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2019年7月19日 (金)

やはり九州王朝の本拠地・福岡県は違う!

「方位の考古学」の提唱に向けて,遺跡の精査の毎日だ。

先日書いた通り,九州入りしたのだが,

スタートの福岡県はさすがに九州王朝の本拠地だけあって,

件数も多いし,調査資料もたくさんある。

おまけに東偏から正方位の変化も極端に出ている。

先日の小郡官衙は特に極端だったので,

読者の皆さんも驚かれたことだろう。

Photo_20190719153101

こんなことが今から1300年前に実際に行われていたのだ。

これは九州だけの話ではなく全国(近畿の奈良や大阪を除く)で行われていた。

今川瀬さんと一緒にやっている全遺跡精査という仕事は,

「全国で」と言えるための資料作りであり,同時に九州王朝実在の証明と言ってもいい。

このところ分かってきたことは,「福岡県の遺跡では,意外と正方位の期間が短い」ということ。

一度東偏から正方位に変えたものの,何らかの理由で東偏や西偏に戻ったりしているということだ。

1つは外圧もあったろうし(正方位をできるのはアジア・チャンピオンだけだから),

もう1つは内圧(戦争反対の動き)もあったろう。

実際に近畿王朝は663年の白村江の戦いに参戦しておらず,「漁夫の利」を得ている。

九州王朝とその命令に従った勢力だけがとんでもないこと(敗北。王朝の滅亡)になったのだった。

それを地下に刻んでいるのが,このところの精査で分かった「

福岡県では,意外に正方位の期間が短い」の事実だ。

そんなことまで,精査するとわかるんです。

私たちの「方位の考古学」の研究に関心のある方は,

ぜひ多元的「国分寺」研究のサイトを訪問してみて下さい。

川瀬さんの熱い指導の下,肥さんがボチボチやっています。(笑)

【多元的「国分寺」研究サークル】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 なぜ福岡県(筑前・筑後)では「正方位の時代が短い」のか。
 筑前でも筑後でも、正方位の出現は実年代で言うと(編年を100年古い方にあげると)、6世紀末だ。もっと詳しく言うと、6世紀第三四半期と末の間。そして存続期間が意外と短く7世紀第一四半期までだ。
 存続期間がわずか25年。掘立柱建物の一世代だ。
 だが詳しく見てみるとこうは単純に言えない。
 正方位の出現期間が6世紀末から7世紀第一四半期である遺跡は、主なものでは「上岩田」遺跡と「ヘボノ木」遺跡と「筑後国府」遺跡だ。
 すべて筑後国のものであり、国府と評衙と考えられる遺跡。
 これに対して正方位が7世紀第一四半期以後まで続くものがある。
 一つは筑後国の「小郡官衙」遺跡群。ここではそれまでの東偏を正方位に建て替えられたのが、8世紀中葉~後半になる。ここは小郡屯倉を宮に改造して小郡宮としたもの。
 もう一つが筑後国の「上岩田廃寺」遺跡。ここは「678年筑紫国地震で倒壊後、井上廃寺へ機能移転」したものと見られているが、この寺院は正方位だ。7世紀第三四半期以前に作られたもの。
 さらにもう一つが太宰府政庁だ。
 この正方位の遺構群の年代は8世紀第1四半期~10世紀中葉。実年代でいうと7世紀第一四半期に作られそのまま9世紀中葉まで正方位のまま維持された。

 以上の例の検討からわかることは、
1:6世紀末以降、九州王朝は主な官衙や寺院を正方位に建て替えた。
2:しかし7世紀第二四半期になると、地方の国府や官衙は正方位から元の東偏に建て替えた。
3:だが一方で太宰府や上岩田廃寺のような重要寺院は正方位のままその後も長く維持された。

 1は隋王朝への対抗措置と思われる。九州王朝が西偏から東偏に意図的に官衙や寺院を建て替えたのは6世紀第三四半期以後。つまり6世紀中頃以後。これは九州王朝が独自の年号を持ち、「日本国天皇」を名乗り始めた時代。これ以前は中国宋王朝に朝鮮半島支配権を認めさせようと尽力したが結局無視された。おそらくこの無視に対して、「我こそ中国正統王朝の正当な後継者なり」との意思を示した行為だったと思われる。
 だがやがて中国正統の南朝は滅ぼされ、代わって北方の蛮族遊牧民である北魏や隋が中国統一王朝として立ち現れ、591年には隋が南朝陳を滅ぼして統一王朝を築く。
 ここに九州王朝は、蛮族の王朝隋に対して「我こそ中国正統王朝を継ぐ者なり」との自負を込めて、都や官衙・寺院を隋と同じく正方位に建て替え、隋二代皇帝に対して「日出るところの天子、日没するところの天子に書を致す。恙なきや。」の隋から見れば極めて無礼な国書を送りつける。7世紀初頭の話だ。1の正方位の都や官衙寺院群は、この隋に対抗した意識の現れだ。

2:はこの路線の修正と思われる。都だけではなく全国の国府や評の中心である評衙や、国寺や評寺まですべて正方位に建て替えるのでは、あまりに巨額の資金を必要とする。そして大化改新(正しくは常色改新)の詔のように隋や唐に対抗した統一王朝を目指すのでは、その資金や巨大な軍隊を用意する資金の巨大さが、王朝にのしかかったものと思われる。肥沼さんが指摘されたように、王朝内部から不満や反対の声が噴出したことだろう。とりわけ九州王朝が隋唐と対抗し始めたのと同じ時期に、近畿天皇家は隋に独自に使いを送り、忠実な臣下として朝貢しようとしていた(推古朝の遣隋使外交)。一族で分家である王家が本家に反旗を翻したわけだ。
 このため九州王朝は路線修正をしたのではないのか。つまり分王朝まで正方位への建て替えは強制せず(実際近畿天皇家はわざわざ西偏にしていた)、さらには九州王朝の畿内近国においても、都である太宰府や諸宮や迎賓館である鴻臚館など、外国の賓客も迎える可能性の高い施設(ここには有力寺院も入っていたと思われる)だけは対外硬派の姿勢を貫いて正方位のままにしたが(つまり3)、地方国府や評衙などはあえて正方位にせず、従来の東偏に戻したり、正方位に建て替えないままにしたのではないだろうか。
 こう考えると、2と3という異なる対応が同時併存することの意味は理解できると思う。
 もう一つ正方位への建て替えが維持されたのは、その建物が従来の掘立柱ではなくて礎石建物だったからではないか。
 礎石の上に柱を載せることで建物の寿命は一気に数倍に延びる。従来のように20年に一度の建て替えではなくなったわけだ。その上屋根も檜皮葺から瓦葺に変化してさらに寿命は延びた。

 だが九州王朝中枢で正方位の宮や官衙・寺院の多くを維持できたのは、7世紀も後半までだったのではないのか(太宰府を除く)。白村江の敗戦の痛手による財政の崩壊とそこに襲いかかった筑紫地震の衝撃。そしてすでに正統王朝としての統合力も衰え近畿天皇家に乗っ取られつつあった九州王朝は、次第に正方位の官衙群を維持できず、従来の東偏もしくは近畿天皇家主導下での西偏官衙へと変わって言ったのではないだろうか。
 そして697年の文武への譲位と701年の大宝律令発布によって列島支配権を吸収した近畿王朝は、今度は中国から自立したような動きを示し、全国の宮や官衙や寺院を正方位に建て替えていったのではないだろうか。この時近畿王朝は、重要な建物を全て礎石建物で瓦葺としたものと思われます。

 官衙や寺院の方位の変遷を以上のように考えています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「方位の考古学」という仮説が,全国の遺跡の精査によって,
さらに細かい歴史の流れも明らかにしてくれています。
府中研究会の際,「遺跡は嘘をつかない」と何回も思いましたが,
全国の遺跡精査でもその感を深くしますね。

肥沼さんへ
>遺跡は嘘をつかない

 その通りですね。でも遺跡を正しく読み解く力を歴史を研究する側が持っているかどうかにかかります。私たちの武器は、
1:4世紀から9世紀の時代は磁気偏角が西偏だから、磁石に添って建物を建てれば西偏になる。東偏にしたり正方位にしたりするのは、何か政治的意図があるに違いない。
 この肥沼さんの「気づき」を基礎に、
2:九州王朝は、建物の方位を、西偏⇒東偏⇒正方位に替えたのではないか
 との仮説を立て
3:東偏も正方位も、どちらの中国王朝の都の方位に倣ったのではないか
 と仮説を立てて、中国の都と日本の古代官衙・寺院遺構を再検討したところにあります。
 建物の方位は従来も注目されていたが、それが政治的意図のもとにあるとの考えは、肥沼さんがはじめて提唱したものと言えましょう。そしてこの仮説を実証したのが、中国の都の設計思想の変遷についての佐川英治氏の歴史的研究、『中国古代都城の設計と思想―円丘祭祀の歴史的展開』(勉誠出版2016年刊)だと思います。
 この中国都城の研究に後押しされて、まず大和の古代寺院官衙の精査を初め、ここで初めて、
1:正方位の建物は6世紀末の飛鳥寺に始まること
2:その前は東偏で建物は作られていたこと
3:近畿天皇家では一時的に6世紀末に正方位にしたが、すぐさま西偏に戻したこと
4:近畿天皇家では7世紀の末以後はまた正方位に戻していること
 を確認できたので、
 先の、西偏⇒東偏⇒正方位との仮説が実証され、さらに近畿天皇家は6世紀末・7世紀初頭以後は九州王朝からの独自路線をとっていることが建物からも実証され、さらに7世紀末に九州王朝から近畿王朝へと権力が移行したことが建物方位からも実証された。
 これは、前者は、私の書紀推古紀を「主語有無の論証」を武器に読み解いた、推古朝の対隋独自外交論を実証したものですし、後者は従来古田さんとその学派が説いてきた九州王朝から近畿王朝への権力の移行説を実証したものでもありました。

 そして全国の遺跡を精査する中で、先に服部さんが示した素弁蓮華文軒丸瓦は6世紀末から7世紀初頭に一斉に全国に展開したのであって、現在それが近畿を基準にして、東や西に行くほど時代が下げられているのは近畿一元史観の間違いとの提起を、瓦だけではなくて土器でも実際にこうした編年操作が行われている痕跡を見つけ、
 九州地方(100年あと)←中國四国地方(50年あと)←近畿⇒中部地方(50年あと)⇒関東東北地方(100年あと)
 という近畿一元史観による土器・瓦編年の歪みをほぼ摘出した。

 こうした成果を元にしていよいよ九州王朝の中枢を精査したところ、以上の認識をさらに確固としたものとしただけではなく、九州王朝内の動きまで見出すことができたのです。

 考古史料・古代の寺院官衙遺構を読み解く武器・歴史観を私たちがもっていたからこそ、「遺跡は嘘をつかない」ことを実感できたのです。
 そしてこの間、孝徳の難波長柄豊碕宮の発見や、孝徳紀に見られる九州王朝の宮・小郡宮の発見が、私の日本書紀を「主語有無の論証」を使って読み解く方法の正しさをもまた証明しつつあるのだと思います。
 こちらもまた「史料は嘘をつかない」です。
 日本書紀という古代史料を読み解く武器・歴史観を持っていれば、隠された歴史、古田さんが十分には明らかにできなかった列島の古代史の実相を、明らかにできるのだと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

素晴らしいまとまった内容だと思いますので,
川瀬さんの名前でアップさせていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。

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