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2019年7月15日 (月)

有田・小田部(有田)遺跡は,孝徳の難波長柄豊崎宮ではないか(川瀬さん)

昨日の有田・小田部(有田) 遺跡(福岡県福岡市早良区)の精査の中で,

画期的な結論を川瀬さんが出された。

なんと有田・小田部(有田) 遺跡は,例の孝徳の難波長柄豊崎宮ではないかというのだ!

その遺跡の図を見ていただこう。

 Photo_20190715050901

(クリックすると拡大します)

東偏の遺構,正方位の遺構に加え,西偏の遺構がある。

私はそれを指摘しただけで「精査」を終わってしまったが,

実は「方位の考古学」にとって重要な局面だったのだ。

というのは,東偏➙正方位というのは九州王朝のものだが,

西偏があるということは,ここに九州王朝に代わって

近畿王朝の官衙が置かれているということになるからだ。

そこで,川瀬さんは建物データを調べてみた。

すると,以下のようなことが分かった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★東偏:181次と107次にまたがる東偏区画溝と正倉。7世紀末葉。
★正方位:82次からその南の77次107次にまたがる正方位の建物群。
    107次のSB01 東西棟正方位 8世紀中葉
    82次の1号東西棟、3度東   7世紀末葉~8世紀中葉
 したがって正方位の建物群は、7世紀末葉~8世紀中葉となります。
★西偏:189次の南に広がるⅠ期郡庁群。
   12度西偏。7世紀末葉~8世紀前半
 さらにこの少し北の66次にある西偏の南北棟。 7゜50´E 8世紀中葉。

 なんと、西偏の郡庁が、東偏の官衙と正方位の官衙の双方の時期に重なってしまいます。これを一体どう考えたらよいのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして,それに続き夜中に第2報のコメントが・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追伸
(1) 有田・小田部(有田) (7世紀後半~10世紀前半?)
 東偏官衙群と正方位官衙群。これは7世紀末から8世紀前半。100年ずらせば6世紀末から7世紀前半となり、九州王朝時代の最後を飾る時期。
 この時期に同時並行して存在した西偏の官衙群。
 これをどう理解したらよいか考えた。
 あと時代が50年あとならば8世紀初頭となり近畿王朝時代の官衙群と理解できる。
 でもそうではなく、周辺には九州王朝最盛期の東偏・正方位の官衙群が同時代に存在する。
解釈は二つある。
 一つはこの西偏官衙群が、先行する東偏もしくは正方位の官衙群を壊したあとにできたものである場合、先行する官衙群の遺物(土器や瓦)が大量に混ざった結果年代が先行する官衙群と同じになってしまった可能性。
 だが189次の図をみればわかるように、ここには先行する東偏や正方位の遺構は存在せず、むしろ後の時代の正方位の遺構しかないのだ。
 ここで想定できるもう一つの、唯一の解釈は、この西偏官衙群は近畿王朝の官衙だということ。そしてその最後の時代、7世紀前半と言えば、これは孝徳の難波長柄豊崎宮しかない。
 この遺跡群の位置を示す図を見てみる。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102906-14923/map1.jpg
 場所は室見川河口だ。そしてこの遺跡群の東側には、現在の博多大濠公園を含む広大な湾が存在した。古代の難波津だ。
 発掘報告書もこの遺跡を「那津官家」関連と考えている。
 この遺跡群は古代の難波津のすぐ西側の岸にあった可能性大である。
  ヤフー地図でこの場所を確認すると、189次発掘地のすぐ南200mほどは、室町後期の城・筑前小田部城推定地(有田宝満神社)で一帯は小高い丘である。この位置関係は孝徳の難波長柄豊崎宮にピッタリである。

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多くの人に議論されながら,なかなか結論が出なかった孝徳の難波長柄豊崎宮の場所。

もしかしたら「方位の考古学」のやり方なら解けるかも!

そんな風に今胸を踊らせている。

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コメント

正しくは
 難波長柄豊碕宮です。

 こちらにも解説を張り付けておきます。
  ここ福岡市早良区の有田遺跡の西偏官衙遺構が孝徳の難波長柄豊碕宮だとすると、この地名が逆に明らかになってきます。
 この宮の東側に広がる内海はのちに草香江と呼ばれたもので、南北に長い形をした内海です。だからこの内海が「長江(長柄)」を呼ばれたのではないか。その「長江」に突き出た「豊碕」の地に近畿天皇家の九州出先機関である宮が建設されたので、この名になった。
 そして書紀孝徳紀で明らかなように、この宮は孝徳の時に建設されたものではなくその前からあった。これは「難波長柄豊碕宮に都を移す」としか記述されないことから明らかです。
 この宮は孝徳の時期よりずっと以前からあり、近畿天皇家の九州出先機関だった。
 と考えると、この官衙遺構が「7世紀末から8世紀前半」に位置づけられるということは、100年実年代を動かせば「6世紀末から7世紀前半」となり、これは推古の時代からだという結論になりますね。

 おそらくこの西偏官衙の北にある、東偏と正方位の官衙遺構は、これは定説通りに「那津官家」で間違いないと思います。つまり書紀宣化紀にある、諸国の屯倉の税を集めた倉庫群。

 ここからもう一つ疑問が出てきます。
 では孝徳が死去した「難波宮」。九州王朝が「味経宮」へ都を移す前に都としており、「大化改新詔群」(ただしくは「常色改新詔群」)を出した都である「難波宮」はどこにあったのか、という問題です。
 私見ではこれは、室見川河口ではなくて、東のほうの那珂川河口の那の津に有ったのだと思います。
 那珂川河口の福岡市中心部にも正方位の官衙群があったと思いますが、たぶんそれでしょう。

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