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2019年7月15日 (月)

古田説(愛宕神社付近)から2.4キロ

グーグルで「有田・小田部遺跡」を訪ねてみた。

(川瀬さんによると,有田2丁目とのこと)

かつて古田氏が比定した愛宕神社から2.4キロ。

地名を見てみたら,愛宕神社の東西に豊浜と名柄川があった。

古田さんは,地名を重視したのかも。

こちらは「方位の考古学」。

違う方法で,ほぼ同じ結論を出している。

もしかして,もしかするかも。

(孝徳の難波長柄豊崎宮の位置については,大阪という説もある。

あちらも「難波」や「長柄」という地名を主張する訳だが)

Img_3551

丸い☑マークが古田説の愛宕神社。名柄川と豊浜も近くにある。

(地図をクリックすると拡大します)

Img_3550

     さらに南へ ↓

Img_3555

昨日川瀬さんが比定した有田・小田部遺跡。

(地図をクリックすると拡大します)

3つの方位が重なる政治の中心地である。

(東偏・正方位が九州王朝。西偏が近畿王朝。

8世紀には近畿も正方位をとる)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 有田遺跡の場所が違います。
 もう少し南。有田二丁目。そこに「福岡県立講倫館高校」がありますが、その高校のすぐ北東側に「小田部城跡」が表示される。ここが「有田宝満神社」。調べてみると祭神が近畿天皇家の祖先神たちだ。この神社のすぐ北側「2丁目」との表示があるところとその南側が「189次」の発掘現場で、西偏の官衙遺構が出た場所です。
 一応アドレスを貼っておきますが。
 https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92814-0033+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82%E6%97%A9%E8%89%AF%E5%8C%BA%E6%9C%89%E7%94%B0/@33.5623778,130.3327571,17z/data=!4m5!3m4!1s0x35419499af4420c7:0x6168fcabab5c46c5!8m2!3d33.5613318!4d130.3331069?hl=ja

古田説の愛宕神社からは南に2.4キロほどです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 古田説の愛宕神社からは南に2.4キロほどです。

それでは,ちょっと距離がありますね。
1キロくらいだと見えそうですが…。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

小田部という地名が入っていたので,
有田との中間かと思ってしまいました。
もっと南ということですね。

ここでちょっと「古田説」批判を。
古田さんが愛宕神社を孝徳の難波長柄豊碕宮としたのは、地名が背景にあると思います。
 まず多くの人の読み方。
 「なにわ・ながら・とよさき の宮」。
 古田さんはこの「なにわ・難波」は九州の博多湾沿いの入り江だと考え、古代の入り江に添った場所をまず考えた。
 そうするとこの愛宕神社の場所のすぐ西側には「名柄川・ながらがわ」があり、すぐ東の浜が「豊浜・とよはま」であったので、
 「ながらがわ」に添った「豊の浜」に突き出た「岬」という、先の名称にぴったりと考えたのです。

 しかしここに一つ大問題があります。「長柄」です。
 「長」は、音は「チョウ」、訓が「ながい」です。
 「柄」は、音が「エ」、訓が「つか」です。
 したがって漢字二字を読むときの通例では、最初を音で読めば次も音ですので、「長柄」は「ちょうえ」としか読めません。また最初を訓で読めば次も訓ですので「ながつか」です。
 音と訓をまぜてよんでも「ながえ」でしょう。
 だからどう考えても「長柄」を「ながら」とは読めないのです。

 日本書紀は漢文ですので読み仮名はありません。読みが分りにくいときは注で万葉仮名を使って読みを示していますが、この宮の名には注がないので、読みは不明なのです。
 ではどうしてこの「長柄」を「ながら」と読んだのか。
 誰がいつという問題は解決しませんが、書紀の難波をすべて大阪の難波と解釈してしまえば、その大阪に「長柄=ながら」という地名があればそれに飛びつくはずです。そして実際にその地名があった。だから「長柄=ながら」になったのではないか。

 こう考えると古田説の前提の一つが崩れます。
 そして愛宕神社の地形を考えると、たしかにここは古代の入り江に突き出た岬です。ただしかなり高い岩山です。はたしてここに宮を作ることが可能だったか。砦ならまだしもです。
 また「豊浜」の地名ははたしてこの岬の場所だけだったのかという問題が生じます。古代はもっと広い範囲を呼んだ地名だったのではないか。

 以上のように考えると、古代北九州の難波であっても、ここに絞ることはないと思います。

 今回の私の比定は、地名は一切考慮されていません。「長柄」も「豊」も。
 難波が九州の博多湾の入り江だということは以前から私も主張してきたことです。そしてこの入り江は東西二つに分かれており、真ん中に南から突き出た大きな半島の先端が、鴻臚館のあるばしょ。そして東の入り江はのちに「冷泉津」と呼ばれ、西の入り江は「草香江」と呼ばれたことはたしかです。
 この東の「冷泉津」が古代の「難波津」であることは間違いない。
 では東の「草香江」は古代には何と呼ばれていたのか?ここが不明です。
 地名の出てくる鎌倉時代の博多古図にリンクしておきます。
 https://y-ta.net/kusagae/

 今回の私の比定は純粋に「方位の考古学」のテーゼに依拠しただけ。遺構そのものの方位と年代。そしてその年代が100年後ろにずらされているとの認識。ここから東偏と正方位の官衙遺構は九州王朝の物で、西偏の同じ時代の官衙遺構は近畿天皇家のものとの認識が必然的に出てきた。
 九州王朝の宮の域に近畿天皇家の宮が同時に存在した時期があったのか。しかも6世紀末から7世紀前半という条件で。
 この条件にあてはまる宮はただ一つ。孝徳の「難波長柄豊碕宮」であったのです。

 今回「難波長柄豊碕宮」を早良区有田の地に考古学に依拠して比定したことで、この「草香江」を「長江」と呼んだ可能性が出てきたわけです。

※追伸
 お気づきかもしれませんが、「草香江」という地名はもう一か所あります。近畿の大阪の古代大阪湾の入り江の名が「草香江」です。そしてここに神武の一団が侵入して上陸した地が「くさか⇒日下」とされています。そしてナガスネヒコに敗れた神武が傷ついた兄を介抱しつつ大阪湾のに逃げ延びた場所が茅渟。
 そしてこの大阪の「草香江」の入り口の瀬戸が、昔は「浪速」とか「浪花」と呼ばれていたのを、書紀編纂時には「難波」と標記を変えたと書紀は注に示しています。
 一連の地名、難波・草香江・日下・茅渟の地名は、本来は北九州博多湾の入り江に関わる地名であったのだが、書紀の九州王朝史書から盗用した記事あるこれらの地名を皆、近畿王朝に関わる地名だと偽造するために、北九州の地名を盗んだのではないか。
 私はこう考えています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「方位の考古学」の有効性が明らかに出来てうれしいです。

〉  一連の地名、難波・草香江・日下・茅渟の地名は、本来は北九州博多湾の入り江に関わる地名であったのだが、書紀の九州王朝史書から盗用した記事あるこれらの地名を皆、近畿王朝に関わる地名だと偽造するために、北九州の地名を盗んだのではないか。
 私はこう考えています。

本当に地名比定が危険なことがよくわかりますね。

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