『官衙・集落と鉄』
神保町の三省堂に寄ったら,
上記の研究報告書が古代史のコーナーに並んでいた。
前に紹介した『長舎と官衙の建物配置』より3年前の
2011年発行のものである。
それがちょうど鹿の子遺跡の報告を含んでいた。
報告者たち(小杉山大輔さん・曾根俊雄さん)によると,
鹿の子遺跡(特に常磐自動車道に当たった鹿の子C遺跡)には4つの段階の変遷があるということだ。
(1)8世紀第3四半期・・・突如として形成が始まり,8世紀第4四半期~9世紀第1四半期にかけて官衙ブロックが盛期を迎える段階。
※小札の割合が高い。
小札かたびら(こざねかたびら)は戦闘の際に身を守るために着用した甲冑のことである。 布または皮の外套の表面に鱗状の金属の板を張り合わせたものであり、通常は、胸や肩や背中を覆うものであるが、膝や足首にまで達するものもあった。
(2)9世紀第2四半期の官衙ブロックの機能は弱まるものの,鍛冶工房は存在する段階。
※小札の割合が減る。釘は一定量継続して出土する。
(3)9世紀第3四半期の鍛冶工房は消え,一般集落となる段階。
(4)10世紀の墓域となる段階。
東偏が特徴と思われる(1)の時期は,100年歴史をずらせば九州王朝の時代のように思われる。
それに対して(2)は,出土物にも変化があり,近畿王朝のような気がする。
また,「推定官道」を補った地図も出ていて,もしその推定が正しいなら,
常陸国府周辺の諸機関の配置が,武蔵国府周辺の諸機関の配置と大変よく似ていて,
「やはり同じ王朝が街づくりすると,同じような街ができるのだなあ」
という感想を持った。(そうすると,東偏の「国府」は国分寺の南にある?)
恋瀬川を多摩川だと思って,考えてみました。
東山道武蔵路が国分寺と国分尼寺の間を通り,武蔵国府に到る・・・。
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肥沼さんへ
「鹿の子遺跡」は広いので名前がいろいろかわっているのですね。奈文研のサイトではこのC遺跡はAと表示されていた。
(1)8世紀第3四半期・・・突如として形成が始まり,8世紀第4四半期~9世紀第1四半期にかけて官衙ブロックが盛期を迎える段階。
ここを編年を100年上げると、
7世紀第三四半期(650-675)。ぎりぎり九州王朝時代だが東偏ではおかしい。この時期は正方位だ。そして遺跡図を見てもほぼ正方位。
官衙最盛期は7世紀第四四半期(675-700)~9世紀第一四半期(800-825)。
つまり最盛期は近畿王朝の時代だ。
投稿: 川瀬 | 2019年6月18日 (火) 14:33
追伸
常陸は蝦夷を攻める際には前進基地。当然甲冑の生産が大事になる。
(1)の最盛期:8世紀第4四半期~9世紀第1四半期はそのままだとまさしく桓武朝の蝦夷征服期に重なるから発掘者は、甲冑の材料である小札が多いことになっとくしている。
でも100年あげれば7世紀第四四半期~8世紀第一四半期にとなり、これは九州王朝から近畿王朝に権力が移行したじき。この時期に小札が多くでるということは、九州王朝説でしか説明できない。つまり権力中枢が移行した時期に、聖武朝にまさしく蝦夷反乱が起きているのだ。
桓武の時期は第二次の蝦夷征服期。
東偏の国府は、国分寺の南というより、国分寺僧寺の西南。正方位の国府の北西側だ。私が前に推定した場所。
この地図にはいくつも古代道路が掘られていることがわかる。
正方位の物が鹿の子遺跡の東西に。南北道。そして少し西偏の南北道が国分遺跡から。
興味深い地図だと思います。
投稿: 川瀬 | 2019年6月18日 (火) 14:44
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 (1)8世紀第3四半期・・・突如として形成が始まり,8世紀第4四半期~9世紀第1四半期にかけて官衙ブロックが盛期を迎える段階。
ここを編年を100年上げると、
7世紀第三四半期(650-675)。ぎりぎり九州王朝時代だが東偏ではおかしい。この時期は正方位だ。そして遺跡図を見てもほぼ正方位。
官衙最盛期は7世紀第四四半期(675-700)~9世紀第一四半期(800-825)。
つまり最盛期は近畿王朝の時代だ。
そうですか。最盛期は,近畿王朝の時代ですか。
ということは,九州王朝の時代にも鍛冶があったことはあったが,
それほどではなかったということですね。
投稿: 肥さん | 2019年6月18日 (火) 15:10
肥沼さんへ
方位の考古学の成果をしっかり把握してください。
●九州王朝
6世紀末まで:東偏
6世紀末以後:正方位
●近畿天皇家
6世紀末まで:東偏
6世紀末以後7世紀末まで:西偏
7世紀末以後:正方位。
全国の古代寺院官衙遺構を精査し(途中ですが)ほぼこれで正しいとなっています。
そしてこの結果、編年が地域によって動かされている可能性も大。
●九州地方:100年下げる←中国四国地方:50年下げる←近畿地方:ここが基準。
近畿地方⇒中部地方:50年下げる⇒関東東北地方:100年下げる。
以上の二つのテーゼをきちんと組み合わせて考えてください。
あと「第○四半期」というのもちゃんと押さえているかな?
100年を25年ごとに四つに区切ったものです。
第一四半期:0年ー25年
第二四半期:25年ー50年
第三四半期:50年ー75年
第四四半期」75年ー0年
以上三つが分っていれば、鹿の子C遺跡の最盛期が九州王朝時代などというあやまった解釈は出てきません。
あと鹿の子C遺跡はほぼ正方位です。
この遺跡はここに示された東偏の南北街道には時代的に対応していないと思います。正方位の国府の東を正方位の南北に有る街道に対応している。
だから九州王朝時代末から近畿王朝時代の遺跡。
この遺跡よりずっと西に、以前鹿の子遺跡と呼ばれた遺跡があります。上の地図だと9-B 11のあたりです。ここが東偏の製鉄遺跡ですから、これが九州王朝時代だと思います。
投稿: 川瀬 | 2019年6月18日 (火) 17:16
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
四半期については,「勇み足」があると思います。
「揚げ足」を取るつもりはありませんが・・・
第一四半期:1年ー25年
第二四半期:26年ー50年
第三四半期:51年ー75年
第四四半期」76年ー0年
という分け方だと認識しています。
川瀬さんの場合「26年」「25年」「26年」「25年」となって,
足すと1世紀が102年になってしまいますので。
〉 あと鹿の子C遺跡はほぼ正方位です。
方位の矢印が少し「東偏」しているのを見逃していました。
見に行った際「この建物は0°です」という説明があり,
それが1棟だけだったので,「他は違うのね」と思ってしまいました。
これを中心建物と考えれば,正方位の遺構になりますね。
投稿: 肥さん | 2019年6月18日 (火) 17:59
肥沼さんへ
四半期の分け方の訂正ありがとうございます。
それから二つ前のコメントに間違いがありました。
>この遺跡よりずっと西に、以前鹿の子遺跡と呼ばれた遺跡があります。上の地図だと9-B 11のあたりです。ここが東偏の製鉄遺跡ですから、これが九州王朝時代だと思います。
訂正
鹿の子遺跡とばかり思っていたSBO1は、鹿の子C遺跡のすぐ東側、第六次調査の所の製鉄遺構とそれの覆屋(SB01)でした。東偏に見えていたのは、この図の方位記号が変だからです。ほぼ正方位。
したがって鹿の子の製鉄遺構に東偏時代はないということになります。
投稿: 川瀬 | 2019年6月18日 (火) 23:21
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 したがって鹿の子の製鉄遺構に東偏時代はないということになります。
常陸国分尼寺が東偏だということで,九州王朝の遺跡かと期待を掛けたのですが,
「まったく時代が違う」ということなのですね。
投稿: 肥さん | 2019年6月19日 (水) 07:00