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2019年7月17日 (水)

小郡官衙の「大変身」

東偏→正方位の変遷は,遺跡によって大きかったり小さかったりする。

小郡官衙のは,「大変身」の部類に入るだろう。

Photo_20190717053001

第Ⅰ期以前(西偏)→第Ⅰ期(西偏)→第Ⅱ期(東偏)→第Ⅲ期(正方位)

という変遷をしていくのだが,あまりにも変化が激しくて唖然としてしまう。

以下のような内容だ。(編年が100年ズレていると考えている)

第Ⅰ期以前(西偏)・・・?

第Ⅰ期(西偏)・・・7世紀後半 

第Ⅱ期(東偏) ・・・7世紀末葉~8世紀中葉

第Ⅲ期(ほぼ正方位)・・・8世紀中葉~後半

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

多元的国分寺研究の方にも書きましたが、Ⅰ期は東偏ではないでしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

肥沼さんへ

 この小郡の官衙群が東偏から正方位に建て替えられた実年代を、書紀の記述と照らし合わせると明らかにすることができます。もちろん編年を100年上にあげてのことですが。
 
 書紀孝徳紀の大化三年(647年)の記事の中に、次の一文があります。
 「是年、壊小郡而営宮。天皇、處小郡宮而定禮法。」
(この年、小郡を壊して宮を営む。天皇、小郡宮に居して、礼法を定める。」

 小郡官衙遺跡のⅠ期以前・Ⅰ期・Ⅱ期の様相は、かなり大規模な正倉群を伴っていることだ。すなわちこの時期にはここは小郡屯倉であったのではなかろうか。
 小郡官衙遺跡のⅢ期はそれまでの東偏のロの字型の官衙遺構を壊してその北側の正倉があった場所に大規模な区画溝を掘っている。区画溝で囲まれた官衙とは宮に違いない。そしてこの区画溝は正方位であり、その南にある掘立柱四面廂建物も正方位である。
 このⅢ期が宮であり、書紀孝徳紀の大化三年の記事に相当するものと思われます。

 この小郡屯倉⇒小郡宮への大改造はいかなる時期に行われたのか。
 すなわち大化二年(646年)の正月一日の改新の詔の中で「初修京師」と記して、天子の宮を中心として官衙群を置き、その周りに広大な東西南北の街路を伴う都を作ることを宣言した。
 この翌年のことだ。
 そしてこの新京の造営はまだまだ続いていたことは、白雉元年(650年)冬10月の記事に、「為入宮地所壊丘墓及被遷人者、賜物各有差。」とあって、「丘墓」(つまり大規模な古墳)を壊し人を移して宮の地所に入れた者には、各々褒美を賜る」と記述していることである。つまり新宮はこれ以前に古墳が作られ大規模な集落があった場所を壊して移動して作られたということだ。
 ではこの新宮の完成はいつか。
 翌年白雉二年(651年)の12月のことである。味経宮において二千百人あまりの僧尼に一切経を読ましめた。この夕べには、朝廷内に二千七百あまりの灯篭を燃やし、安宅・土側などの経を読ましめた。ここにおいて天皇は、大郡より新宮に居を移させた」と。
 時は「冬十二月晦」とあるから、12月30日のことだ。
 書紀はこの新宮をあたかも「難波長柄豊碕宮」であるかのように文面を偽造しているが、前後の関係から読めば新宮の名は味経宮であることは明らかだ。
 この新宮こそ時期から考えて正方位の街路を伴う大規模な宮城であることはあきらかで、太宰府遺跡の中の正方位のそれに相当すると思われます。

 大規模な新宮造営の最中に、そのすぐ南の平野にある小郡屯倉を改造して小郡宮として、新宮造営の指揮所兼、新たな政治を実施する拠点としたのではないでしょうか。
 このことを小郡官衙群のⅡ期(東偏・正倉院を伴う)⇒Ⅲ期(正方位・正倉院を伴わない)の変化が物語っていると思われます。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうごさいます。

なんだかすごいことになってきましたね。
それだけ「方位の考古学」が役に立つということの証明にもなりそうですが・・・。

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