党に向けて動いた姿が確認できました。当面は24年から27年1月までの農商務省官僚(商工局長・次官)としての省務とのかかわりを見て、26年暮れに起きた「金時計事件」(取引所設置に伴う賄賂授受疑惑。1億円。改進党のでっちあげ事件)の詳細を、新聞と併せて帝国議会議事録を精査することで明らかにしようとしています。
 そのあとは27年の金玉均遺体引き取り事件と韓国政府内部顧問時代。
 そして明治30年から33年の帝国党結党と総務委員時代。
 官僚と政治家時代つかみたいと思います。
 新聞を読み込むのに2年。

 此れが終わったら明治13年9月帰国から明治21年7月までの出来事を東京日日新聞で確認しようと思っています。
1が終わったところで、ボストン時代の精査と並行して、外交官としての活動を諸記録から確認したいと思います(明治13年11月から明治21年10月まで。22年春までは条約改正の黒子として活動していたことは書簡からわかります。明治16年四月から8月の在韓国アメリカ公使館時代【英語通訳教育係】としての活動は井上外務卿宛の手紙が全部残っているのでわかります。明治18年から19年の条約改正とのかかわりは大日本外交文書に全部ある。明治19年10月から21年10月までのベルリン時代は、原敬日記と、森鴎外ドイツ日記に詳細に記されている)
 
 それ以後の外交に関する発言は雑誌「太陽」に論文が多数ありますし、彼の最後の著書「日米外交論」を他の人々の日米外交論と比較すれば、その位置づけは明確です。

 ここまでやってようやく評伝を書き始められます。
 英学史学会での報告はボストン時代までとします。

 あと資料を集めないといけないのが、明治30年から33年の帝国党結成と総務委員時代。新聞報道だけではなく帝国党機関紙を見つけないと。そして書簡も。そして明治36年から40年の皇国植民会社時代とブラジル移民関係の資料。
 順次手を付けて行こうと思います。

 あと5・6年かかるでしょうね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  2年かかるくらいで驚いていては研究はできません。
 齋藤修一郎研究は2009年に始めましたからすでに10年経っています。私のサイトの齋藤修一郎研究コーナーの諸論文はこの10年の成果。
 http://www4.plala.or.jp/kawa-k/saito.htm
 この後も何年もかかります。

本当に川瀬さんの研究の仕方を伺っていると,スケールの大きさに驚かされます。
私は「座右の銘」として,「川瀬さんには及びもせぬが,せめてなりたや〇〇に」というのを持っています。〇〇に誰の名前を入れるかは省略させていただきますが,なかなかいいと思っています。
ありがとうございます。

私は多元的「国分寺」研究をスタートされる時に,この研究は10年以上かかるかもしれない。
でも,現役時代は仮説実験授業をやれるところまでやり,退職後は切り替えて,古田史学に
貢献できる研究に時間を割こうと思っていました。しかし,川瀬さんのお陰で急速に研究が進み,
当初考えていた「国分寺の分類」で九州王朝の実在を浮かび上がらせるということをこえて,
九州王朝の行った政治のやり方やその実態にまでに近づけたこと,予想以上の収穫でした。
今後ともよろしくお願いいたします。

川瀬さんの研究計画を伺っていて,仮説実験授業研究会の重弘忠晴さんのことを思い浮かべました。
というのも,重弘さん(もと小学校の先生。現在70代前半)は「板倉聖宣とその時代」という題名で,
仮説実験授業を生み出した板倉さんのことを研究しており,やまねこラウンジ講座というのを
仮説社で14回続けています。7月12日(金)は「旧制高校時代4「幸福論」」という回でした。
その何回か前の会で,古田さんと板倉さんが同じ先生に(岡田甫さん)に広島と松本で習っていた
という話も出て,私はその回に出ていらした荒川康夫さんから伺い,「夢ブログ」にも書きました。
幕末・明治時代の外国人たちの交流のように,私たちも交流があって,歴史の1ページが作られて
いくことを実感いたします。もちろん川瀬さんと私の交流もその1つですね。

〉  ここまでやってようやく評伝を書き始められます。

ぜひその評伝を読ませていきだきたいです。
私との共同研究で,だいぶブレーキを掛けてしまったかもしれませんが…。

〉 あと5・6年かかるでしょうね。

どうぞ健康に気をつけて研究を進めて下さい。

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