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2019年6月27日 (木)

「方位の考古学」の副題?

「方位の考古学」という題名は,とてもいいと思っているのだが,

「何を言いたいのかよくわからない」とも言えそうである。

そこで,副題みたいなのを考えてみた。

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(1)九州王朝は,南朝に使いを送って学んだ。(「倭の五王」は九州の天子。南朝の柵封を受けた)5世前半~5世紀半ば

(2)九州王朝は,各地の官衙・国寺・主要都市を東偏にさせる政策を取った。5世紀後半~6世紀半ば

(3)ところが,6世紀後半に南朝がほろび,北朝が力を持って正方位を取ると,九州王朝も正方位を取った。

(4)それに対して,近畿王朝は,正方位にはせず,西偏させて反九州の意志を示した。

(5)その後,白村江の戦いで九州王朝が滅びるとと,近畿王朝も正方位を採用した。7世紀末

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本屋に行くと,『〇〇の考古学』という本がたくさん並んでいる。

〇〇に入るのが物質であることもあるし,地域や時代であることもあり,その内容はいろいろだ。

しかし,これらの本の共通点は,「一元史観とぶつからない」というところである。

いろいろな角度から研究をしてはいるが,結局『日本書紀』の内容と整合させていたのだ。

しかし,方位の考古学は違う。いわば,「多元史観を認めるか認めないか」という

一大結論に関わってくる考古学だからである。

そこが,「あの山のような『〇〇の考古学』の本の山の中に,

入れられるべき価値ある1冊である」という自負だ。

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※方位の考古学の提唱は,当然「国分寺建立の詔」への批判(聖武天皇が述べたのは,七重塔のみの建設命令),

土器編年への批判(地方によっては,50~100年のズレ)なども含みます。

 

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 この副題では言いたいことを全部書いてしまっていて長すぎです。

 要点は「古代遺跡の方位を知れば、その年代も、それを建設した王朝も識別できる」でしょう。

 肥沼さんが立てた仮説は、
  「九州王朝はそれまで東偏で作っていた官衙を6世紀末以後正方位に変更した」。
 です。
 そしてその理由を探求したところ、
 「東偏は九州王朝が朝貢した漢魏と南朝の都が東偏だったので、これに倣った」。
 「新たな中国統一王朝が隋が、都を正方位で作ったので、九州王朝もこれに対抗した」でした。

 ここからわかったことは、
 九州王朝は少なくとも6世紀末までは東偏で官衙を作っていた(始原は不明)。
 九州王朝は6世紀末以後正方位で官衙をつくった。

 さらに全国の遺跡を精査したところわかったことは、
 近畿天皇家は、6世紀末までは九州王朝と同じく東偏で官衙を作っていたが、6世紀末以後は西偏で官衙をつくり、7世紀末以後は正方位で官衙をつくった。
 でした。
 この大和と近隣のいわゆる畿内遺跡の検討が示したことは、
 近畿天皇家は6世紀末までは九州王朝に従っていたが、6世紀末以後これに逆らう・独立した傾向をとるようになった。
 であり、これがちょうど書紀に見られる推古朝以後の独自外交路線に符合する。
 そして近畿天皇家が正方位で官衙をつくるようになったのは、天智・天武の時代以後なので、これは白村江の戦いで九州王朝が事実上崩壊して以後であり、列島統合権力が近畿天皇家に移行し始めた時期以後であることに符合する。

 そしてこれらの東偏・正方位が政治的と判断できるのは、この時代(すくなくとも紀元4世紀から10世紀ごろまで)には磁石は西偏(磁気偏角が西に偏っている)であったという自然科学的事実が背景にある。

 以上の結果官衙や寺院遺構の方位がわかれば、その年代と作った王朝がわかる、という結論にいたったのです。
 6世紀末以前:全国どこでも東偏(始原は今のところ不明)
 6世紀末以後:九州王朝の支配領域では正方位。
          近畿天皇家の支配領域では西偏。
 7世紀末以後:近畿天皇家の支配領域では正方位。(ただし地方にはかなり西偏があるので、近畿天皇家の統合力は九州王朝より弱いと見える。つまり地方勢力が磁石を使って官衙を建てたので西偏となったのではないか)。

 以上が「方位の考古学」の要点とテーゼです。

そしてこの考え方で遺跡を精査したところ明らかになってくるのが、土器や瓦による通説的編年が、近畿⇒地方に文化が波及するときに年代差があると仮定されていて、
九州(100年遅れ)←中國四国(50年遅れ)←近畿:0年⇒中部地方(50年遅れ)⇒関東・東北(100年遅れ)
 となっているのではないかという判断が出てきました。
 実際は九州王朝の統合力は強く、文化の波及は、全国一斉と考えるべきではないか、つまり年代差はなしと考えるのが、今のところの結論です。

 以上「方位の考古学」をまとめてみました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 要点は「古代遺跡の方位を知れば、その年代も、それを建設した王朝も識別できる」でしょう。

そうでした。もうだいぶ長く方位をやって来たので,いざ書こうとすると長くなっちゃいました。
ありがとうございました。

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